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海底編◇第五話

 この場所では、拍子木の音で時刻を告げる風習があるようだ。耳慣れないその音が最初はなにかわからなかったが、よくよく思い出せば大相撲の土俵で鳴らされているものと似ていると気づく。

  いくら空を仰ぎ見ても太陽らしきものはどこにもなく、それでも光源の位置が時間の経過と共に移動しているのがわかる。

  ――遠い水面の向こうで、太陽が動いているということなの……?

  未だに信じがたいことばかりであったが、自分が暗闇の海に落ちたことだけは真実だ。そして本当に「海底」に辿り着いてしまったのだろうか、そんな話が本当にあるのか。

  否定を裏付けるだけの材料があまりに少なすぎて、いつの間にか自分自身があり得ない話の中に呑まれていくような気がする。

  軽めの昼食を食べ終えてしまうと、そのあとはなにもやることがなくなってしまった。

  鈴という侍女も他にいろいろとやるべき仕事があるらしく、沙弓ひとりに構ってばかりいられないようである。結果、ぽつんとひとりで取り残されることとなり、すっかり暇を持て余してしまった。

  他の者たちは、そんな沙弓を遠巻きに眺めているばかりである。見慣れぬ姿をした客に興味はあるのだろうが、自分から進んで話しかけたり世話を焼こうという気は起こらないようだ。これではまるで珍獣にでもなった気分、正直あまり気分の良いことではない。

「この身体に海底国を救う力が宿ってる? ……そんなこと、どうして断言できるのよ」

  花色の着物の袖からぬっと出た自分の腕を、沙弓はまじまじと見つめていた。

「しかも、その方法もわかっていないなんて、あまりに乱暴すぎるじゃないの」

  まったく、他力本願もいいところだ。自分たちだけではどうにもできないから、第三者を呼び立てて丸投げする。そして上手くいかなかったときには、すべてこちらに責任をなすりつけるつもりだろうか。それじゃ、最悪だ。

  学校帰りにいきなり誘拐されたと思ったら、いつの間にかとんでもないところまで飛ばされてしまった。先のこともまったく見通しが立たない、だいたい元の場所に無事戻れるかどうかもわからないのだ。

「……あーっ、もう!」

  多少は控えめにしたつもりだったのだが、沙弓の声を受けて離れた場所にいた女性たち――彼女たちも「侍女」と呼ばれる官職に就いているらしいのだが――が、一様にびくっと身体を震わせる。これでは感情を露わにすることも難しい。

「鈴さんはなにをしているんだろう……」

  あまりにも退屈すぎて、沙弓は置物のように座っていることができなくなった。確か、隣の部屋で作業をするとか言っていたような。だったら、どんなことをしているのか覗いてみようと考えた。別に駄目とは言われていない。

  今、沙弓がいる場所は「南所」と呼ばれていると説明されている。ここは庭に面して突き出した一番表の部屋だが、奥には扉や通路で繋がった部屋がいくつもあるようだ。床に敷き詰められているのは大理石だろうか、継ぎ目もなくかなり大きく切り出されている。天井や壁の装飾も見れば見るほど素晴らしく、とんでもなく贅沢な造りになっていることがうかがい知れた。

  とにかく目に映るそのすべてが、理解の範疇を大きく超えている。小さなことをいちいち気にしていたら、またあの頭痛に見舞われそうだ。

「――あの……」

  扉の向こうは、大広間のようにがらんどうな場所だった。中央に大きなテーブルがいくつも並び、その上に色とりどりの美しい布地が広がっている。その脇には物干し台のような長い竿が幾重にも並び、そこにも数え切れないほどの布地が掛かっていた。

「まあ、沙弓様。いかがなさいましたか?」

  鈴がすぐに振り返り、取りなしてくれる。部屋には他にも大勢の侍女がいたが、その誰もが物珍しそうにこちらを見ながら互いになにかを囁き合っていた。

「これは……いったい、なにをしているの?」

  まるで、デパートのカーテン売り場にでも迷い込んでしまった気分。ダンスパーティが催されても平気なほどの空間が、すべて艶やかな布で埋め尽くされている。

  沙弓の言葉を受けて、鈴が笑顔で応えた。

「こちらでは今、夏装束の手入れが行われています。すべて、若様がお召しになるものなのですよ。そちらの台に広げられているのが、今年新しく作られた式典用の装束になります。腕の良い職人が手がけましたから、なかなか見事なものでしょう」

