2019年10月13日(日)
女衒の意地悪婆さんが真留子を東海岸行きの船に乗せたのは、日本からの移民が集まる西海岸から遠ざけて、逃げられないようにするためだった。
何しろ真留子が渡った十九世紀末のアメリカは西部開拓時代の真っ只中。労働力ならいくらあっても困らないという時代だった当時のアメリカ西部には、遥々海を渡って本当の出稼ぎにやってくる日本人も多くいて、女衒はそういう同郷の士に娼婦が助けを求めないようにと、わざわざ日本人のいない東海岸へ追いやったのだ。
横山曰く、このあたりの設定は史実と創作と半々くらいなのだそうだが、しっかりと時代考証をした上での創作であるからそこそこ真実味があって、後日制作秘話を聞くまで創作なのか史実なのか見分けがつかなかった。ちなみに横山は脚本の設定を考える段階で、世界史の担当教諭である父にも相談をして、調べものを手伝ってもらったり資料を融通してもらったりと、ずいぶん助けを借りたらしい。
「だってさ、話の土台部分がしっかりしてないとその上に建ってるものまでぐらぐらして、全部嘘っぽく見えちゃうでしょ。創作って、要は嘘をどれだけ本当らしく見せれるかってことだと思うから……だから設定にはちゃんと説得力とか、リアリティを持たせたいんだ。演劇って、役者の演技と演出と脚本の全部が揃って初めて感情移入してもらえるものだと思うし……せっかく観にきてもらう以上は、とびきりの嘘を楽しんでほしいから」
いつかそう言って照れ臭そうに笑っていた横山の信条は『母をたずねて三千里』の脚本にも確かにまざまざと表れていた。
原作のマルコはただ不運な入れ違いによって、南米を転々とする母親になかなか追いつけないという状況を繰り返すばかりなのに対し、真留子が見舞われる困難はよりリアルで生々しく、観る側もつい感情移入せずにはいられないのだ。
「──真留子ちゃん、やっと見つけた」
かつて母親が押し込められていたという娼館から逃げ出して、財産も行くあても失ったかわいそうな真留子。彼女が異国の町の片隅で膝を抱え、絶望にうちひしがれていると、やがて袖から着物姿の女性が現れ声をかけた。
彼女は例の娼館で、真留子の身の上を憐れんでいた娼婦のひとりだ。
姐さんの姿を見た真留子ははっと立ち上がり、あたかも手負いの獣のごとく跳びずさった。そして今にも泣き出しそうに訴える。
「姐さん、姐さん、ごめんなさい。だけど私、もうあそこへは戻りたくないの。私はただ、お母さんに会いたいだけなの」
と、憐憫を誘う震えた声で。
すると姐さんは怯える真留子の前でため息をつき、次いで苦笑してみせた。
「大丈夫よ、真留子ちゃん。私はあなたを連れ戻しにきたわけじゃないから」
と、真留子の不安を解きほぐすように言いながら。
「実は私、真留子ちゃんのお母さん……杏奈さんがあの宿にいた頃に、とてもとてもお世話になったの。杏奈さんもあなたや私たちと同じ、騙されて売られた身の上なのに、ちっとも腐ったりしないで、いつだって親切にしてくれたのよ」
「お、お母さんが……?」
「ええ。私はそんな杏奈さんの優しさに何度も救われて……もしあの人がいなかったら、きっと侘しくて悲しくて、とっくに死んでしまっていたと思う。だから杏奈さんへの恩返しに、どうにかあなたを助けたいと思って探していたのよ。ほら、これ……少ないけれど、持っていって。そして早くこの町を出なさい。乱助が連れ戻しに来る前に」
そう言って姐さんが手渡したのは、身銭を切って作ったと思われる旅の費用だった。それを知った真留子は驚き、しかし受け取れないと首を振る。
何故ならその金は、姐さんが故郷への仕送りと借金の返済に充てるべく体を張って稼いだものだと真留子にも分かっていたからだ。
