世界の平和に貢献したかっただけなのに
1.異世界召喚
50代の転職活動
今日も仕事から帰宅後、食事と入浴を済ませ、リビングの片隅に置いてあるパソコンの前に座り、コーヒーを片手に転職サイトを眺めている。「え、こんな条件で」とか「こんなところからスカウトが」とか、転職サイトの広告を目にするが、それは魅力のある人材、若くて、学歴があって、能力が高い人材にしか訪れないチャンスであって、50歳を過ぎ、体力的にも能力的にも限界がきているおじさんには関係のない話。いや、そんなことは最初から分かってはいるが、あんな広告見たら期待しちゃうじゃない、少しは。
スカウトなんてほとんどなくて、条件合致で応募しても秒で「募集企業様にご紹介が困難です」って返信がくるけど、何が理由で紹介が困難なのよ、年なのか、経歴なのか、学歴なのか。いやさ、AIにより秒で判断されんだからそりゃ年齢だってわかるけどさ、定型文じゃなくて、理由ぐらい添えてくれたっていいじゃない、AIさん。ま、ビジネスで人材紹介やっているわけだから、市場価値のないおじさんには冷たい対応も理解は出来るけどね。
サイトを眺めながら脳内で愚痴が止まらない、今日も早めに就寝しようか。全く集中できず無駄な時間が流れていく。
秋も深まり晩は寒さが強まってきた。そろそろ布団に入ろうかなと思っていたところに、テレビを見ている妻がこちらを振り向きもせず、のんきな声で問いかけてきた。
「どっか、いいところ見つかった。」
「いや、まだだけど。」
口をもごもごさせながら答える。
「もういい加減我慢したら、年なんだから、長いものには巻かれなさいよ。」
半笑いで諭される。そんなことはわかっているけど、それが出来れば苦労はしない。前回の転職時は妻に反対されたにも関わらず転職し、結局大失敗。パワハラ企業からパワハラ企業に転職してしまった。反対された手前、失敗したことを打ち明けられず、転職活動の理由を誤魔化して、パソコンの前に座っている。
「そういえば、娘は。」
話題を変えるために聞いてみる。
「バイト。欲しいものがたくさんあるんだって。」
「学生時代は自由にすればいいさ、社会に出たら我慢の連続だしな、で、息子は。」
「残業みたいよ、最近帰りが遅いし疲れているみたいだから、顔見たら聞いてみてあげてね。」
「あぁ、わかった」
常に転職活動している父親に仕事の悩みなんか相談しないだろ、と思いながら返事をしてみる。
「で、あなたは何がしたいのよ、仕事の内容とか。」
話題を変えることが出来ず、結局転職の話しに戻ってしまった。
「いやー、やりたい仕事はあるよ、出来る、出来ないは別にして。」
「え、なに、あの世界の平和に貢献したいとかいうやつ、まだ言ってんの。具体的に何か出来ることあんの。」
「いや、今は未だ、具体的じゃないというか、漠然というか。」
「あなたの人生だからあんまりうるさく言いたくないんだけどさ、今の環境から逃げたいんだったら、もう少し真剣に考えてみたら。自分で出来ること、出来ないこと、やりたいこと、やりたくないこと、それを決めてから転職先探したら。」
そんな正論を聴きたくないから、話題を変えたかったのだが。言われている内容は良く分かるし、反論の余地はない。自分でもそうすべきだと思う。ただ、適当に世界の平和に貢献したいと思っているわけではない、人々の争いが絶えない世の中で、平和の為に何か自分が出来ることはないのだろうかと、子供のころからずっと思っている。ただ何も行動は起こせていないのだが。
しばらくの沈黙の後、妻が優しい声で提案してくれた。
「私も仕事しているし、子供たちも成人してるんだから無理して仕事しなくても大丈夫よ、今の会社が嫌なら主夫になってもいいじゃない。向いているじゃない主夫。」
「うん、ありがとう。」
色々心配してくれるのは本当にありがたい。だからこそ、今の環境からただ逃げるのではなく、自分が出来ることは頑張りたいと思う。実際は何も頑張れてはいないのだけれど。
布団に入るタイミングを逃し、またしばらくパソコンの画面を眺めていた。そこで1件のスカウトの連絡がきていることに気が付いた。多くのサイトに登録しているので通知を見落としたのか、身に覚えは無かった。が、とりあえず内容を確認しようとメッセージを開いてみる。