「……そ、そうなの」

  鮮やかな青緑の地に、びっしりと刺繍が施されている。その技巧の素晴らしいこと、沙弓もパーティなどに出席するために自分用の着物を数え切れないほど所持していたが、これだけ見事な品には覚えがない。素人目に見ても、大変な時間と労力が掛かっていることがわかった。

  しかも、その一枚だけが特別なわけではない。あちこちに無造作とも思えるように広げられたすべてが、信じられないほど繊細な手仕事で仕上げられていた。

「このように全面に刺し文様が施された重ねや袴をお召しになるのは、王族の方々のみに限られています。ほら、ご覧ください。私どもの身につけているのは、もっと簡単なものでしょう。他に布に直接絵を描いたり、絞り染めで模様を重ねる手法もございます」

  ここにあるすべてが、あの男の身につけるもの。いったい、「竜王」とはどれだけすごいものなのか。光り輝く御殿に住んでたくさんの使用人を抱え、さらに身につけるものにも贅の限りを尽くしている。

  これからの季節に用いられる装束であるから、涼しげな色目が多く、そこに刺されている絵模様も夏草や水鳥などが目につく。

  鈴は仕事の手を止めて、一枚ずつ丁寧に説明してくれた。ただの布地だとばかり思っていたそれらは、皆着物のかたちに仕立てられている。これは「重ね」と呼ばれ、一番上に肩から掛けられる上着であるようだ。その下に着る短めの衣は「小袖」というのだと教えられた。

「……これは? どうして、しまったままにしてあるの」

  隅の方に置かれた竹製の収納箱の中に、明るい群青の一枚が納められたままであるのを見つけ、沙弓は訊ねた。

「こちらは……今年お召しになるものではございませんので。虫干しだけ済ませ、またしまっておくのです」 鈴は念入りに畳まれたと思われるそれを、わざわざ取り出して広げてくれる。

「亡き正妃様が御自らお仕立てになった重ねなのですよ。若様もずいぶん気に入っていらっしゃいましたが、さすがに色目がお歳に合わなくなってしまいました。それでも大切なお品ですから、こうして大切に保管しているのです」

  そのとき、表の方がにわかに騒がしくなる。なにごとだろうとそちらを振り向くと、戸口にあの男が立っていた。その鋭い眼差しは、まっすぐに沙弓に向けられている。

「このような場所でなにをしているのだ、皆の作業の迷惑になるぞ」

  口を開くたびに、新しい嫌みを言わなければ気が済まないたちであるようだ。しかも、沙弓がひとこと言い返そうとする前にさらに言葉を重ねる。

「今日は予定よりも早く戻ることができた。これからお前を、東の祠に案内してやる」


 庭に出る前に、鈴が外歩き仕様に衣を改めてくれた。袴の帯を幾重にか折り返し、地に着かないようにするのである。上に掛けた重ねも床を引きずるほど長く仕立てられていたが、こちらは歩みに合わせてマントのように舞い上がるため、裾の汚れはそれほど気にすることもないという。

  今まで「常識」だと思っていたことが、「常識」ではなくなる。そんな意味では、ここは間違いなく不可思議な場所だ。

「……東の祠って、なんですか?」

  目に映るものがすべて物珍しいだけではなく、それぞれを示す名称も異なる。そのひとつひとつに疑問を感じていては始まらないのだが、とりあえずこれから出向く場所のことくらいは確かめておいた方が良いだろう。

「祠」とは神々を祀る小さなやしろのことを指す。いわば神社のミニサイズといったところか。そういえば、沙弓の実家の敷地内にもそのような場所があった。使用人たちが朝夕に供え物を運んでいたのを思い出す。

「屋敷外れの東門から外に出て、半刻ほど歩いた場所にある。そこにはこの竜王家に代々仕えている占い師の一族が住まっているのだ。今日はそこの長老が調合した竜王様の生薬を受け取りに行くことになっている」

「東所」と呼ばれる建物の花盛りの表庭を過ぎると、程なく木造の門構えが現れた。その前には長い槍のようなものを手にした強靱そうな男がふたり立っている。彼らは、沙弓の前を行く男の姿を見ると、さっと脇に避けて跪いた。

「ご苦労、このあともよろしく頼む」

  その声を聞いたふたりは、さらに額を地に押しつけんばかりに頭を下げる。滑稽とも思えてしまうその姿を、沙弓は不思議な面持ちで見守っていた。

  ――ここまでの服従って、……なかなかないかも。

  そこまでの驚きがあまりに大きかったため、そのあと彼らが自分に向けた奇異の目はあまり気にならなかった。

  それに、相手の姿が異様なものに映るのは沙弓だって同様である。顔の両脇に大きく広がったエラの耳、女性は皆、髪を長く伸ばして垂らしているが、男性は頭の後ろで一括りにしていた。

