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2019年10月13日(日)


 一方その頃、カリフォルニア州サンフランシスコのとある病院で、白衣をまとった医師と身なりのいい紳士が向かい合って沈黙していた。

 彼らの眼前には一台のベッドがあり、ひとりの女が力なく横たわっている。

 直上から降り注ぐスポットライトに照らされた、枕の上の白い横顔(かお)

 それを束の間、じっと見つめて驚いた。


 杏奈(きみ)だ。


 シエラネバダ山脈で遭難したドナー隊の場面から一転、にわかに吹雪の音が止んで照明が落ちたと思ったら、次に明かりがついたとき、物語は真留子(まるこ)の母、杏奈(あんな)の視点へと移っていた。ということは君が横になったベッドを挟んで沈鬱な面持ちをしているふたりは、噂のメキネズ氏と杏奈の手術を引き受けた医者だろうと、勘のにぶい俺でもすぐに察せたのを覚えている。


「どうです、先生。杏奈の容態は?」

「ううむ……少なくとも先の手術は成功しました。あとは薬を飲みながら静養すれば、少しずつ快方へ向かうはずだった。だのに近頃、彼女の体調はまた悪化の一途を辿(たど)っている。ということはやはり、他にも(がん)が転移している可能性が……」

「そんな……ではまた手術をしなければいけないのですか?」

「そうなりますな……しかし今の彼女に残された体力では、二度目の手術を乗り切れるかどうか……」

「ああ……先生、お金ならばいくらでも払います。ですからどうか、彼女を助けてやっていただけないでしょうか。可能な限り苦痛の少ない方法で、彼女が病を克服し、生き延びられるように……」


 ふたりの男の悩ましげな会話が交わされる中、眠ったままの杏奈はぴくりとも動かない。されど照明の手助けもあり、ただでさえ白い肌が透き通るようになった君の寝顔は、何だか本当に死を間近に控えた人のごとく見えて、俺は昂揚と不安とが()()ぜになった心境でなりゆきを見守った。


 すると天井を向いた君の睫毛(まつげ)が微か揺らめき、薄く(まぶた)が開かれる。そのとき会場に居合わせた全員が息を呑み、食い入るようにそれを見ていた。そんな気がした。

 何しろようやく舞台に姿を現した君は真留子があんなにも会いたがっていた母、杏奈なのだ。これまで数人の部員が役を掛け持ちし、ひとり何役もの脇役をこなしていたにもかかわらず、君だけが最後の最後までとうとう姿を見せなかったのは、きっとこの一種神々しささえ感じさせる演出のためだったのだろうと確信した。


「……メキネズ様」


 と、やがて横たわったままの君がメキネズを呼ぶ。

 力ない病人のそれでありながら、はっきりと会場の隅々まで届く魔法のような声色は、一体どうすればそんな芸当ができるのだろうと観客を驚嘆させた。


「メキネズ様……どうかおよしになって下さい。今日まであなた様からいただいたご恩は決して忘れません。ですがもう、これ以上は……わたくしのような婢女(はしため)のために、あなた様のお手を煩わせるのは心苦しゅうございます」

「何を言っているんだ、杏奈。私は神に誓って、君を故郷の日本まで送り届けると約束したじゃないか。里では今も、家族が君の帰りを待っているんだろう?」

「いいえ……もはや便りも絶えて久しく、家族は皆わたくしを忘れてしまったか、そうでなければ飢えて死んでしまったことでしょう。ですから、もういいのです。わたくしもそろそろ、冥土へ渡った家族に会いに行きとうございます……」

「滅多なことを言うものではないよ、ミセス。あなたの病気は手術さえすれば充分治る見込みがある。つまりあなたはまだ助かるんだ。しかしそのためには気持ちを強く持って、希望の力で手術を乗り越えなくては」

「いいえ、お医者様。もう充分でございます。どうかこのまま、わたくしを死なせて下さい。お願いします。お願いします……」


 杏奈の意思は固かった。

 これ以上生きていたところで仕様がない。もはや未来には希望もない。ならば生きていても苦しいだけだ。だったらいっそ死なせて楽にしてくれという諦念と死への渇望が、多くを語らない台詞からもありありと伝わってくる。そんな杏奈の哀願を聞いたふたりの紳士は顔を見合わせ、お手上げだというように首を振った。


 杏奈にはもはや生きる気力がない。彼女がいるのは絶望という名の深い深い奈落の底で、ゆえにどんな言葉を穴へ投げ入れても、到底届く見込みがない。

 それは女衒(ぜげん)に騙され、日本から遠く離れた異国の地へと売り飛ばされ、所帯を持つ身でありながら何年も春を(ひさ)がされた彼女の境遇を思えば、嫌でも納得せざるを得ないものだった。加えて彼女を襲ったのが癌である。


 十九世紀末、当時まだ不治の病として医者たちを悩ませていたこの病は、最後に残された杏奈の生きる力をぽっきりと折り、容赦なく奪い去ってしまった。

 こうなってはもはや医者も(さじ)を投げるしかない。患者自身が生きる希望を失い、死を望んでいるのだから、懸命に治療するだけ甲斐がないというものだ。

 かくしてメキネズと医師は決断を迫られた。わずかな可能性に懸けて再度手術を敢行するか、はたまた本人の希望を尊重し、このまま死なせてやるべきか──


「いかがなさいますか、メキネズさん」

「うむ……そうだな……私としては、彼女を救いたい気持ちに変わりはない。しかし今の杏奈にとって、それが何にも勝る望みだと言うのなら……」

「先生!」


 ところが俄然(がぜん)、苦渋の滲んだメキネズの言葉を遮って、舞台(そで)から飛び込んできた人影があった。すっきりとした白いシルエットに、同じ色の帽子を被った衣装を見れば、壇上に現れた彼女が看護師であることはひと目で理解できる。


「どうした、急患か?」

「い、いえ、急患と言えば急患なんですが、今し方、保安官に運び込まれてきた()()が……!」


 そう言って看護師が指差す方角を、医者とメキネズが揃って振り向いた。

 場面が病院に切り替わった直後から、会場はしんと静まり返っている。

 荒々しく吹き荒んでいた吹雪の音も、それに代わるBGMやSEもなく、聞こえるのはただ役者たちの(そらん)じる台詞のみ。そこへコツン、と、先刻看護師が飛び出してきた舞台の袖から、近づいてくる足音が聞こえた。


 コツン、コツン、コツン、コツン。


 まるでスローモーションで再生されているかのようなその音が、観客の鼓動と同期する。そうして目を見開いたメキネズたちの視線の先に、






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