すると『世界の平和に貢献できるお仕事、あなたも人々を笑顔にしてみませんか!』の文字が目に飛び込んできた。正に求める内容がそこにはあった。ただ、こういうのは応募資格が厳しいし、応募資格が緩い場合は労働条件が悪いと考えられる。慎重に条件を確認しなければならないと思いながら、詳細ページを開いてみる。
このスカウトは厳選した方にお送りしております。本当に世界の平和にご興味がある方にのみ、詳細をお伝えします。お聞きになりたい方はぜひエントリーを。と書いてある、非常に怪しい。ただ、エントリーしないと条件はわからないし、仮に条件が合わない場合は一次面接から辞退したって構わない、先ずはエントリーしないと始まらない。少し躊躇はしたものの、エントリーすることにした。
異世界へ
突然、とてつもない大きな音、衝撃とともに意識がぼやっとした。視界は暗くなり、貧血のような症状が続いた。年も年だしいよいよ重篤な病気かと怖くなったが、しばらくすると薄っすらだが周りが見えてきた。
ただ、見えてきたのは良いのだが、見たことのない場所だった。火を焚いていると思われる薄暗い明かりを頼りに目を凝らすと、板の床の上に直に座っていた。更によく見ると、その部屋は円形で直径10mぐらいの大きさだった。
目の前には真っ白な着物を着た長い黒髪の女性がいた。感情の薄い目でこちらを見つめているように見える。座り込んだ体のそばには、腰に短剣を佩き、皮の胸当てらしきものを着けている兵士らしき男が心配そうに体を支えてくれ、理解できない言語で声をかけてくれている。
何とか状況を理解しようと、立ち上がり周りを見渡すも、部屋には火を灯すもの以外何もなく、人も白い着物の女性と兵士の二人だけで、何ら手がかりもない。しきりに兵士は声を掛けてくれるが、意味がわからない。ただ、敵意が無いのは身振りや口調で理解が出来るので、怖くはなかったが、パニック状態には違いなかった。
意思疎通が出来ないことが分かったのか、白い着物の女性が兵士に命じ、別の部屋に連れていかれた。兵士は身振りで椅子に腰かけるように促したのち、部屋を出ていった。しばらくすると、先ほどの女性と同じ白い着物を着た少女を連れてきた。どうやら、用があれば、この少女に伝えるようにと言っている様な気がする。身振り手振りでの意思疎通であり、合っていないかも知れないが、まぁ仕方があるまい。
その後も兵士と少女はしばらく会話を試みてくれたが、言葉が理解出来ないので、今、この状況を理解することは出来なかった。しばらくすると兵士も少女もあきらめた顔で部屋を出ていった。
とりあえず簡素な寝床に横たわり、状況を整理しようと考える。ただ、状況を整理しようにも何の情報もなく、とにかく何が起きたのか全く理解できない。ただ、確かなことは言葉も通じない、見知らぬ場所にいることだけだった。
何とかここの人たちと意思疎通を図り、状況を理解し、家族のもとに帰らねばならない。ただでさえ心配や苦労ばかりを掛けている家族に、これ以上の心配はさせたくなかった。言葉については、AI搭載の翻訳眼鏡を着けていたので何とかなるかと楽観視しているが、この見知らぬ土地にいる理由がどう考えてもわからない。
瞬間的に場所を移動する技術は確立されてはいないので、何らかの手違いや悪戯で仮想空間にいるのか、それともあの貧血のような症状は重大な病気で、治療法がなくコールドスリープにされ、何らかの事情により言語や文化が変化するほどの時を超えてしまったのか。
可能性は色々と考えられるが、どれも感覚的にだが、しっくりくるものではなかった。その後も考え続けたが、神経の高ぶりなのか、ふわふわと宙に浮いた様な感覚のまま、眠気や食欲に襲われることもなく、夜明けを迎えた。
翌朝、少女が部屋にやってきた。布を体に巻き付ける様な服に着替えさせられ、着ていた物は下着も含め、洗濯でもしてくれるのかどこかにもって行かれた。体に巻き付ける服は着なれないせいか、質素なせいか、体に合っていない気がしてとても着心地が悪かった。
着ていたものをどこかに置いてきた少女が部屋に戻ると、AIに単語を学習させるべく、早速身振り手振りで質問を始めた。部屋の中においてある寝床や食器、衣服類、外に出て色々な動植物や動作などの単語を聞き、それを自分の使っている言葉で発し、翻訳を積み重ね、単語を学習していった。昼頃には少女が発する単語の意味を眼鏡が翻訳し、骨伝導で伝えてくれるようになった。
