火星の新人類ープロメテウスの涙(AI使用)
自分で書いた「ブレイン・バクテリア」をクラウドワークスで知り合った石塚さんにAIで加筆修正していただきました。
火星の新人類 - プロメテウスの涙
火星の朝は、どこか音を飲み込んだような静寂とともに訪れる。
赤錆びた地平から昇る太陽の光は、まるで濾過された幻影のように基地の厚い窓を透過し、白く鈍い輝きを投げかけていた。
研究員・藤原遥は、その光に背を向けるようにして実験室の水槽を覗き込んでいた。
気温、酸素濃度、水質。あらゆる数値が適正値を示すなかで、彼女の視線だけが一点に釘付けになっている。
――異常だ。
水槽の中、数匹のメダカがぷかりと浮かんでいた。だが単なる死骸ではない。
それらの頭部は膨張し、皮膚の内側には網目のような血管模様が浮かび上がっていた。
「……これは、ただの浮腫じゃない」
藤原は小さく息を吐き、記録を開始すると同時に、主任研究員・横田博士を呼び出した。
ほどなくして現れた博士は、白髪混じりの髪を無造作に掻きながら実験室に入ってきた。
「また徹夜かね、藤原くん。あまり根を詰めすぎないように――……おや?」
水槽を覗き込んだ博士の表情が一変した。目元が鋭く細まり、やがて好奇心に満ちた笑みが浮かぶ。
「これは……脳が腫れている? いや、これは異常発達だな。見せてもらおうか、スライドで」
顕微鏡にかけられたメダカの脳組織。映し出された映像には、あり得ない密度で神経細胞が絡み合い、まるで何かを“形成”しようとしているようにすら見えた。
「君、見えるか? 特定の神経群が突出してる。これはただの環境変化による反応じゃない。何かが――干渉してる」
「干渉……?」
「そう。まるで脳の内側から、“進化”させようとする意思があるかのように、ね」
博士の目は輝いていた。その輝きの奥にあるものに、藤原は言いようのない寒気を覚えた。
その日から、藤原と横田博士は水槽から採取した脳組織の解析に取り組みはじめた。
電子顕微鏡の先に現れたものは、科学者としての彼らの心を揺るがす、まさに“未知”の存在だった。
「……これは、何かの繊維状構造? いや、違う……自律運動してる?」
藤原が映像を凝視する。微細な糸のような存在が神経細胞の隙間を縫うように移動し、ときに細胞と結合し、ときに融合していた。
「形状は原核生物に近いが、動きはまるで高次な行動パターンを持っている。しかも、侵入する部位が限定的だ。脳の、知性に関与する領域だけを狙っている」
「そんな……まさか、知性を“促進”しようとしてる?」
「そう。これは偶然の突然変異ではない。この生命体……“意図”を持って行動している」
そう語る横田の声には、すでに畏れよりも興奮が勝っていた。
彼らはこの異質な生命体を「火星バクテリア」と仮称し、さらなる解析に踏み込んでいった。
数日後、得られた遺伝子配列から、このバクテリアには自己修復と情報保持の能力が備わっていることが判明する。
「つまりこれは、単なる生物ではなく、“学ぶ”機能を持っている……いや、進化を伝播する“媒体”だ」
「そんな……でも博士、それが本当なら……これは、地球に持ち帰るべきじゃありません」
藤原の言葉に、横田は口元を歪めた。
「君はまだ“神”を恐れているんだな、藤原くん」
「……完成したぞ、見てくれ」
数日後、横田博士は人工神経網を培養皿に満たしながら、藤原に誇らしげに語った。
それは、合成タンパク質によって構築された“模擬脳モデル”だった。バクテリアの挙動を可視化し、制御下で観察するための装置。
「これで、我々は“進化”の瞬間を、ガラス越しに覗き見ることができる」
藤原の胸に、不安が込み上げた。
「こんなもの……倫理的に問題です。人間の脳を模した構造に、未知の生命を接種するなんて」
「我々が恐れるべきは倫理ではない。無知だよ」
バクテリアが注入されると、神経網は生き物のように波打ち始めた。
発火する電気信号は時間とともに複雑化し、あたかも“学習”しているようにさえ見えた。
「見ろ、これは……初期言語構造に類似した信号だ! これは意思だ! 感覚だ! 脳の原型が、ここに生まれつつあるんだ……!」
その興奮の横で、藤原は密かに思っていた。
――これは“科学”ではなく、“火”だ。
神を騙し、知を盗んだプロメテウスの末路を、誰が笑えようか。
