蝶々
タール1mg、ニコチン0.1mg。煙草はメンソール多めで味が薄いものと決めている。
煙を燻らせながら、夜の街を徘徊した。
私はびびりな臆病者だ。煙草の度数を上げられないことがその証拠。しかも隠れて吸っている。なんとなく友人に喫煙者だと知られるのは格好悪い気がして、隠れてこそこそ喫煙しているほうがかっこいい気がして、ただそれだけの理由で百害有って一利無しの浅い嗜好を続けている。
夜の徘徊だって嘘。ただ、レンタルしていたCDを返却しに行くだけ。
都会の濁った夜空をバックに煙草の煙を漂わせながら気の向くままに歩く一人の女、っていうのはなんかミステリアスで惹かれるかなって。
夜中の午前2時をまわる頃、女がひとりで出歩くのは危険だとはいうけれども、今までそんな危険に遭遇したことは無かったし、スッピンよれよれトレーナーにジーパン姿、この色気無しの女を襲う男がいるとすれば、私はその男の頭を本気で心配する。そんなことを思いながらも、もしかするとの期待と不安が心のどこかにあることは否めない。妙なスリリングを味わいながら肝試し的な感覚で足を繰り出しているところも実はあったりする。‥なんか浅くてダサい。
夜の散歩は嫌いではない。自分を振り返ることができるから。しょうもない自分のことだが。大学の最高年になったというのに、未だに大人になれなくて、振り返る度に自責の念に駆られる。親から手渡された就職成就のお守りだって見て見ぬ振りをする。見ていたら胸が痛くなる。大学に入学したての頃は夢や希望に満ち溢れていた気がするのに。一つ下の後輩が増えていく度に、大人になりきるタイムリミットが迫っていることに焦燥をジリジリと感じた。現実はわかっているつもりだった。でもその反面で自分の無力さを自覚することはつらかった。理想の自分に追いつくことは、自分の能力を見るたびに不可能だとどこかで自覚していて。最初のうちは悔しかったからまだ泣けた。でも、今はもう涙も出ない。そんな周りも気づかない変化を顧みれば、自分を擦れたなと思う。根から持っていたびびり根性が年を重ねるごとに育っている。こんなもの、老成させてもつまらないろうに。あがくことから逃げることが、当たり前のようになっていった。就職活動に関してもそうだ。就活を乗り越えるということは、大人になることを逃げ切ってきた子どもが大人になるために、最後に課された試練なのだ。私はそれを知っていて、今も逃げ続けている。
来た道を折り返し、灰がかった紺色の空を眺めて、ふと目の前を見れば道は無駄に光に満ち溢れていた。夜中だというのに街頭は明るいは、タクシーはたくさん通るは、コンビニの明かりは眩しいは。田舎は山ばかりあれど、他はなんにもなくて夜は暗かった。そんな場所に閉塞感を感じで上京してみたが、来てみれば眩しいと文句を垂れてばかり。所詮環境は変わっても、人間性がこんなものなら状況は変わらないのだ。今と昔を見比べてどんよりとした感情が心をくすぶっているのを自覚し、これが感傷に浸るということなのかと遠くを見つめながら思った。
さらなる自己陶酔に浸るきっかけとなったのは、マンションの前で埋もれたいた一匹の蝶々。否、左肩に洒落た蝶の刺青をいれた女性。思わず目を奪われて足を止めた。彼女は私のことなんて全く気づいていないであろう。長い髪を右肩に寄せ、左肩には蝶々。背中がざっくり空いた、上品なボーダーのワンピースを着ていて、華奢な体を折って、背中を丸めていた。顔は見えないが、きっと美人なんだろうと勝手に想像した。細い腕で小さな体を一人で抱え込む姿が、寂しそうで、とても孤独そうで、泣いている様にも見えた。マンションの明かりに照らされながら、誰にも助けられることもなく埋もれる蝶々は、まるで帰る場所を見失って一匹で竦んでいる気がした。私は無性に悲しくなった。同時に、そのかよわい姿にとてつもなく色気を感じた。華奢な背中を包み込んであげたいとさえ思った。
胸の鼓動が聞こえたときに、私はハッとした。罪悪感を覚えた。何を考えているのかと自分に呆れた。私は別に同性愛の趣味はない。頭をふって、踵を返す。頬が上気していたことに気づかぬ振りをして、歩く速度を速めた。古いアパートの階段を上がるまで、彼女のことで頭が一杯だった。自分の部屋の扉の前で、鍵を手に取ることを渋る。あの人は、もしかすると朝まであのままなのだろうか。一抹の不安が燻った。誰の助けも請うことができず、纏足された蝶のように孤独を抱えるままに。下手をすれば無邪気な子どもを装った汚い大人に、あの細い体を捕まえられるのではないだろうか。考えれば考えるほど泥沼に陥っていく。自分の、無駄に臆病なくせにお人好しな性格を呪う。しかし、体調が悪くてあそこから動けないのであれば、それはとてつもなく辛いということを知っている。いや、知っているといっても、調子にのって泥酔して、一人になったとたん頼る人がいなくなったと心細くなる、そんなどこにでも転がり落ちていそうな体験談を知っているだけであるが。少なくとも私はそんな時に、聖母のような優しい大人の女性に助けを請いたい。優しくされたい、と思ってしまう。
逡巡して、溜息。
―――手持ちの金が、足りない。
唯一誇れるなけなしの良心を武器に、ガチャリと扉を開いて財布をひっつかんだ。
