第1話:悪役令嬢は定時で帰りたい
目が覚めると、そこは天蓋付きのベッドの中だった。
視界いっぱいに広がるのは、安アパートの染みのある天井ではなく、最高級のシルクで織られたドレープと、微かに香る薔薇のアロマ。
私はゆっくりと身体を起こし、豪奢なレースのナイトガウンを纏った自分の手を見つめる。白く、細く、ペンだこ一つない美しい指先。
……あぁ、思い出した。
私は死んだのだ。
連日のサービス残業、理不尽なクライアントからのクレーム処理、上司の尻拭いによる始末書の作成。三十連勤目の深夜、オフィスで意識が遠のき――気づけばこの世界にいた。
ここは、生前なんとなくプレイしていたダンジョン配信RPGの世界。そして私は、その悪役令嬢マリー・アントワネット(似の名前の別人)になっている。
窓の外からは小鳥のさえずりが聞こえる。
スマホの通知音も、Slackのメンションも、早朝の緊急ミーティングもない。
私はふかふかのクッションに背中を預け、心の底からの叫びを漏らした。
「もうOL働きたくない……スローライフよ!」
そう、私は決めたのだ。
前世の社畜人生とは決別する。この世界では、公爵家の資産を食いつぶし、優雅に、惰眠を貪り、定時(というか終日)オフの生活を送るのだと。
幸い、この世界のマリーは、実家が太い上に、両親は領地経営で忙しく放任主義だ。誰にも文句は言わせない。
私は二度寝の誘惑を振り切り、まずは優雅な散歩に出かけることにした。「朝活」なんて意識高い言葉は嫌いだが、この庭園の空気だけは悪くない。
◇
公爵家の裏庭は、そのまま「初心者の森」という低レベルダンジョンに繋がっている。
とはいえ、出てくるのはスライムや弱そうなゴブリン程度。護衛もつけず、私はロココ調のドレスの裾を揺らしながら森を歩いていた。
スローライフには癒やしが必要だ。アロマやハーブティーもいいけれど、もっとこう、直接的に心に触れる何かが。
ガサリ、と茂みが揺れる。
警戒心ゼロで覗き込むと、そこには泥だらけの毛玉がうずくまっていた。
銀色の毛並みは煤けて灰色になり、弱々しく「クゥン……」と鳴いている。狼の子供だろうか? いや、この愛くるしい瞳、どう見ても迷い犬だ。
前世では「ペット禁止」の単身用アパート暮らしだった私の中で、何かのスイッチが入る。
私はしゃがみ込み、ドレスが汚れるのも構わずにその毛玉を抱き上げた。
「あら、あら、可愛い仔犬。拾ってあげるわ」
私の腕の中で、仔犬は安心したように瞳を閉じる。
今日から貴方は私の家族よ。名前はそうね……私が大好きだった歴史上のイケメンから取って、「フェルゼン」にしましょう。
私は知らなかった。この「仔犬」が、成長すると国一つを滅ぼしかねない神話級の魔獣「フェンリル」の幼体であり、私の魔力を吸って急速に巨大化する生態を持っていることを。
◇
それから数日後。
私のスローライフ計画の一環として、「ダンジョン配信」を始めてみることにした。
と言っても、ガツガツ攻略する気など毛頭ない。
この世界では、浮遊型の魔道具「ドローン・アイ」を使って、探索の様子を世界中に生中継するのが貴族の嗜みらしい。承認欲求の塊のような文化だが、広告収入が入るシステムは魅力的だ。実家の金だけでなく、自前の不労所得があればスローライフの盤石さは増す。
「設定よし、画角よし。タイトルは……『マリーの優雅なティータイム』でいいわね」
私は屋敷のサンルーム――日当たりの良い一室で、最高級の茶葉を蒸らしながら配信開始ボタンを押した。
本来なら、モンスターと戦ったり、派手な魔法を見せたりするのがセオリーだ。しかし私は、ただお茶を飲む。
そして私の足元には、数日で驚くほど巨大化したフェルゼンが寝そべっていた。
拾った時は両手に収まるサイズだったのに、今や体長は二メートル近い。艶やかな銀色の毛並みは、窓から差し込む陽光を反射してプラチナのように輝いている。