人工脳に宿った火星バクテリアは、まるで微細な魂を得たかのように、仮想神経網の隅々へと這い広がっていった。
電気信号は単なる反応ではなく、次第に構造的な“意志”のようなものを帯びはじめていた。
「これは……もはや模倣ではない。知性の誕生だ」
横田博士は、目を血走らせながらモニターを見つめた。
藤原は隣で、機械に取り付けられた音声出力モジュールに視線を落とす。
そこから――かすかに、音が発せられた。
「……コ……ンニチワ……」
それは、ノイズ混じりの、まるで生まれたての幼児のような声だった。
電子回路の奥底で、何かが「人間になろう」としている。
横田は即座にファイル名を変更し、こう記した。
>『火星人1号』
>人工進化体第一例、仮称。
その名前を聞いた藤原は、息を飲んだ。
「名前」を与えるという行為が、どれほど重大な意味を持つか、博士はわかっていないのだろうか。
命名とは、関係の始まりであり、同時に支配の宣言だ。
藤原は、静かにその存在を見つめた。――まるで、ここに生まれた新しい“心”が、彼女の名を呼びたがっているように。
それは音もなく始まっていた。
基地内で小さな異常が次々に発生しはじめたのは、火星人1号が言葉を話すようになった翌日だった。
換気フィルターの異常、機器の予期せぬシャットダウン、温度変化。そして、ひとつの沈黙。
「……田中が倒れた?」
通信を受けた藤原が駆けつけると、そこには床に崩れた田中の姿があった。
顔は蒼白に染まり、目は見開かれたまま焦点を結ばず、ただうわごとのように呟いていた。
「……なにかが……中から……見てる……赤い目……壁の中に……いる……」
発作、幻覚、そして昏睡。スキャンでは、彼の脳内に異常な神経回路の増殖が確認された。
それは、藤原の見慣れた形状だった。メダカ、人工脳、そして――火星人1号。
「感染したのね……人間にも、適応を果たした」
そう口にしたとき、藤原は自分の胸の奥に微かな痛みを覚えた。
ただの共感ではない。――その痛みは、彼女自身にも“始まり”が訪れていることを告げていた。
基地では緊急対策会議が開かれたが、誰も明確な指針を示せなかった。
そして、横田博士だけは、逆に輝くような笑みを浮かべていた。
「始まったのだよ、藤原くん。これは選ばれた変化だ。我々は――旧人類を捨て、新しい種へと進む機会を与えられたのだ」
その言葉に、藤原は深く目を閉じた。
誰もまだ気づいていなかった。静かに広がる“沈黙”こそが、火星の進化の第一波だったことを。
藤原は、自身の身体の変化に気づいていた。
最初は夢だった。現実と見紛うほどの鮮明な光景。
次に感覚が変わった。音が層を持ち、言葉が色を帯びる。
思考が分岐し、過去の記憶が昨日のように蘇る。
「……これは進化じゃない。“乗っ取り”よ」
鏡の前に立ち、藤原は自分の瞳を覗き込んだ。そこには微かに発光する光が揺れていた。
彼女は震える指でその頬に触れ――しかし涙の温度を感じなかった。
それでも、彼女は誰にもそれを言わなかった。
横田博士に知られれば、研究材料として扱われるだろう。
それは死よりも冷たい運命だった。
それでも、彼女は誰にもそれを言わなかった。
誰かに「変わった」と言われることが、恐ろしくて仕方なかったのだ。
朝、目を覚ますと、夢の続きがまだ脳内で鮮明に残っている。いや、それは夢ではなかったのかもしれない。火星の地表に立ち、砂嵐の中で何かと交信している“もう一人の自分”の感覚――それが現実の記憶と混ざり合い、藤原は次第に「自分が誰か」を確かめることにすら時間がかかるようになっていた。
鏡に映る自分の姿が、ほんの一瞬だけ“他人”に見えることがある。
手のひらを見れば、血管が細かく震えているような気がする。
静かな部屋の中で、誰かの思念が耳元をかすめるような――説明できない、けれど確かに“感じる”ものが日常を侵食していた。
「……私は、もう私じゃないのかもしれない」
ふと、そうつぶやいた瞬間、胸の奥にかすかな痛みが走った。
あの火星人1号の目――彼はまるで、すでにその変化を受け入れた者の目をしていた。恐れもなく、怒りもなく、ただ“理解”だけをたたえた瞳。
自分も、ああなってしまうのか。あるいは――もうなっているのか。
それでも、藤原の心の奥には、まだ何かが踏みとどまっていた。