  なにかの基準で結わく高さが違うらしく、門の前にいた先ほどの者たちの髪型はちょうど女の子たちのポニーテールとよく似ている。ふたりのうち、ひとりは金髪でもうひとりはそれよりも幾分白っぽく見えた。銀髪なのだろうか。服装はやはり和装、色味を抑えた質素なものであった。

「この先は一本道だ。結界が狭まっているから、脇にはあまり逸れない方がいい」

  そうは言われても、目に映る周囲の風景は山間の小さな村のようにのどかなものである。遙か向こうには薄紫に霞む山並みが続いていた。

  そもそも「結界」なんてどこにも見あたらないじゃないか。

「あっちの丘の上はとても見晴らしが良さそうだけど。それに向こうの河原だって、下りてみたら楽しそう。そこまで足を伸ばすことはできないの?」

  自宅が都内にあり、同じ都内にある大学キャンパスへの往復で過ごしている沙弓であったから、このような田園風景を間近に見るのは新鮮なことだ。しかも、よくテレビの旅番組などに出てくる景色とは少し違っている。その微妙な感覚をどうやって説明したらいいのかはわからないが、なんというか……時代劇に出てくるものに近いような、そんな気がしていた。

「普通の者ならどうにかなるかも知れないが、お前はやめておいた方がいい。この道より外は、気が極端に薄くなる。また、苦しむことになるぞ」

  抑揚のない声できっぱりとそう言われると、それ以上はなにも言えなくなった。男の言葉がなにを示しているのか、はっきりとわかったからである。

「……ご忠告、ありがとうございます」

  それからしばらくは、ふたりとも無言であった。

  男の歩みは早い。何枚もの衣を重ねているとは思えないほどに颯爽と進んでいく。それに引き替え、沙弓の方は着慣れない服に手足を取られ、思うように歩けない。

  誘われたときに断るべきだったかと、早くも後悔し始めていた。しかし、ここまできて引き返すのも面倒である。

「薬って……あなたが直接取りに行く必要があるの?」

  この世界で一番の頂点に立つのは「竜王」と呼ばれる人物であると聞いた。その跡取りに決まっているとなれば、現地点で二番目に重要な人間と言えるだろう。使用人が数え切れないほどいるのだから、その誰かに言いつければ用が足りるのではないか。

「その役目を私が引き受けてはならないという決まりもない」

  彼は振り向きもせずにそう言うと、さらに足を速めた。自然、ふたりの距離がさらに開く。沙弓もどうにか追いつこうと必死なのだが、その努力も虚しく、ただ息が上がるばかりだ。

「……ち、ちょっと、待ちなさいよ!」

  このままだと遠くなりすぎて、互いの声も聞き取れなくなる。まあ、こんな男と楽しく会話をする気にもならないが、どんどん引き離されるのは面白くなかった。

  沙弓の必死の訴えに男はようやく立ち止まったが、振り向いて発した言葉がいただけない。

「お前の方こそ、もっと速く歩け。ぐずぐずするな」

「こんな格好させられて、きびきび歩けますかって。少しは気を遣いなさいよ、こっちは慣れない土地で苦労しているんだから。そもそも私は、あんたのお客なんでしょう? だったら、敬うのが当然じゃない」

  それなのに、絶対君子みたいな言動ばっかりして偉そうに。本当に腹が立つ。

  彼はしばらくそのままの場所に立ちつくしていた。意外なことに、ひどく驚いた様子である。

  風は南から北へ、長く美しい黒髪が、衣の袂が裾が緩やかになびく。その先に傾きかけた日の光が目映く止まった。

「――お前は変わった女だな、私に口答えするのか」

  詫びのひと言でも口にするかと思ったら、そうではなかった。ようやく彼に追いついた沙弓は、その表情と言葉のアンバランスさに唖然とする。

「そんな風に偉そうにされたら、誰だって言葉を返したくなるわよっ。それくらい、当然じゃない!」

  男の身長はかなり高い、真正面に向かい合うとそれが際だつ。沙弓も女性の平均値よりはいくらか高いのだが、それでも頭ひとつぶんは差がある。

「先を急ぐぞ」

  会話は一方的に途切れた。男がくるりと背中を向けて歩き出す。今度こそ距離を開けられないようにと、沙弓も慌ててあとに続いた。

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