約束は消えない...
約束なんて、子どもの頃のものは消えていく。
普通は。
「おにいちゃん、けっこんするんだよね?」
あの日、無邪気に言った彼女の言葉を、俺は軽く流した。
「いいよ。大人になったらな」
それだけ。でも、彼女は違った。
最初に違和感を覚えたのは、小学生の頃だった。
友達の名前を話すと、必ず聞き返される。
「その子、女の子?」
まだ幼いはずなのに、妙に執着していた。
中学生になると、それははっきりした形になる。
俺の部屋に勝手に入ることはない。
でも、物の位置が微妙に変わっている。
スマホを置いていた場所。本の順番。机の上の小物。
見られている。そう確信するには十分だった。
高校に入った頃、彼女は変わった。
いや、“完成した”と言った方がいい。
「ねえ、おにいちゃん」
笑っている。いつも通りに。
「その人と、どこまで行ったの?」
ぞっとした。
俺が誰とも付き合っていないことも、全部知っているくせに。
「別に何もない」
「そっか。よかった」
その「よかった」は、安心じゃない。確認だった。
俺は距離を取ろうとした。
帰省の回数を減らし、連絡も最低限にした。
でも。
「どうして最近帰ってこないの?」
電話越しの声は穏やかだった。
「忙しいだけだ」
「嘘」
即答だった。
「おにいちゃん、逃げてるでしょ」
心臓が跳ねた。
「ねえ、約束、忘れたの?」
あの言葉。
「……あれは子どもの頃の話だろ」
沈黙。そして、静かな声。
「わたしは、一度も忘れてないよ」
高校最後の日。彼女に呼び出された。
その瞬間ベットに押し倒されていた。
「ちゃんと話そう」
逃げることはできなかった。
「ねえ、おにいちゃん」
彼女の目は、笑っていなかった。
「どうして、他の人を見るの?」
責めるでもなく、ただ事実を問うように。
「見てない」
「嘘」
抑えつけている手が強くなる。即答。
「全部知ってるよ」
顔を近づけてくる。
「誰と話したかも、何を考えてるかも」
背中に冷たいものが走る。
「わたしだけ見てればいいのに」
その言葉は、願いじゃない。確信だった。
「結婚するって言ったよね」
沈黙。抱きついて来た。俺はそして聞く。
「……あれは」
「冗談?」
首を傾げる。
「わたしにとっては違うよ」
その目はもう今すぐにも泣きそうになっている。
「ずっと、そのために生きてきたの」
重い。逃げたい。でも目を逸らせなかった。
「……なんでそこまで」
やっと出た言葉。彼女は少しだけ考えて、答えた。
「最初に、優しくしてくれたから」
それだけだった。
「ずっと一緒にいてくれたから」
たったそれだけの理由で、ここまで歪むのかと思った。
「ねえ、おにいちゃん」
目が合う。
「逃げる?」
試すような声。ここで逃げたら、たぶん一生追われる。
そう直感した。だから、逃げなかった。
「……俺たち、血は繋がってない」
自分でも驚くくらい、落ち着いた声だった。
彼女の目が、わずかに揺れる。
「だから」
「ちゃんと選べる」
今度は俺が、逃がさない番だった。
「俺の意思で言う」
彼女の呼吸が止まる。
「お前が怖いと思った」
正直に言う。
「でも、それ以上に」
自分でも、もう分かっていた。
「もう君に恋をしているんだ」
沈黙。
「約束、守るよ」
その瞬間。彼女の表情が、崩れた。
壊れるみたいに、泣き出す。
「……ほんとに?」
「今度は本気だ」
それから。
彼女の“重さ”は消えなかった。
むしろ、少しだけ形を変えただけだ。
「ねえ、おにいちゃん」
今でも時々、同じ目をする。
「他の人、見てないよね?」
俺はため息をつく。
「見てないって」
「ならいい」
安心したように笑う。完全に治ることは、たぶんない。
それでもいいと思った。
「だって約束したでしょ?」
「結婚しようって。」
その言葉に今度は俺が縛られる番だった。
逃げないと決めた時点で、もう終わっている。
それでもこの結末は、きっと“幸せ”だ。