後は眼鏡が教えてくれる発音をまねて、言葉を発し、片言で会話をこなすことで、文法に慣れ、より正確な意思疎通が出来るようにするだけだ。
午後には少女と片言の会話を楽しむこととした。少女との会話で、ここの文化レベルが、物質面では非常に貧しいが、精神面では非常に富んだ文化を持っていることが理解出来た。少女は天に仕える立場にあり、名前は与えられていない。豪華な暮らしではないが、天のおかげで食べることに困らない日々を送れており、天に感謝している。と、とても幸せそうな笑みを浮かべながら話しをしていた。
この天とはどんなものにも宿っており、自然も人も天の一部であるらしい。天は雨で大地を潤し、草花を育て、それを糧とする動物を育て、それを人が糧とし、やがて人は死を迎え大地に帰り動物や草花を育てる糧となる。この循環に感謝し、必要以上の欲望を持たず暮らすことが大事なのだという。
必要以上の欲望は天の怒りを買い、日照りや洪水など自然災害が起きるのだという。そうならない様、少女を含む天に仕える者たちは、日々天に感謝を捧げ、崇める儀式を行っているのだという。
他にはこの地は『カの国』と呼ばれ王が支配していること、天に仕える者たちは王の庇護下にはあるが、王は必要以上の欲望を持っており、それが天の怒りに触れないか心配であること、そんなことが大まかにわかった。そんな話しを片言で何とか続け、だいぶ会話になれてきたころには日が暮れかかっていた。
日が暮れ、少女が戻っていった後、先日の兵士が部屋までやってきた。どうやら少女から簡単な会話が出来るようになったと聞き、来たらしい。
「私はカの国の兵士、リュウと申します。天に仕える者の長、エン様が事情を説明したいと申しております。ご同行いただけないでしょうか。」
「はい、こちらとしても事情が呑み込めず困惑しております、説明を頂けるのは助かります。」
出来るだけ丁寧にと意識し、返答した。翻訳を聴いて、返答を考え、それを眼鏡に翻訳してもらうので、時間差で会話に間が出てしまう点はあるが、それでも意思疎通については概ね問題はなさそうだった。
リュウの後について建物内を移動し、昨晩の円形の部屋に着いた。円形の部屋には白い着物を着た長い黒髪の女性が待っていた。女性は天に仕える者の長エンだと名乗った。
「カの国 天に仕える者の長、エンと申します、召喚人、よくぞお越しいただきました。今の状況が理解できていないと思います、私が説明できる範囲でお話しをさせていただきます、よろしいですか。」
「承知しました、ところで“ショウカンビト”とは私のこと、の認識で良いでしょうか。」
相手の態度からなのか、品格からなのか、慇懃に答えてしまう。
「はい、あなたは我々から見た場合、召喚人となります。召喚人とは異世界からこの世界に召喚された人を指します、つまり、あなたは召喚人となります。
私は天より、世界の平和の為に召喚人がこの地に現れ、力を尽くす。その手助けをするよう御言葉を賜ったのです。そしてその通り、召喚人が現れました。御言葉の中に、召喚人は西へ向かい旅をする、その旅立ちの手助けをせよ、とありました。」
他人事の様な気分で話しを聞いていたが、どう考えてもこれは手に余る。思い出せば、確かに世界平和についての仕事にエントリーはした、が、これは違う。絶対に違う。
「確かに私は世界を平和にしたいと望みましたが、あくまでも自分のいた世界の中で、自分の出来る範囲でと考えていました。そんな大きな話しをされても困ります。出来るのであれば、直ぐにでも元の世界、元の家に帰りたいのですが。」
なるべく冷静に伝えてみたが、答えは予想されたものだった。
「残念ながら元の世界に戻る方法を私は知りません。その方法があるのか、ないのかもわかりません。ただ、私は天の御言葉をあなたに伝え、旅の支度のお手伝いをする。それだけです。」
淡々と、感情の薄い話し方をするこの女性に多少怒りが湧いてきた。少し怒りの感情を入れながら質問をしてみる。
「西に旅をするとおっしゃいましたが、西に何があるのでしょうか。」
「それも私にはわかりません。ご自身で西へ向かい確かめて頂くしかありません。」