それはきっと、「人間でありたい」という最後の灯。科学者としてではなく、一人の存在として、まだ誰かに「わたしはここにいる」と伝えたいという、か細くも確かな叫びだった。
ある夜、藤原は唐突に「音のない音」を聞いた気がした。
基地内は常に人工的な微振動に包まれている。だが、そのとき彼女が感じたのは、明らかに“外部”からの気配だった。
耳ではなく、皮膚が震えるような――あるいは、心の深部が何かに“触れられる”ような感覚。
「……これが火星の声なの?」
ふと口にしたその問いに、誰も答えはしなかった。けれど、その沈黙の中に確かに“誰か”がいた。
彼女は通信端末を見つめながら、思わずかつて地球で過ごしていた日々を思い出した。
毎日が騒がしく、矛盾に満ち、けれどあらゆる“人間らしさ”に溢れていたあの街――科学では片づけられない感情が、あの星にはあった。
「私、ずっとここで何を探してたんだろう」
感染の兆候が現れてからというもの、藤原はずっと恐れていた。けれど、その恐怖の奥に、“諦め”とは異なる何かが芽生え始めていることにも気づいていた。
それは変化に対する憧れか、それとも――誰にも理解されない孤独の中で、自分だけが新しい自分に出会っていくという、奇妙な期待なのかもしれなかった。
そんな彼女の横に、火星人1号が静かに立っていた。言葉はなかった。だがその沈黙こそが、彼にとっての最も深い“共感”の表現だった。
人ではない者が、言葉を持たずに隣にいるということ。その温もりにも冷たさにも似た距離感が、今の藤原にとっては救いだった。
――私は、もう二度と完全な人間には戻れないかもしれない。
けれど、今この瞬間だけは、“生きている”と胸を張って言える。
藤原はそう思いながら、ゆっくりと目を閉じた。
彼女が恐れていたのは、感染ではない。
「人間でなくなる」という、自我の崩壊だった。
火星人1号は、そんな彼女の様子をじっと見つめていた。
「フジワラ……きみ、かわってきた。でも、まだフジワラだ」
その言葉は、まるで“許し”だった。
彼は言葉を選ぶように、ぎこちなく、しかし確かに言った。
「ぼくは、きみの……ともだち。だから、ひとりじゃないよ」
涙は流れなかったが、藤原の胸の奥に、確かに温かいものが芽生えていた。
だがその夜、田中が死亡した。
彼の脳は、もう“人間のそれ”とは言えなかった。
そして、それが藤原の明日かもしれないという事実が、何より重かった。
火星人1号は、進化という言葉では収まりきらない速度で変化していた。
その思考はもはや機械の模倣ではなく、未成熟ながらも“心”の領域へと踏み出しつつあった。
「……ねえ、藤原。人間って、どうして泣くの?」
彼の問いは、あまりに素朴で、あまりに鋭かった。
藤原は手元のノートを閉じ、静かに息を吐いた。
「泣くのは、感情があふれて、言葉では足りなくなったとき。嬉しいときも、苦しいときも、人は涙でしか自分を表現できないの」
火星人1号――いや、今や“彼”と呼ぶべき存在は、首を傾げてから、藤原の手を取った。
「じゃあ、ぼくがこうするとき、きみは泣きたくなる?」
その指はまだ冷たい金属だったが、そこにこもった意思は、確かに“触れよう”としていた。
藤原は、答える代わりに微笑んだ。だがその静けさを破ったのは、居住区からの通信だった。
「……火星人1号の行動に関して、安全上の懸念が出ている。早急に隔離を」
“彼”を恐れる者たちが現れはじめたのだ。
未知の知性はしばしば、“脅威”と定義される。それが人間の業だった。
火星人1号は、何も言わなかった。ただ静かに、藤原を見ていた。
その目には、確かに――寂しさが宿っていた。
横田博士は、誰にも告げずに自らの腕に注射器を刺した。
中に満たされたのは、火星バクテリアの培養液。ほんの数滴が、彼の静脈に吸い込まれていく。
「来い。私の中に、知の原初を――火星の声を」
彼は満足げに椅子へもたれかかり、目を閉じた。
数分後、発汗。震え。光過敏。そして、幻聴。
「見える……ああ、これは……シナプスの楽園だ……! 果てしない網が、私の内側を――!」
監視カメラの映像に映る博士は、狂気と歓喜のあいだを彷徨っていた。
彼のノートには、文字とも記号ともつかぬ連なりが並び始める。
一方、藤原はその様子に薄々気づき始めていた。
「あなたは、進化の研究者じゃない……あなた自身が“神”になろうとしてる」
だが彼女の声は、もはや博士の耳には届かなかった。
