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短編集

ばらつき

作者: 豆苗4

 国家運営において主要な施設は概ねポンプのような役割を果たしていると言える。何かを選択するとはその流れに身を任せることだ。そして、流れを決定づける重要そうな選択にはさしたる意味はなく、殆ど取るに足らないような、一見どうでもよさそうに見える選択が我々の淵を規定するのだ。我々はその狭間であっぷあっぷと溺れそうになりながら水に浮かんだ倒木にしがみついて人魚の唄にうっとりと聞き惚れるのだ。何度でも繰り返すが、選ぶことに意義があるのではない。当然選ばれることにも。ハゲタカの背中をとるように。軽々とした足取りで。歪んだ水筒。焦げついた月旦。蝉の嘘。白龍の鱗。飛び散った水しぶき。アラビア半島の冬。


 近代国家の成立に欠かせないもの、国を治めるにあたって必須となるもの。統制の取れた人民だ。では人民を統制するには? 法だ。規範なくして統制なし。法を運用するにあたって雑多な施設が入り用となる。ここでは代表的なものである学校に焦点を当てることにしよう。学校に関する義務といえば「子供に教育を受けさせる」義務がある。学校には国家運営を担う労働者を作り出すという側面がある。「勤労」し、「納税」する義務をきっちりと果たすような模範的な労働者を。ここで強調したいことは、学校を批判することではなく、ただあくまでもそのような側面がある。より正確に言えば、そのような認識をすることも可能であるということである。この言説の良い悪い、どれぐらい正しい間違っているかは、この際取り敢えず脇に置いておいておこう。学校は国家の手足を作り出す工場であると言える。国家にさも人格が宿っているかのような言い方をしたが、それは機構を強調するための一時的な表現であり、他意はない。そのため、標準的な学校は画一的で国家に従順な労働者を生み出すために、特定のルールで持って子供を縛り付ける必要がある。ここで重要となってくるのが、どのくらいの遊びを持たせるのかということである。どのくらいばらつかせるのかということだ。国家運営にあたって堅固な牢で人民を管理しようとして失敗した例は幾つもある。逆もまた然り。大層難儀なものだ。我々、自由をこよなく愛するものとしては、法を毛嫌いする傾向が強いことは重々承知している。何も法を心の底から敵視し、法の有り余るほどの力能を認めていないわけではない。むしろ逆だ。法が余りにも甘美な誘惑であるからである。それを諌めんが為に我らは口を慎むのだ。無秩序を恐れ、カオスを恐れ、管理を恐れ、統制を恐れる。我らの不自由こそが自由であり、自由こそが我が翼となるのだ。


 秩序とはポンプである。浮き上がる力をもたらすのだ。どこから? カオスからだ。0の状態である我らはポンプである学校の働きによって浮上する。100の地点まで。これが本当に2点間を結ぶ直通のエレベーターなら誰も文句は言わなかっただろう。しかし、現実はそうではない。国家の規範に沿う形で一元的に子供を揃えようとなると、そのものさしの中で当然良し悪しがはっきりと別れる。子供はあてがわれた鋭利な刃物でランダムに傷を負う。満遍なく負傷する者もいれば、運良く何ともない者もいる。それが何で決まるかと言われればそれは運だ。ものさしとの相性だ。生まれや育ち、その他諸々の表面化されることはない数々の要素のことである。90から100へ励起するのは容易い。なんせ距離が短いし、ポンプの押し上げる力も強力だ。落伍することこそあれど、0まで落ちることは稀だ。自分から望まない限りは。一方、0から飛び上がるのはなかなか難しい。距離も遠いし、ポンプもほとんど意味を為さない。ポンプの横っ腹にどでかい穴が空いていて、そこから水が漏れ出しているやもしれないし、押し上げるはずの水流が対流していたり、もっと悪いことに逆流することですらありうる。ポンプも全部が全部100のものが必要な訳ではない。高ければ高いに越したことはないが、とにかく学校の設立された目標は国家に必要な人員を質と量、共に過不足なく、供給することなのだから。少なくとも最低限の能力を兼ね備えた従順な人民を。


 ここまで読んである種の欺瞞に気付いただろうか。我々は自分に意志があるかどうかですら定かではないのにも関わらず、他者はあたかもそれを完璧に兼ね備えているものだと見事にも錯覚する癖がある。確固たる意志を必ず持ち合わせているものだという身勝手な解釈をさも当然であるかのように誤認する。それだけには飽き足らず、今度は自分の手に負えるかどうか定かではないにも関わらず、目に見えないものに対しても自身と同じような様式で持ってぺろりと平らげようとする癖がある。自身の足枷でもって目に見えないものを地に引き摺り落とそうとする。


 学校が我々人民を画一的な装置に仕立て上げようと悪意を持って待ち構えているのではないことは、我々も知っての通りだ。そんなことは百も承知であっただろう? たとえ学校によってばらつきが再生産されることが事実であったとしてもだ。我々を規定するものはいつも我々自身に他ならないのだから。あの神聖なる宿舎に一歩足を踏み入れただけで、その認識が誤りであることを即座に痛感したのではなかったか。結果的にそう見えることは否定はできないかもしれないが、しかしそれは善良で親切で丁寧で寛容で素朴で純粋で人畜無害な人民の真っ赤な嘘である。万国の人民よ、あくまで人民たれ! 国の為に人民があるのではない。人民の為に国があるのだ。国家に、学校に、社会に、文化にあたかも人格が宿っているかのように空目するのは結構だ。ただそれらに呑み込まれてはならない。我らの前にユートピアがあるのではない。背後にもない。我らの足元にひっそりと隠れてあるのだ。それにいつまでも気づかず、ふらふらと彷徨い歩いているのだ。城を右手に前進。それなら、いつまで経っても城へは辿り着かないじゃないか。存分にばらつこうではないか。散開しようではないか。めちゃくちゃに歩き回ろうではないか。退屈は枕に月は朧げに。そうこうしているうちに、いつしかその背後に一瞬の秩序を見出すことなど実に容易いこととなるだろう。朕は国家なり。国家はものではない。国家は虚構ではない。しかし、今こうしてここに生き延びてあるのだ。


 ある程度画一的であるのはもちろん重要だ。そうでなければきっと崩落してしまうだろうから。でもそれと同じぐらいばらつかせるのは重要だ。ばらつきは悪ではない。少なくとも集合が悪ではないのと同じぐらいには。

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