「おおよその状況はわかりましたが、私はこの世界のことは何も知りませんし、旅をする体力も知識もありません、とても世界を平和にすることは出来ないと思います。」
とてもじゃないが見知らぬ土地で旅なんか出来ない、ましてや50歳を過ぎ、体力的には全く自身がない。たとえ旅に出たとしても、慣れない環境で直ぐに体調を崩してしまい、寝込んでしまうのが容易に想像できる。何とかこの状況を回避し、元の世界に帰る方法を探そうと考えていた。
するとそんな考えを見透かしたようにエンが諭すように話しを続けた。
「召喚人が世界を平和に出来るのか、それは私にはわかりません。しかし、旅に困らないように、そこに控えているリュウ、そしてもう一人、西の地理、民族に詳しい者を供としてお連れ下さい。」
「ご配慮感謝いたします。ただ、旅が出来ないと考えている点の一つは、自分の体力についてです。屈強な兵士な方、旅する土地に詳しい方と共に旅をすることになれば、大変心強いのですが、その旅に私が耐えられないと思います。」
正直な気持ちで伝える、本当に出来そうにない。
「その点については、ご心配される必要はありません。召喚人はこの世界の理からは外れています。この世界のすべてから干渉されないのです。あなたは確かに私の目の前に存在していますが、触れることも出来ません。私だけではなく、この世界に存在する、ありとあらゆるもの全て、あなたに触れることが出来ないのです。
つまり、他者から刃物で切り付けられようとも、魔物に牙で襲われようとも、召喚人にその刃や牙は届かないのです。あなたはこの世界では命の危険にさらされることがほとんど無いのです。」
混乱しながら、何とかこの状況を理解しようと考えようとしてきたが、とても理解が出来る状況ではない。何とか冷静を保ちながら話しを聞いてきたが、怒りの感情が更に湧いてくる。理解が及ばない状況に巻き込まれ、しかも淡々と命の安全はあるから旅をしろと、とても納得のいく話しでもない。
「いや、ちょっと待ってください、この世界にあるものが全て私に触れられないなら私はどうやって存在しているのでしょうか。座ることも立つことも出来ず、服も着ていないことになりませんか。」
「混乱は理解できます、ただ私には、天の御言葉をお伝えすること、旅のお手伝いをすること、これしか出来ません。」
決して、目の前にいる女性が悪いわけでもないが、話しの内容も理解出来ないし、話し方も気に入らない。このままでは埒が明かない。
「その“天”と話しをすることは出来ませんか。」
感情を抑えようとするが、怒気が含まれた強い口調で言ってしまう。
「それは出来ません、天からは御言葉を賜るだけです。」
淡々と感情のない説明口調に怒りの感情は最高潮に達してしまった。この感情を何処にぶつけて良いのかわからず、しばらく黙っていた。すると女性は多少困った様な顔で話を進めてきた。
「あなたの状態は、私にも理解は出来ません。説明も出来ません。ただ、この世界の理から外れているあなたの体の周りには膜のようなものがあり、この世界とあなたをその膜が隔てているような感じだと思います。
あと、召喚人の体は時が止まった様な状態と考えられます。ですから、召喚人は呼吸も必要としていないのでしょうか。」
慌てて口に手を当て、胸に手を当て確認をすると確かに呼吸をしていない。心臓の鼓動もわからない。しかし苦しくはない。そういえばここにきて丸一日が過ぎているが、食事も水分も取っていない。それでも飢えや乾きを全く感じていない。
話しを聞いても自分の体の状態、おかれている状況は全く理解が出来ない。何を考えて良いのかもわからない。ただただ混乱するだけだった。
「今は混乱していると思いますので、この話しの続きはまた明日とさせていただきます。」
沈黙がしばらく続いた後、淡々と、そして一方的に伝えてきた。確かに今は話しができる状態でもないし、これ以上の情報を得たところで悩みが増えるだけのような気がする。
申し出を受け、部屋に戻った。
実験
部屋に戻ってあらためて自分の体を確かめてみる。エンの言った通り、確かに体の周りに膜があるように見える。実際に見えるわけではなく、例えば、良く見ると着物と体は一切接触していないし、手近な木製の食器を持っても、その食器に手は触れていなかった。ただ、物は持てるし、投げることも出来た。
