2020年1月19日(日)
「ねえ、優星くん。私たち、別れよう」
神妙な顔をした君にそう切り出されたのは、高二の冬のことだった。
冬休みが明けて新学期を迎えたばかりの、忘れもしない一月十九日。
奇しくもその日は俺の誕生日で、新春セールに沸く駅前巡りも兼ねて仙台に遊びに来ていた俺は、君の言葉をにわかには理解できなかった。
だから初めは何の冗談かと思って、半笑いで「は?」と聞き返したのだ。するとホットカフェラテ入りのカップを両手で大事そうに包んだ君はうつむいた。
まだ正月気分が抜け切らず、どこか浮き足立った一番町のマクドナルド。
何を歌っているのか一個も分かりやしない洋楽ばかりの有線放送と、他の客の談笑がけたたましく響く店内で、君は「ごめん」と呟いた。
されど俺にはそれが聞き取れなくて──否、聞き取りたくなくて。
ただ直前の君の言葉が冗談などではないということだけは理解して、ようやく、
「……なんで?」
と、最低限の疑問を絞り出した。
とっさに収い損ねた半笑いを口もとに貼りつけたまま。
「……ごめんなさい」
「いや……答えになってないって。もしかして俺、何か怒らせるようなことした? だとしたら、ごめん」
「違うの。優星くんは悪くない」
「なら……他に好きなやつができたとか?」
「……」
「じゃあ、なおさらなんで? 少なくとも、俺は……うぬぼれてたけど。歩叶とはお互い、いい関係を続けられてるって」
君が問いかけに首を振り続けるのを見て、俺はさらにそう問い重ねた。
けれども君の唇から紡がれた言葉は、
「ごめんなさい」
と、ただそれだけで。以降は何を訊いても梨の礫というか、暖簾に腕押しというか、とにかく君は音声認識のにぶいAIのごとく謝罪の言葉を繰り返すばかりで、俺の質問には決して答えてくれなかった。まるで俺の目には見えない窮屈な箱にでも押し込められたかのようにうつむき、身を竦めたまま。
そうして一向に顔を上げない君の肩が震えているのを見て、さらに笑いが込み上げそうになったのを覚えている。泣きたいのは俺の方だよ、と。
だって、とても穏やかで良好な関係が築けていると思っていた彼女からいきなり別れ話を切り出され、しかも理由ひとつ話してもらえないなんて。そんな君の態度は未だ思春期の真っ只中にいた俺の心を踏み躙り、そこに隠れたちっぽけなプライドまでぺしゃんこにしてしまった。だから俺もついムキになって言ったのだ。
「理由を言ってくれなきゃ分からないし、納得できない。でもって俺は、何も分からないまま君と別れるつもりはないよ」
と。そうしたら君は、胡桃色のロングセーターの袖をぎゅっと掴んだあと、
「……そっか」
と震えた声を絞り出した。
次いで顔を上げた君と目が合った瞬間、背筋が凍ったのを覚えている。
何故なら君の真珠みたいに磨かれた瞳の奥に、今から取り返しのつかないことをしよう、という、覚悟の火がともるのが見えたから。
「じゃあ、言うね。別れてほしい理由は、もうこれ以上、私に関わらないでほしいから。……他には何も訊かないで。私も、優星くんを傷つけたいわけじゃない」
──なんだそれ。
しばし茫然自失したあとそう吐き捨てようとして、されど真っ白に漂白された頭では、たった五文字の発声すらもままならなかった。だっておかしいじゃないか。
傷つけたいわけじゃないと言うその口で、君はふたつとないほど明確な拒絶の言葉を紡ぎ出した。そして当時ピカピカの十七歳だった俺には、君が口にした真実の裏の暗がりを瞬時に見透かすなんて芸当は、当然ながら無理だった。
おかげで数瞬の空白のあと、今度は途端にぐらぐらと世界が揺らぐほどの感情が込み上げてきて「あっそう」と投げつけるように俺は言った。
あのときの心の内に名前をつけるなら、怒りとか悲しみとか、そういう類の単語を辞書から引くことになるのだろうけど、今になって思い返してみても到底そんな単純な言葉で言い表せるものではなかったし、この部分は怒りでこの部分は悲しみだ、なんてきれいに割り切れるものでもなかった。
そう、つまるところ俺は完全に冷静さを失っていたわけだ。だから名前がつけられないほどぐちゃぐちゃになった気持ちのままで立ち上がり、別れを告げた。
「分かった。じゃあ、お望みどおりそうするよ」
と、ほとんど負け犬の遠吠えに近い捨て台詞を残して。
そこからどこをどうやって仙台駅まで戻り、白石へ帰ったのか、正直まったく覚えていない。ひとり置き去りにされた君がどうしたのかも俺は知らない。
唯一記憶に残っているのは、かんかんに暖房が効いた帰りの電車の中で、ひとり寂しくスマホに囓りつき、君の痕跡の一切を消去したこと。
写真も電話帳の登録も、SNSのトーク履歴もすべてを消し去りブロックした。
自分でもまったく女々しいことをするものだと、あとになってそれらの衝動的な行動を恥じたものの、そうでもしないと今後一生、君の名前を見るたびにみじめさに押し潰されそうな、そんな予感が働いたのだ。
何故なら君と過ごした二年間は、俺にとって本当に特別な時間だった。
だからこそ決して失うまいと、真綿にくるんで大切に温めていた。
雛の孵りを待つ親鳥にでもなったような心境で。
けれどもそういう自分を否定された。君もきっと同じ想いでいてくれるはずだ、なんて大した理由もなく信じていた日々も、すべてはおめでたい独善だったのだと冷笑された。そう思えてならなかった。だから俺も君を否定してやりたかったのだ。そして君にも俺と同じくらい傷ついてもらわなければ気が済まなかった。
ああ、我ながら実に幼稚で浅はかな思考回路だったと思う。
しかしその甲斐あって翌日からものの見事に君は消えた。俺の視界と日常から。
お互いの通う高校は相変わらず近かったものの、会う約束でもしていなければ、不思議と行き合ったりはしないもので。ブロックした以上、当然君から連絡が来ることもなかったし、俺も君を存在ごと忘れてしまおうと日々努めた。
共通の友人に君の消息を尋ねることさえも決してしなかった。
そうしてようやく本当に、君を思い出すことも少なくなった十二月のある日のこと。冬休みに入り、盆地ならではの積雪を言い訳に家でダラダラ過ごしていると、俺のスマホが不意に歌った。家族や友人とのやりとりもすっかりSNS頼りなために、久しく耳にしていなかった初期設定のままの着信音を奏でたのは、発光する画面に浮かび上がった見知らぬ電話番号だった。
もちろん普段なら詐欺かセールスか間違い電話だろうと当たりをつけて、知らない番号からの電話を取ったりはしない。されどその日は何故だか出てもいいかという気分になって、スマホを耳に押し当てた。
ひょっとすると世間では、ああいうものを虫の知らせと呼ぶのだろうか。
「もしもし?」
「あ……清沢くん?」
ほどなく電話の向こうから聞こえてきたのは、ひどく震えた女の掠れ声だった。
一体どこからどうやって俺の連絡先を知ったのだろう。
相手は中学時代から君を親友と呼んでいた、同級生の横山安里子だった。
そして彼女からの一本の電話が、俺の人生をすっかり変えてしまったのだ。
何故なら彼女はこう言った。「ああ、久しぶり」と、とっさのことで上擦った俺の声を聞いた途端、電話の向こうで泣き崩れながら、
「清沢くん……歩叶が、死んじゃった──」
と。