第一部 15話 深い霧
仕方がないので、眠る女の子を背負って俺は歩き始める。
崖の下にも森は広がっているが、猛獣などはいないはず。
崖に沿って歩けば家に帰ることは難しくない。
「ちくしょう、どれだけ眠るんだ……」
「起きてほしいの?」
思わず愚痴るが、リックの切り返しに黙る。
崖を左に見ながら少し歩くと、朝の森に霧が出始めた。
「遠いのか?」
「いや、すぐに街道に出るはずだ。昼前には村に着くだろう」
霧が少しずつ深くなっていく。
目の前すら見えなくなり始めた頃、俺は思わず呟いた。
「昔、こんなことがあった気がするな」
「ナタリーを運んであげた?」
「いや、もっと昔だ」
「? もっと昔ってどういうこと?」
リックには話しても良いだろう。
隠しきるのは難しいだろうし。
「これは秘密なんだけど、俺には生まれる前の記憶があるんだ」
「???」
使い魔は不思議そうな声を出す。
「昔、世話の掛かる女の子がいてな。良く運んだものだ。
いつも一人で隠れて泣いて、泣き疲れて寝ちゃうんだ。
俺がいつも死ぬ気で探して運ぶ」
「仲が良かったんだな?」
「ああ、幼馴染だ」
――加奈、と呟いた。
「……うそ」
驚いた声が、後ろから聞こえた。
「え?」
「じ、仁君なの?」
なんで、俺の名前を知っている?
咄嗟に反応が出来ずにいると、背後からの声は続く。
「私、加奈」
「いや、さっきまで別人……」
元気いっぱいに走って叫ぶ姿は加奈とは程遠かった。
――待てよ。
俺の時もアッシュの魂は部分的に残っていた。
ということは、まさか。
「あの子はアリス。二重人格、になるのかな?
この体の持ち主なの。今も聞いてるよ、めっちゃ警戒してる」
「じゃあ、本当に?」
「うん」
「良かった。加奈も一緒に来れたんだな」
「変なサラリーマンから少しだけ説明された」
「ははは、変なサラリーマンか」
笑いながら、胡散臭い四角い顔を思い出す。
「でもここで会えるなんて、すごい偶然だねぇ」
「確かに……いや、サラリーマンが仕組んだのか?」
「あ、そういうことか」
俺は加奈を背負ったまま、黙って歩いた。
加奈は歩こうとしなかったし、俺も歩かせようとはしなかった。
「……この世界に連れてきちゃったけど、良かったか?」
「うん、あのまま――死ぬよりは良かったよ」
加奈が言葉を選んだのが分かった。
『殺された』と言いたくなかったのだろう。
不意に、加奈が軽く身じろぎをした。
鼻を啜る音が聞こえる。
「私、礼君に」
小さな声で、加奈が呟いた。
礼というのは兄さんのことだ。
霧は深くなる一方で、すでに目の前すら見えない。
崖を左手で触りながら、手探りで進んでいく。
「ああ、分かってる。俺もだ」
「礼君は私を刺して、笑ってた」
「うん」
「私のお父さんも、お母さんも、お兄ちゃんも、殺したんだって」
「俺の家族もだ」
「礼君、あんなに優しかったのに」
「そうだな。尊敬してた」
「いつも一緒にいたのにね」
「うん」
「気づけなかった、なぁ」
「……うん」
「今度は……今度は、止めたいね」
「ああ――絶対に」
深い、深い、霧の中。
お互いの顔すら見えずに、二つの涙声だけが何度も何度も森に木霊し続けた。
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