Nikonのカメラ ファインダーから見えたもの
数多あった趣味の中でも、写真を撮るのが一等好きな人だった。
大きなジュラルミンのカメラケースに幾台ものカメラとフィルム・望遠レンズを詰め込んで、何処へ行くにも携えていた。
現像してくれる写真屋さんも田舎町にはまだ少なかった頃。自宅の狭い子供部屋を暗室代わりにしていた事も、そういえばあったっけ。
雨戸とカーテンを閉め切って薄暗くした部屋に赤い光が灯っていて。壁から壁へ張り巡らした紐に現像液に漬けた生の白黒写真を吊るして乾かしていた情景が、朧げながら記憶にある。
カメラの性能がどんどん良くなり巷に写真現像受付してくれる場所が増え、カラーフィルムも入手が容易になっていくにつれて、父の写真熱は益々高まっていった。
自然豊かな土地柄もあり風景や植物たちの写真が多かったが、地域行事や職場での撮影係も当然のようにしょっちゅう買って出ていた。
常に肩からカメラをぶら下げて大量の写真を撮り、焼き増ししては惜しげなく皆に配りまくるのだった。
やがて趣味が高じ、一般にはあまり普及してなかったOHPのスライド写真にハマった時期もあった。現像からフィルムが戻ってくる度に、居間を真っ暗にしてのOHPスライド上映会が開かれた。
はじめのうちは襖をスクリーン代わりにしていたが、すぐさま本物のスクリーンを入手。山歩きで遭遇した美しい風景や草花の写真が、カシャン、カシャン、という音と共にビッグサイズで鮮明に写しだされていく。それは小さなEL版の写真を見るのとは全く違って、確かになかなかの迫力だった。
ただ、仕上がり具合を丁寧に1枚ずつ確認していくから、始まるとなかなか終わらない。その間 居間は真っ暗なままだ。ホントはゴールデンタイムのテレビが見たかった事も多々あったんだけど 笑。
そんな父から、ある時あまり使わなくなったカメラを一台譲ってもらった。
Nikonの中古フィルムカメラ。高校1年くらいの頃、だったかもしれない。
嬉しくて、色々試し撮りした。家族や友人、風景や、飼い猫や…。
とはいえまだフィルム自体が結構高価だった頃。一枚一枚、ちょっと緊張しながらシャッターを切った。
現像に出し1週間。仕上がり日にネガと写真を取りに行くときにはウキウキワクワクした。
赤茶色半透明のネガフィルムと共に、縦長の白い紙袋に納められていたサービス版写真たち。袋の口を開き、24枚ほどの写真の束をちょっと緊張しながら取り出す。
大きな期待と共に恐る恐る見てみると……そこに写る友人や家族は、どれもこれもちょっと表情も覇気も薄い感じがした。写真の中央付近に、ちんまりと小さく大人しく収まっているものが殆どなのだ。
あれえ…?思ってたのとだいぶ違う。なんか全然、物足りない感じ…。平たく言うとそれは「つまらない写真」だった。
当たり前のようにいつも目にしてた父撮影の写真は、実は結構良く撮れていてその腕前はかなりのものだったんだ、とその時初めて理解したのだった。
確かに父が撮ったものは、どれも表情が生き生きとして鮮明で、臨場感や迫力があった。風景写真でも同じだった。
被写体に問題があるわけでないのは、残念ながら明らか 笑。
オートフォーカスなんて無いから勿論自分でピントを合わせてシャッターを切るのだが、そのピント自体がちゃんと合っていても、何かが違うのだった。はて?何が?
こじんまりとしすぎな私の撮った写真、その出来を見てある時父がコツを教えてくれた。
それは「人を撮るときは、もう一歩二歩 近寄って撮れ。そして顔に光が当たる向きを考えろ」というものだった。
ファインダーをのぞく時、自分はついつい欲張って沢山の人が入るように、全身が写るように、遠くの景色が入るように、と引きのアングルで構えてしまっていた。
そうでなくて、写真に納めたいその人にもっと思い切って近寄れ、と父は言った。
それが生き生きした写真を取るコツだ。そして瞳に光が入るとより表情が輝く。瞳に光がない所謂黒目の写真は、表情が乏しくなって魅力も半減して見えてしまう。
だから、何処に影が出来るか・光が当たるかをいつも考えて構えろ、というのだった。
なるほどと至極納得した。
それからは常に、カメラを構えた時はその言葉が頭に浮かぶようになった。
他人を撮ってはその写真を配り歩いていた父。
私自身もいつしか父を真似て何処に行くにもカメラを携え、他人ばかりを撮りまくるようになっていた。そして父ほどではないが、増え続けるアルバムは書棚に納まりきらないほどの数に上って行った。
デジカメが登場すると、フィルムカメラは急速に市場から消えて行った。
最初に購入したデジカメは信頼のNikon。性能は申し分なく、便利で手軽でローコスト、とても重宝した。それからは自宅用のプリントは回数が急激に減っていき、アルバムはあまり増えなくなった。
そのお陰というか、書棚がパンクするのはかろうじて免れた 笑。
父が亡くなり時代がそんなデジカメに代わっても、以前と変わらず写真は撮り続けた。
自分が撮られるのは苦手で、撮影係がやっぱり性に合っていて好きだった。
みんなのイキイキとした表情、貴重な一瞬や美しい情景が撮れた時の達成感。残したい一瞬を切り取れた時の喜び。あとで見返してその感動を思いかえすことも好きだけど、何よりも、その写真を見た人が喜んでくれた時の笑顔。それが嬉しかったし、大好きだった。
だから頼まれてもないのに印刷しては、写っている人にホイホイ配り続けていた。
撮った写真を惜しげなく配ってばかりいた父の気持ちが、後になってよくよく分かったものだった。
今はデジカメも使わなくなりスマホにまかせっきり。撮り溜めた撮影データのフォルダは、先代と当代のニャンコたちで埋めつくされ、今も日々増え続けている。
でも、父の教えはスマホでぷーちゃんの表情を撮るときにも必ず、思い出す。
もう一歩 近寄れ。瞳が輝くように、撮れ。
ここまで書いてきて、ああ、これって写真に限らないんだなと ふと思った。
誰かや何かと触れ合う時。心の目を、その人に合わせる時。
「ファインダー」finder。見つけるモノ。相手をよく見る為の、窓。
ファインダーをのぞく時と同じようにもう一歩近寄って、よく見て。その瞳が輝く瞬間を、見落としていた何かがキラッと光って見える瞬間を、いつも探していけたらいいなと思う。