腹が決まれば行動は早かった。財布を開けば残金は350円。貯金が苦手な自分に辟易としながら、向かう先は不健康な明かりが差すコンビニエンスストア。
まっすぐATMへ向かい、金をおろす。いつもは手数料を気にするくせに、と自嘲する。頭の中はあの蝶の刺青で占められていた。あの蝶を助けたい一心だった。別に彼女は泥酔していると決まっているわけでもないのに、そうと信じて決めつけた。ポカリスエットと二日酔いに抜群だと確信しているお気に入りの滋養ドリンクを迷いなく手に取り、店員に袋に入れてもらった。彼女がいろんなものをぶちまけられるように、普段はちんけなビニール袋もこんな時には役に立つ。会計時には、いつもついでとばかりに煙草を買っていた。そんな習慣が身にしみていたのか、私は店員の後ろにある煙草に目配せした。
――私は、あの蝶を、孤独から助けることはできるだろうか。彼女を、救えることはできるだろうか。聖母のように優しく、大人の女性になれるだろうか。
高鳴る鼓動を、理性―私は、ただ女性を介抱しに行くだけだ―で抑えつけながら、早歩きであのマンションへ向かった。シュミレーションは頭の中で何度かした。直前で、声をかける勇気がなくなっても行動できるように。手に汗握りながら、どもらないように口の体操をする。色気漂う彼女の背中に手を差し伸べ、「お姉さん、大丈夫?」と声をかける。きっと美人な彼女は青白い顔を覗かせながら、申し訳なさそうな表情で「ありがとう、助かるわ。」と弱々しい声を漏らし、小さく微笑むのだ。そして私は優越感に浸りながら、どきりと一瞬胸を高鳴らすのだ。
早くあの人を助けなければ。
あの蝶が孤独で寂しくて死んでしまう前に。
誰かが自分より先に、助け出す前に。
――――結果報告。蝶は姿を消していた。
ビニール袋片手に家路について、真っ先にポカリスエットの蓋を開ける。
「手数料216円、損したわ。」
拍子抜けついでに一人ごちると、虚しさが寒々と心を駆け抜けた。一気飲みの要領であまじょっぱい飲料を飲み込む。なんでもがぶ飲みしてしまう性分で、酒なんかだとすぐに悪酔いしてしまうが、スポーツ飲料ならば問題はないだろう。なんら心配もない。
湿り気のある布団に腰を下ろし、臀部にがさりとした感触。
あぁ、そういえば。
ジーパンのポケットからクシャリと潰れた煙草を取り出す。
慣れた手つきで机の上の百円ライターを手に取り火を付ける。
深く、肺に染み渡るように吸い込んで、ゆっくりと煙を吐き出した。
頭がくらりとする。
うん、やっぱり慣れない度数は効く。
煙草の箱の側面を確認。
タール12mg。ニコチン1mg。味はこっくりと深い。
喫煙者でありながら煙草の銘柄に疎い私でも知っていた、赤のマールボロ。かつて大学の先輩が吸っていた赤マル。その姿は妙に大人びていて、とくに深い理由もなく感心した。
何気なくあたりを見渡して、地面に放置していた親からもらったお守りを発見。薄い青色の布地に濃い紫の文字で「就職祈願」。じっと見つめていたら何故か紫字があの蝶に見えてきた。さっきまでの意味のない衝動に任せた自分の行動を鮮明に思い出し、じわじわと頬が熱くなるのを感じた。そんな自分を押し隠す様に、お守りをひったくり握り込む。忌々しい思いがした。なんだか大人になりそこねたような気になった。びびりで臆病でいざとなっても頼りにならない自分に再三嫌気がさした。
いじけたようにぷぅ、と息を吐き出す。いつもより煙の色が濃い様に思う。小説なんかで煙草の煙が「紫煙」と表現されるが、言い得て妙だと納得。外から漏れる光に当てられて、確かに紫色に見えた。そして紫煙は蝶へと変化する。忌々しいあの蝶へ。私をあざ笑うかの様にひらひらと漂い、消えていく。
不意に目が滲んだ。こんなことで、と心底呆れた。決して泣くまいとよれたトレーナーの裾でまぶたを押しつぶす。親の情がこもったお守りが熱く感じた。
私はまた、大人になりそこねた。
左肩に蝶を持った彼女は、誰かに助けられたのだろうか。私以外の、大人によって。
それとも、
無意識に選択から除外されていたもうひとつの可能性。
だれかに助けられるまでもなく、自力で飛び立ったのかもしれない。びびりでもなく、臆病でもなく、断固とした意思をもった、期待に応える勇敢さをもって…。
煙草をもう一度深く吸い込み、少し咳き込みながらも蝶の幻影を創りだす。苛立ちに紛れながら、嫉妬にも羨望にも似た妬ましい眼差しで睨んだ。こぼれそうな涙をひっこめようと画策しながら。
近いうちに、私の手で触れることができればいいと思う。びびりも臆病も克服して、誰からも頼られ、存在だけで安心してもらえるような、自分はそんな立派な大人な女性であると胸を張って断言できる時に。
いつまでかはわからないが、私はこの蝶と縁が切れなさそうだ。
もし最後まで読んでくださった方がいたら、本当にありがとうございました! 貴重なお時間を割いてくださって申し訳ない気持ちと、感謝の気持ちでいっぱいです。自分で言うのもなんですが、とんだオ○○ー小説になってしまいました(本当にすみません‥)。大人になりきれない大人世代の方々に共感してもらえれるところがあれば嬉しいです。小説を書く事にはまだまだ不慣れで曖昧な表現や稚拙な文章もあり、沸々と怒りがこみ上げてくる方もいらっしゃったかも知れません。これから鈍足でありますが、もっと思いの丈が伝わるように精進していきたいと思います。