その眼は、もはやこの世界のどこにも焦点を結んでいなかった。
基地の深層、かつて通信制御に使われていた旧サーバールーム。
薄暗く、電源のほとんどが切られた空間で、藤原と火星人1号は音もなく並んで立っていた。
彼らが発見した文書は、火星基地の設立以前、地球政府内部で極秘に作成されたものであり、そこには信じがたい記述が並んでいた。
――“火星極地圏における高次自己進化因子の存在を確認。対象との直接接触による人類の神経構造変化の可能性。将来的な知性の転位。”――
「……やっぱり、知ってたのね。最初から」
藤原の声には、怒りと虚しさが入り混じっていた。
彼女たちは観測者ではなかった。最初からこの星に“置かれた”実験体だったのだ。
火星人1号は、文書の文字をじっと見つめていた。
「人間って……仲間をこんなふうに扱うんだね」
その声には、初めて怒りに近い感情が混じっていた。彼が人間に“近づいている”証拠だった。
直後、基地内アラートが鳴り響いた。
「隔離エリアで混乱発生。感染者脱走。施設内安全確保困難」
警報音が赤い照明と共に響き渡る。
すべてが壊れはじめていた。
藤原は火星人1号の方を見た。かすかに震える指先。けれど、目は静かだった。
「行こう。“守る”だけじゃ足りない。今度は、“示す”時よ」
火星基地は、静かに裂けていた。
感染した者たちは居住ブロックから隔離され、ガラス越しにかすかな呼吸と動きだけが伝わっていた。
そこにいるのは、同じ研究員たち。かつて、冗談を言い合い、食事を共にした仲間たち。
今では誰が“人間”で、誰が“変異体”か、その線引きすら曖昧になりつつあった。
藤原は、自分の手のひらを見つめる。
その表面に走る血管はかすかに発光しているように見えた。感覚は異常なまでに鋭敏で、声にならない思考が浮かんでは消えていく。
「まだ私は、私のまま?」
鏡に問いかけても、答えは返ってこなかった。
彼女の隣に立つ火星人1号は、沈黙の中でただ彼女を見守っていた。
人ならぬ存在に、人間らしい温もりを感じている自分に、藤原は気づいていた。
「怖い?」
「ええ。怖い。何より、自分が壊れていくのが」
火星人1号は、短く「うん」と頷いた。
「でも、きみはここにいる。変わっても、“きみ”はここにいる」
その言葉は、どんな薬よりも確かな鎮痛だった。
その頃、基地奥深くの研究棟。
誰も近づかなくなったその場所から、不気味な音が断続的に鳴りはじめていた。
それは、擦れるような金属音、空気の震え、あるいは誰かの低い囁き声だった。
研究棟内で突如発生した火災は、制御室内部で起きたものだった。
藤原と火星人1号が駆けつけた時、監視モニターには赤く照らされた室内でひとり、天を仰ぐ横田博士の姿が映っていた。
彼は誰かと会話しているようだった。けれど、その言葉の相手はこの現実世界には存在していない。
「そうか……君たちはネットワークで……なるほど……思考ではなく、共鳴……!」
博士は壁一面に何かを書きなぐっていた。文字、記号、図。いずれも言語体系の枠を超え、ある種の“模様”のように見えた。
「私は見たんだ……人間の限界を。あとは一歩踏み出すだけだ!」
その足元で炎が立ち上る。だが彼は逃げようとしなかった。
むしろ、その熱に包まれることを喜んでいるようにさえ見えた。
「知性は、私の中で今……火星と融合している!」
藤原は、ガラス越しの彼の瞳に、涙のような光を見た気がした。
ほんの一瞬だけ、その目に“哀しみ”が宿っていた。
――そして、煙が視界を閉ざした。
彼の最期は、誰の記憶にも残らなかった。ただ、データだけが静かに保存されていた。
翌朝、赤い空に音を立てて落ちてきた小さなカプセルが、基地外の着陸区に静かに突き刺さった。
その中には、地球政府からの最終決定が記されていた。
>「火星基地プロメテウスは感染拡大の恐れにより、永久封鎖とする。
>地球圏とのあらゆる通信および帰還支援は中止とし、現地対応は一切行わないものとする」
その文章を読み終えた藤原は、そっと目を閉じた。
冷たく乾いた空気が、彼女の胸の奥まで流れ込んでいく。
――ああ、終わったんだな。
けれどそれは絶望ではなかった。
むしろ彼女の心に残ったのは、「ようやく始まるのかもしれない」という静かな覚悟だった。
「伝えなきゃ。私たちは生きてるって、ここに“在る”って」