私はその首元に、私のドレスとお揃いの大きな紫色のリボンを結んであげた。凶暴な牙を持つ魔獣も、リボン一つでこの通り、愛らしい大型犬だ。
「よしよし、フェルゼン。貴方もお茶菓子食べる?」
私がマカロンを差し出すと、フェルゼンは巨大な顎で器用にそれを啄み、私の手に頬を擦り寄せる。
ああ、幸せ。
数字(視聴者数)なんてどうでもいい。KPI(重要業績評価指標)もノルマもない。ただ私が優雅で、犬が可愛い。それだけの映像だ。誰も見ないだろうから、完全な自己満足である。
そう思って、ふと空中に浮かぶステータス画面に目をやった時だった。
コメント欄が、滝のような勢いで流れていることに気づいたのは。
『え、なにこの美少女』
『後ろの魔獣、フェンリルじゃね?』
『フェンリルにリボン巻いてるwww』
『待って、この犬、先週騎士団を半壊させた災害指定モンスターに似てるんだが』
『それをペット扱いとか、この令嬢何者!?』
『尊い……』
『優雅すぎる。これが本物の貴族か』
数字が跳ね上がっていく。
三桁、四桁、五桁……いや、桁が違う。
同時接続数が百万を超え、ランキングのグラフが天井を突き破っていた。
「……は? いきなり1位?」
私は持っていた扇子で口元を隠し、冷や汗を隠した。
世界ランク1位。
前世、企業のSNS担当として万バズを狙って胃を痛めていた日々はなんだったのか。
ただ犬を愛でてお茶を飲んでいただけなのに、まさかのトップランカーになってしまった。
フェルゼンは我関せずといった様子で、「くあー」と大あくびをして私の膝に顎を乗せる。その無防備な姿がまた、視聴者のハートを鷲掴みにしたようだ。
これは……予想外の「業務過多」の予感がする。私はそっと溜息をついた。
◇
一方その頃。
王都の一等地にある豪華な屋敷の一室で、金切り声が響き渡っていた。
「キーッ! あの小娘! 許せないわ!」
彼女の名はリヴリー夫人。
これまでダンジョン配信界の女王として君臨してきた、ギルドマスターの愛人である。
彼女のドレスは、色彩の暴力と言わんばかりに派手だった。赤と紫を基調にした布地に、無数の宝石が散りばめられている。
何より特徴的なのは、その髪型だ。
重力に逆らって高く、高く盛り上げられた白髪のカツラの上には、季節のフルーツバスケットが鎮座し、さらにその頂点には――なぜか帆船の模型が乗っていた。
動くたびに帆船のマストが揺れ、葡萄の房がプルプルと震える。
夫人は、涙目でハンカチを噛み締めながら、モニターに映るマリーの姿を睨みつけていた。
「私の……私の定位置だった『世界ランク1位』を、ぽっと出の小娘が奪うなんて! しかも何よあの配信! モンスターも倒さずに犬と遊んでるだけじゃない!」
リヴリー夫人の売りは、「聖女」としての可憐さと、取り巻きの令嬢たちを使った華やかなコラボ配信だった。
新人は必ず彼女の配信に顔を出し、「リヴリーお姉様のおかげです」と挨拶をするのが業界の不文律(と本人が勝手に決めたルール)。
だというのに、このマリーという女は、挨拶に来るどころか、無言の「ソロ配信」で夫人の数字を抜き去ったのだ。
「挨拶もなしにトップを取るなんて、業界の常識を知らないのかしら!? いいわ、思い知らせてやる……! このリヴリーに楯突いたことを後悔させてやるわ!」
夫人の頭上の帆船が、彼女の怒りに呼応するようにギシギシと音を立てる。
平穏なスローライフを夢見る私の知らぬところで、面倒くさい「お局様」の宣戦布告が、今まさに行われようとしていた。
【次回予告】
私の平和なダンジョンライフに、面倒な通知が届く。え? 界隈の女帝に挨拶メールを送らないと干される? ……すみません、その業務、契約書に書いてありましたっけ?
第2話:お局聖女、リヴリー夫人の不条理なルール




