『ああ、吞まれましたね?』
没入できればできるほど楽しいです。
「多分よく分からないと思いますけど、いいですか?」
これは、俺がまだ記者だった頃の話。先輩のツテで、1人の小説家さんと飲んだことがある。かなり酒が進んだ頃、彼女が小説家を志したきっかけに話題が移った。
「わらびちゃんという小学校からの友人がいてね、あだ名はわーちゃん。よく遊んでいましたし、中学以降も遊ぶ頻度は減ったけど、定期的に会っていました。」
「仲が良かったんですね。」
「ええ。それでね、わーちゃん1つ特徴的なことがあって。『ママの料理だけは好きなの』って口癖のように言ってました。」
「お母さんの料理日本一!いや、世界一!ってことですかね?」
「でね、ふと気付くタイミングがあったんです。わーちゃん、別に自慢げにする感じではなかったなって。なんというか、ただ感想を言ってるだけみたいな。人に自慢したいなら、家に友だちを呼ぶなりしますよね。でもそんなこともなかった。」
「…それ本当に美味しかったんですかね。」
「それはそうだったと思いますよ。お弁当はいつも彩り豊かで、ほっぺたが落ちそうなくらい美味しそうに食べていた姿、よく覚えてますから。」
「あ、それはごめんなさい。」
「だからね、よかった、誰も気付けなくて当然だったんだと思いました。ママの料理だけは好きなのっていうのは、ママの料理が何よりも美味しくて好きっていう意味だけではなかったって。」
「『ママの好きなところは料理だけ』。そういう意味もあったんだと思います。そうじゃなかったら、母親を40回も刺せることないんじゃないですかね。」
俺はそこで初めて、話始めから引っかかっていたものの正体に気が付いた。先生の友人、「わらび」。もう20年も前になるか、母親をメッタ刺しにした娘の名だ。「刺した回数はママの年齢と同じです。ママに誕生日ケーキ、用意できなかったから…」。
事情聴取で放たれたこの薄気味悪い言葉はあまりにも有名だ。わらびという名前の珍しさもあり、簡単に思い出せた。
「あの、」
「可哀想なことをしました。私はニュースで初めて、彼女のことをまともじゃないって思ったけど、別にわーちゃんは昔から変わってなかったのかもしれません。私が勝手に『普通』と思ってただけであって。だからこの話、信じられないくらい面白くありませんか?」
俺は耳を疑った。この話のどこが面白いって?
「他人の言葉ってよく分からないですよね。同じ言語を使っているのに、相手のニュアンスが自分とは全く違うことがある。だから、あの言葉はSOSだったのかもしれないし、もしかしたらずーっと、ずーっと、『犯行声明』を出し続けていたのかも。」
冷や汗が止まらない。酒やつまみも胃から全部戻ってきそうだった。だが、話はまもなく終わった。
「ただの口癖、ただの言葉に完全に呑まれてしまいました。でもまぁ、この話に怯えるのではなく、自分も人を吞んでみたいって小説家になった私だって、十分狂っているのかもしれませんね。」
先生の本はずっと好きで、いつも新作が出てはすぐに買っていた。でも何作ヒットしても、一番好きだったのは彼女のデビュー作だった。けれどあの日家に帰ってから、その題名をまた目にした時、俺はもう二度と彼女の言葉を読める気がしなかった。
「あ、そうだ。俺は今、この人が小説家になったきっかけを聞いていたんだった。言葉の扱いは上手いはずなのに、いつの間にか何の話をしていたのか忘れてしまっていた。」