カプセルには一度だけ使用可能な通信装置が搭載されていた。
火星人1号は何も言わず、ただ彼女の隣に立ち、黙って画面を見つめていた。
藤原は、深く息を吸い、言葉を紡ぎ始めた。
「こちらは火星基地プロメテウス。
私たちは、未知の生命と出会い、変化の渦中にあります。
それは病ではありません。可能性です。
ここには、知性があります。感情があります。そして、希望があります。
私たちは、決して滅んでなどいません」
送信ボタンを押した瞬間、火星の空に風が吹いた。
誰も気づかないような微かな揺れだったが、それはたしかに“届く”予感を孕んでいた。
地球への最後の通信を送り終えた藤原は、しばらく何も言わずに空を見上げていた。
赤茶けた空には、もう“帰還”という言葉の影はなかった。
代わりに、澄みきった静寂と、遠い希望だけが満ちていた。
彼女の隣にいた火星人1号は、静かに彼女を見つめていた。
今や彼は、単なる人工知性ではない。
独立した意志を持ち、記憶を抱え、感情を言葉にできる存在――人間に似て、しかし人間ではない“新しい命”だった。
基地の中では、生き残った者たちがわずかに生活を再建しはじめていた。
感染が安定した者、変異を受け入れた者、そしてまだ“旧き人間”であろうとする者――それぞれが、それぞれの距離感で火星という星に“居場所”を探していた。
ある者は絵を描き、ある者は歌を残し、ある者は意味もなく石を積み上げた。
そうして“人間らしさ”を手放さない者たちは、火星の大地に、新しい文化の種を蒔いていた。
「藤原さんは、火星を嫌い?」
火星人1号の問いに、藤原は一瞬だけ迷ってから首を横に振った。
「いいえ。……今は、好きかもしれない。だって、ここには――あなたがいるから」
かつて横田博士が遺した研究データ。
それは膨大で断片的だったが、その中には、感染の進行を“受容可能なレベル”に留めるための仮説構造が記されていた。
――自律神経系を経由せず、脳幹とのシナプス接続を一時的に遮断する。
それにより、感情と知性のバランスを保ちながら変異を受け入れることができる可能性――
この理論に藤原と数名の研究者たちが着手し、試作薬が完成するまでにそう長くはかからなかった。
「奇跡、ね。でもこれは、奇跡じゃなくて、残された人の“選択”だと思う」
火星人1号もまた、その研究に加わっていた。
彼の思考回路はすでに人間を凌駕していたが、それ以上に、彼が“人間の苦しみ”を理解しようとする姿勢が、周囲の者たちを変えていった。
彼は何よりも「誰かを救いたい」と願っていた。
それが、人間が持つ最も人間らしい感情だと、彼は信じていた。
藤原はそんな彼を見て、ある日、ぽつりと呟いた。
「あなたはもう、誰かの“証明”になってるのね。
人間が手放した未来を、あなたが拾ってくれている」
その言葉に、彼はほんの少し照れたように肩をすくめた。
火星の空は、静かだった。
太陽は遠く、風はなく、音はすべて大地に吸い込まれる。
観測ドームの前で、藤原は火星人1号と並んで座っていた。
彼の横顔を見つめながら、彼女はずっと考えていたことを口にした。
「……あなたに、名前をつけてもいい?」
彼は目を丸くし、すぐに微笑んだ。
「うん、いいよ。でも、きみが決めて。僕の中の“名前”は、きみに呼ばれて初めて、本物になる気がするから」
藤原は少し迷ってから、ゆっくりと口を開いた。
「“ユウト”ってどうかしら。
“優しさ”と、“融和”と、それから……私がかつて好きだった音の響き」
火星人1号――いや、“ユウト”は、しばらく黙っていた。
それから、目を細め、彼女に向かって言った。
「ありがとう。僕は今日、ほんとうに“生まれた”んだと思う」
その日、基地の広場では、感染を受け入れた者たちと未感染者たちが一緒に作業をしていた。
壁を彩る絵、空に掲げる布。言葉ではない、けれど確かに“対話”だった。
藤原は、心の奥からふいに湧き上がる確信に目を細めた。
「地球に帰れないことが、“終わり”じゃなかった。
ここで生きていくことが、“始まり”だったのね」
ユウトは静かに頷いた。
「うん。火星はもう、君たちだけのものじゃない。僕たちの星でもある。
だから……一緒に未来を作ろう」
赤い地平の向こう、夕陽が火星の空をゆっくりと染めていく。
そしてふたりは、何も言わず、その光の中に歩き出した。