「そもそも私、この町を出てもどこへ行けばいいのか……お母さんの行方は分からないし、言葉も通じないから、日本にも帰れない。だから、せっかくお金をもらっても……もう、どうしようもないんです」
「いいえ、大丈夫。杏奈さんの行き先なら、私、知ってるわ」
「えっ!? お、お母さんは無事なんですか? 生きているんですか!?」
「もちろん。杏奈さんは去年、体を悪くしてしまって、しばらく仕事を休んでいたの。だけど私たちには医者にかかるお金はなくて、杏奈さんの病気はどんどん悪くなるばかりで……そんなとき、上客だったメキネズさんという人が、杏奈さんを助けるために身請けして下さったのよ。そして腕のいい医者に診せるために、ニューヨークへ連れていったわ」
「ニューヨーク?」
「ええ。この町から北へ一〇〇里ほど行った先にある、とても大きな街なんですって。だから、そこへ行けばきっと杏奈さんに会えるはずだわ。分かったら、ほら、行って。すぐに乱助が来てしまう。ニューヨークへは海を渡って船で行けるはずだから、港へ行くのよ」
「ニューヨークの、メキネズさんという人のところに行けばいいんですね。分かりました。私、そこへ行きます。姐さん、本当にありがとう。ありがとう……!」
真留子は涙ながらにそう告げて姐さんと別れると、早速港へ駆け出した。
そして道行く船乗りを掴まえては船を指差し「ニューヨーク、ニューヨーク」と懸命にニューヨークへ行きたい旨を伝えようとする。そんな真留子を見たアメリカ人たちは顔を見合わせ、話し合った末に彼女を教会へ連れていった。
教会にはアジアで布教活動をしていたキリスト教の宣教師がいて、彼を頼れば真留子が何を伝えようとしているのか分かるかもしれない、と踏んだのだ。結果彼らの判断は正しく、宣教師は片言の日本語なら理解することができた。彼は真留子から事情を聞き出すと、母を探して遥々海を渡ってきたその親子愛に胸を打たれ、
「皆さん、どうか彼をニューヨークへ連れていってあげて下さい」
と船乗りたちへ嘆願した。
そう、宣教師は真留子を「彼」──すなわち「少年」と呼んだのだ。
痩せこけてチビでおかっぱの異国の少女は、アメリカ人の目には幼い少年の姿に見えた、ということだろう。
おまけに「マルコ」といえば、欧米では男の名前と決まっているし。
『こうして真留子は無事、ニューヨーク行きの船に乗ることができました。ニューヨークまでの船旅は陽気で快適なものでした。何故なら真留子の身の上を憐れんだアメリカの船乗りたちが、母親想いの異国の少年を何としても元気づけようと、世話を焼いたり、歌をうたったりして励ましてくれたからです。当の真留子は、まさか自分が男の子だと思われているなんて、ちっとも気づきませんでしたが──』
という横山のナレーションは、客席の笑いを誘っていた。
つられて俺も望と目配せし合い、にやにや笑う。
それはナレーションの内容が面白可笑しかったためではない。会場のスピーカーから聞こえる横山の声が、もうすっかり緊張していないのが分かったからだ。
舞台裏で今も語り部を続ける彼女が、部員たちの熱の籠もった演技と客席の反応に励まされ、今度は少し昂揚し始めているのが声の響きから察せられた。
「いい感じだぞ、横山ちゃん」
と望が小声で、嬉しそうに囁いたのが聞こえる。
そんな望の応援が果たして届いたのかどうか、明るさを増す横山のナレーションに導かれ、真留子が再び跳ねるように舞台上へ現れた。
途端に落とされていた照明がともり、俺たちはあっと息を呑む。
何故なら舞台の上には、いつの間にやら背景に描かれた自由の女神。
そう。真留子がついに眠らない街、ニューヨークへと上陸したのである。