眼鏡については元の世界からこの世界に持ち込んだ物なので直接触ることが出来ている。であれば着てきた服や、下着も触れることが出来ると思われる。体に接触しない衣服は落ち着かないので、明日少女に言って、早々に返してもらおうと思った。
少し冷静になって自身の体の状態を観察してみる。体は常に浮いている状態だと思う、直接触ることは出来なくても圧力は加えられるようで、地面を蹴って飛び上がることも出来た。少し期待していたのだが、限界を超えての跳躍は無理そうで、あくまでも元の世界で自分が出来た範囲だった。圧力は相互に働くわけではなく、体に圧はかからない。
少し怖かったが、恐る恐る壁を蹴ったり、殴ったりしてみた。木の壁をへこますことは出来、体は傷つくことなく、痛くもなかった。物を持つ時もそうだったが、圧力が体にかからないので、手には持っている感覚がない。物を持つためには、慣れるまでは、視覚だけが頼りだ。ただ慣れれば難しいことではないように思える。
この膜を、元の世界での物理法則を当てはめて考えるならば、音、空気の振動は伝えてくれているし、可視光も透過しているから視界も悪くない、色も確認できている。つまり電磁波は透過していると言える。であれば、熱放射も透過する可能性があり、確かめることにしようと思う。
今後何をするにせよ、今の状態を把握するために、明日は色々実験することにしよう。実験項目を書き出したいが紙もペンもない。仕方がないので、石で木の壁を削って書き出してみる。
①基本的な運動能力の確認
②水中での活動
③熱に対する耐性
④外部からの衝撃、圧力に対する耐性
4つの実験手順、方法を考え、結果を推測しながら、少女が来るのを待った。日の出を迎え、しばらくすると少女が現れた。少女に着ていた服を返して欲しいこと、実験の為、外に出たいことを伝えた。
すると少女は実験についてくると言い、着ていた服は今日帰ったら準備し、明日の朝、持ってくるという。実験の同行は、特に断る理由もないので了承し、早速少女と出かけることにした。
少女に出かける前に実験の準備として、着替えと火をおこせる道具、それから丈夫な縄を用意して欲しいと伝え、準備をしてもらった。その後、なるべく大きな河まで案内して欲しいと伝えた。
この街の北側には大きな河が流れているとのことで、会話を楽しみながら河へ向かうことにした。
街を抜けながら少女に質問をする。そんなに街並みが珍しいのかと、笑われながら教えてもらう。整理された区画には、質素な木で出来た家屋が立ち並び、清潔さを保っている。街には商店もあり、食料品や衣類、武器や道具も買えるらしい。貨幣も流通しているが、食物や動物の皮等でも交換が来るようだ。
行き交う人々も多いが、皆一様に厳しい表情が見える。政が不安定で、色々な物の値段が上がっており、生活が厳しいとのことだった。
街は2m程度の城壁で囲われている。見る限りこの国の成人男性の平均身長は150cmに満たない様に見える。城壁の高さとしては十分ではないが、一通りの役目は果たせるようだ。城壁にはいくつか門があり、城壁の中は兵士により治安が守られ、力のないものも安心して暮らしていける、それは大変ありがたいことだと少女は言った。
北の城門を出て10分程度歩いたところで目の前に大きな河が現れた。河は人や物資の輸送に活用されているらしく、人や物の往来が多い。ここでは実験が目立ってしまうので、人気が少ないところはないかと少女に尋ねると、少女は黙って上流に向かって歩き出した。しばらく歩くと、人気が無く広い場所に出た。ここで実験を始めることにし、少女には河原で座って待っているように伝えた。
先ずは基本的な運動能力の確認を行う。と言っても、出来ることは限られているので、広場を走ったり飛び跳ねたりしてみる。少女はこちらを見ながら大きな声で笑っている。50歳過ぎのおじさんが、何もないただの広場で、走ったり飛び跳ねたりしているのは滑稽に映ったに違いない。
推測通り、元の世界と運動能力は全く変わっていないことがわかった。ただ、呼吸をしていない、生命活動をしていないと思われるので、息が切れたり、疲れたりすることはない。延々と走っていることが出来る。これは非常に大きいメリットだ。
生命活動をしていないと思われるので、当然体はエネルギーを必要としていない。喉も乾かないし、食欲もない。それでも体は動かすことが出来る。この体を動かすためのエネルギーはどこから供給されているのか、謎は残るが後で考えることにする。
次に水中での活動について調べてみる。無造作に河に入ると服は濡れるが、体は濡れていないことがわかる。少女が心配そうに見ているので、大丈夫だと繰り返し伝え、より深い場所に進んでいく。
水の流れは腰のあたりまできている、圧力はほとんど感じないが、油断するとバランスを崩しそうになる。更に潜ってみると水圧で動きづらいが、陸上と変わらない活動が可能だとわかった。
水圧にどの程度耐えられるかわからないが、これなら鎖でぐるぐるに巻かれ、海溝に落とされたとしても死ぬことはないだろう。ただ、水中での視界は良くないので、透明度や十分な明るさがないと、水中に潜ることには抵抗がある。
川から上がると少女がこちらを見てまたしても声を出して笑っている。川の流れで着物がはだけ、いつの間にか裸に近い格好になっていた。我ながらなんとも情けない姿を晒してしまった。
持ってきた着物に着替え、気を取り直して熱に対する耐性を調べてみる。枯れ木を集め、少女に火をおこしてもらう。枯れ木が勢いよく燃えてきたので、燃えている枝に手を伸ばしてみる。熱くはない。さらに燃えている枝を掴んでみる、多少暖かい気はするが、手がやけどすることもない。
熱に関しては木が燃える程度の温度ではなんら体に影響がないことがわかった。それ以上の高温を用意することが今は出来ないので、そのうち追加で実験が必要だと思った。
多少暖かいと感じたものが、視覚と経験による効果なのか、それとも熱放射は体に届いているが、体表面の感覚器官が反応していないのか。この場合、この“暖かい”の感覚は視覚と経験からのもので、体がどれほどの高温化に晒されようとも、熱も痛みも感じないことになる。
熱放射は体に確実に届いてしまうのであれば、意識なく体を傷つけてしまうことになるので、実験を重ね、どの程度の熱までが大丈夫なのか把握しておく必要はある。
火を消そうと無造作に火の中に入ろうとした時、少女が止めに入った。この火は大丈夫だと言い、構わず火に入ったのだが、着物が焦げてしまった。残念そうな顔で少女がこちらを見ながら、だから言ったのにとつぶやき、またも笑いながら、もう着替えはありませんよ、そのままお帰り下さいと言った。
またしても大人の醜態を晒してしまったが、前向きに次の実験に取りかかる。用意してもらった縄で、なるべく外れないようにきつく縛るように伝え、手足を縛ってもらう。当然縄と体は接触してはいないが、身動きは全く取れない。しばらく芋虫の様に地面に這いつくばってもぞもぞしていると、またしても少女が笑い出したので、自分で縄をほどくのを諦め、少女に縄を解いてもらった。
体を拘束されても、怪我や痛みはないが、身動きは取れなくなる。命の危険はないが、拘束されることは避けるべきだとわかった。
最後に圧力に対する耐性を確認する為に、近くの木に登り、飛び降りてみようと思う。縄を使いやっとの思いで5m程度木に登り地面を見下ろす。が、とても飛び降りる勇気がでない。川の実験からも圧力をほぼ感じないことはわかっており、この高さから飛び降りても間違いなく痛みを感じることも怪我をすることはない。頭では理解しているが、気持ち的にこれは厳しい。
実験を中止し木を降りることとした。登っているときは必死であったため、あまり気にはならなかったが、手足が木に触れている感覚が非常に薄い。慎重に降りようと試みたが、あっと思った瞬間には手が木から離れてしまい、結局木から落ちてしまった。
多少焦ったが、何とか両手両足で着地することができた。手足に衝撃は感じない、ざっくり3mの高さ×自身の体重÷手足4本程度の衝撃には耐性があることが分かった。立ち上がると少女がびっくりしたような顔でこちらを見ていた、が、単に滑って落ちただけだとわかると、また笑い出した。結局最後の実験も笑われてしまった。
実験結果からの考察
近くに倒れていた大木に座り、実験結果について考察してみる。結果から、簡単に死ぬことは無さそうだと思える。ただ、拘束された場合は抵抗が出来ない。外的圧力で体が傷つくことはないと思われるが、元の世界での能力以上の力は出ないので、大きな力で押された場合はその力には逆らえない。
課題は今の段階で確かめられない膜の性能、波長の短い電磁波など300nm以下のものが透過するどうか。熱については木材の燃焼に耐えられるので、よほどのことがない限り大丈夫だと思う。可視光が透過しているのであれば、より小さい電磁波は透過していると考えるべきだし、都合よく可視光だけ透過していると考えるのは良くない。結果として、日に当たり日焼けすれば紫外線は透過していることがわかるし、X線による被ばくも今の段階で考える必要はないと思う。ただ、ウィルスは脅威になるかもしれない。生命活動をしていない状態であるならば、体にウィルスが侵入しても、体内で増殖することもないとも思われるので心配の必要はないのかもしれないが、可能性は考慮しておくべきだと思う。
五感については、視覚、聴覚ははっきりしているが、触覚は曖昧、嗅覚、味覚に至ってはゼロの状態。問題は触覚の表在感覚、特に痛覚や温度覚がどうなっているのかを、体を守るために継続して確かめていく必要がある。
ここまで考えた上での仮説として、生命活動をしていないのに視覚、聴覚を使い、体を意思通りに動かせている、脳も情報処理を行っていることから、今見えている世界は現実世界ではなく、仮想空間ではないかと推測できる。
となると現実の体は病院のベッドの上で、この世界に来るときに感じたあの衝撃は脳の病気か何かで、倒れた時の衝撃ではないか。現時点での医学では治療方法がなく、家族が世界を平和にしたいとの思いに応え、この空間を用意してくれたのではないかと考えることが出来る。
現時点では、これが一番現実的ではないか、だとすると、どんな状況に陥ったとしても、この世界で生命の危機にさらされることはないだろう。ただ、今、目の前にあるものが仮想空間であることの確証が何もないのだが。
いずれにせよ、しばらく様子をみながら過ごしていくしかない。そう思ってふと顔を上げると、少女がニコニコしながら顔を覗き込んできた。この少女の笑顔は本当に癒される、色々状況がわからず、不安や怒りがある中で本当に助かっている。
そういえば娘もこのぐらいの年頃には良く笑っていたな、と懐かしく思う。もしこの世界が仮想空間であるならば、経済的にも家族に負担をかけていることになる。そう思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになるが、今は何が出来るわけでもない、この世界を用意してくれたことに感謝し、この世界を平和にすることが使命であるならば、そのために努力をしようと思う。
太陽を見ると昼を過ぎている様だ。自身に食欲がないので忘れてしまうが、少女はお腹が空いているに違いない。と思ってみても、食べる物もないし、貨幣も持っていない。少女に河で食べる事が出来る魚は獲れるか聞いてみる。どれも食べられると言うので、魚獲りに挑戦してみることにした。
手近な木の枝を石で削り、銛として使えるか試してみる。水上から魚影は見えるが、屈折率の違いで正確な位置がわからず、銛を刺しても魚にはかすりもしない。だったら水面に顔を付けてと、水中を見てみるが、慣れないせいか良く見えないし、魚も警戒して寄ってこない。
それならば、と、河に潜って魚が寄ってくるのを待ってみる。幸い何分でも潜っていられるので、これなら獲れそうだと思った。しかし、結局魚のスピードに全くついて行けず、水中でも、銛は魚にかすりもしなかった。
一旦、岸に上がると少女が焚火をして待っていた。朝の実験で濡れた着物を乾かしてくれ、更には、枝に刺した魚も焼いていた。乾いた着物に着替えながら少女に魚をどうしたのかと尋ねると、近くの漁師に天の使いへのお供え物として分けてもらったのだという。
銛で魚を獲ろうとする姿をみて、あれでは魚は獲れない、と思い、漁師にお願いしに行ったのだという。笑いながら話す少女に、何とも馬鹿にされた気分だが、怒りよりも情けなさが大きく上回り、苦笑いをするしかなかった。
美味しそうに魚を食べる少女に、漁師に天の使いのお供え物としてもらったものを食べて良いのかと聞いてみる。確かに天の使いにお供えをし、感謝の祈りを捧げたので、その後は食べても問題ないという。
どうせ天の使いは食べないもの、とこちらの顔を見つめ、微笑みながら言う。確かに食べない、食べることが出来ない、であれば食べることが出来る人間が食べるべきであり、合理的だ。
その後もしばらく少女と他愛もない話しを続けた。そろそろ日が傾いてきた、帰ろうと少女を促し、街へ戻った。少女に今日の礼を言い、また、明日の朝待っていることを伝え、部屋に戻った。
旅立ち
部屋に戻るとリュウが待っていた。昨晩の続きでエンと話しをしなければならない。せっかく楽しい気分だったのだが、この先の話しを考えると気が重くなる。考えても仕方がないので、リュウと連れ立ってエンの待つ部屋へ向かった。
昨晩から動いていないのではないかと思われる姿勢でエンが待っていた。
「召喚人、ご自身の状態につて把握されたと思いますが、いかがですか。多少気分は落ち着かれましたか。」
「今日は自分の体で実験を行い、自身の状態については何となく理解できました。いろいろと考えることはありますが、今は自分が出来ることをやってみたいと思います。旅に出る必要があるのであれば旅に出たいと思います。」
そういうと少し安心した顔でエンが続けた。
「承知しました。では、リュウ、カイを呼んできてください。」
リュウが部屋を出ていき、程なくして色の白い整った顔立ちの線の細そうな一人の青年を連れて戻ってきた。
「この者が昨日お話しした、西の地理に詳しい者です。このカイ、そしてリュウの二人を供とし、西に向かって旅立っていただきます。カイ、召喚人にご挨拶を。」
青年は促され、線が細い印象とは違うはっきりとした力強い声で話し始めた。
「召喚人、私はカイと申します。カの国で天の使いを務めております。西の地理に詳しい者が必要とのことでお供をさせて頂くことになりました。ただ、私は実際に西に旅したことはありません。西から来た旅人などから話しを聞き、それを記録として残しておりますので、その記録と聞いた話しによって、召喚人のお手伝いをさせて頂きたいと思います。
体力的には自信がありませんが、知識に関しては自信を持っておりますので、召喚人、リュウさんの足手まといにならないよう努めを果たさせて頂きたいと存じます。どうかよろしくお願いいたします。」
丁寧だが強い意志のこもった挨拶でとても好感が持てた。この青年とはうまくやっていけそうな気がした。
「では、挨拶も終わりましたので、早速出立してください。」
唐突に、だが、変わらず淡々とした感情の薄い話し方でエンが切り出した。日も暮れており、こんな時間から出発する必要があるのか、急ぐ理由がわからない。だいたい少女と明日の朝、会う約束もしている。着てきた服も返してもらっていない。不満な態度を隠さず、エンに理由を尋ねてみた。
「こんな時間、暗い中を出発しなければならないのですか、理由はあるのですか。」
「申し上げにくいのですが、召喚人の身柄を引き渡すよう王からの命令が出ています。王の手のものに見つからない様、速やかにこの国から離れてください。手筈はリュウが把握しております。今夜旅立つことをカイも承知しております、今すぐに出立をお願いします。」
何故王が身柄を確保しようとするのか理由は不明だが、エンの強い態度から緊急性と良くない状況であることは伝わってくる。荷物があるわけでもなく、直ぐに出発でも問題はないが、少女にまた、明日の朝と約束したことが気になり、エンに尋ねてみた。
「それは緊急だと思いますが、少女に明日の朝、私が元の世界で着ていた着物を返してもらうようにお願いしています。明日の朝までは待てないのはわかりますが、別れの挨拶とこの二日の御礼を少女に伝えたいので、私の着物を持って、今ここに呼んでいただくことは出来ないでしょうか。」
「残念ながらそんな余裕はないのです。あの者には私から召喚人の言葉を伝えます。着ていたものも責任を持って私がお預かりしますので、何卒、今すぐの出立をお願いします。」
口調は感情のないものだが、有無を言わせぬ態度であり、これ以上の反論は無理だと悟った。
「では、エンさんくれぐれもあの子によろしく伝えてください。それでは出発しましょう、リュウさん、カイさん、よろしくお願いします。」
二人に声をかけると、リュウとカイは荷物を背負い、足早に部屋を出ていく。遅れまいとエンに一礼だけして、後に続いて暗い闇夜の中、前を歩くカイの背中を見失わないように、早歩きでついていく。