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2018年9月24日(月)


「帰りたくないなあ」


 と、君がひとりごとのように呟いたのは高一の夏の終わり、厳しかった残暑もようよう来年の出番に備えて、表舞台の(そで)へと引き取り始めた頃のことだった。

 あの日、俺は高校に上がって初めての演劇コンクールを間近に控え、毎日練習漬けになっていた君を連れ出して仙台へ出かけたのだっけ。

 練習疲れとコンクールに向けた緊張で何だか参っている様子なのを見るに見かねて、九月二十日生まれの君のために、誕生日祝いも兼ねた息抜きをしようと誘い出した先は確かうみの(もり)水族館だった。


 そこでたくさんの魚たちと、涼を運ぶ水の青さに癒やされたあとの帰り道。

 強い西日が射し込んで、燃えるような茜色(あかねいろ)に染まった仙台駅の五番ホームで、水族館のロゴが入った土産屋(みやげや)のビニールを眺めながら君はどこか遠い目をしていた。

 並んでベンチに腰かけ、一時間に四本しかない上り列車を待っていた俺は、そういう君の横顔を不思議に思って見つめたのを覚えている。


「水族館、そんなに楽しかった?」

「あ、うん。もちろんそれもあるんだけど……」


 と君は明日、部に差し入れとして持っていくつもりだというペンギン柄のマシュマロが大切にしまわれたビニールをなおも見下ろしながら、含みを持たせて言葉を濁した。長い黒髪をひとつに結って、サマーポンチョの下にすらっとした脚の線がよく映えるスキニーをはいていたあの日の君は、ともすれば運動部所属の活発な女子高生という風に見えなくもなかったのに、何故だか西日が照ってくると、たちまち物憂(ものう)い思想に(ふけ)る哲学者のごとき陰翳(いんえい)を宿して見えたのを記憶している。


優星(ゆうせい)くんはさ。ときどき、誰も自分を知らないような、ずうっと遠いところへ行きたいって思うこと、ない?」

「え? いや……どうだろう。俺はあんまり考えたことないかなあ」

「そっか。優星くんにはないのかあ」


 と口では残念そうに言いながら、しかし横顔はさして残念でもなさそうな上の空で、君はふと頭上の夕空を見上げた。つられて見やった都会(せんだい)の空は、ホームにかかる屋根の間に挟まれて、肩身が狭そうに縮こまっていたのを思い出す。


「……歩叶(あゆか)ってさ。もしかして、自分んちがあんまり好きじゃなかったりする?」


 ほどなく俺の口を()いて出た質問は、付き合い始めてまだ半年という極めて微妙な時期だからこそ為し得た芸当というか、未だ君との距離を測りかねていたことが如実に表れたものだった。というのも当時の俺は君のことを名前で呼ぶのにもようやく慣れてきた頃合いで、君との信頼関係を着実に築けているという自負と、だのにまだ君のことをほとんど知らないという青い焦燥の狭間で揺れていたのだ。


 だから君とより親密になるための方策を巡らせるのに忙しく、それは果たして本人に投げかけてよい質問かどうかという点については、まったく分別がついていなかった。少なくとも今の俺ならば、あんなあけすけな質問を無造作に手に乗せて、何食わぬ顔で君の眼前へ突き出したりはしないだろう。


 そんな真似をすれば、きっと君を困らせてしまうと分かるから。


「……どうしてそう思うの?」

「どうして、って、ほら、初めてキューブで話したときもさ。歩叶、何となく帰りたくなさそうにしてたじゃん。あのときからちょっと思ってたんだよね。もしかして何か、うちに帰りたくない理由でもあるのかなってさ」

「……」

「あ……いや、もちろん、話しづらかったら別にいいんだけど」


 と、十五歳の俺はそこでようやく、他人への無理解とはときに無作法や無責任に通じるのだと悟り、慌ててそうつけ加えた。

 君の沈黙を受けてやっと気づくあたりがいかにも気のきかない粗忽者(そこつもの)という感じだが、もともと君と付き合い始めるまでは、ほとんど女子と交流する機会に恵まれなかった憐れむべき境遇を(おもんぱか)って、多少容赦してもらいたい。


「……うん。あんまり好きじゃない」


 ところが失態を自覚して慌てふためく俺に君が返してきた答えは、予想はしていたけれども予想外という矛盾した衝撃をもたらした。

 何しろ自分の家が好きではないという俺の仮説が正しかったとして、君がそれを肯定してみせるとはとても思えなかったのだ──少なくとも直前の雰囲気からは。

 されど予期し得なかった答えに面食らうあまり、俺がとっさにうんともすんとも言えずにいると、君は結った髪の先を指先でくるりと巻き取りながら笑って、


「って言ったらどう思う?」


 と、さらに返答と解釈に(きゅう)する質問を呈出してきた。

 これには俺もますます当惑し、


「えっと……まあ、人にはそれぞれ事情ってもんがあるし……」


 と愚にもつかない回答しかできなかったことを、今でも少し恥じている。


「うん……そうだよね。みんなそれぞれ、色々あるよね。生きてれば誰だって、納得のいかないことがひとつやふたつくらい」

「……歩叶にとっては、それが自分のうちってこと?」

「そう。お父さんもお母さんも、ちゃんといい人なんだけど……なんか違うなあ、私の居場所はここじゃないなあって思うことがときどきあるの。そんなこと言うときっとふたりを傷つけちゃうから、言えないんだけど」


 そう言って君はサンダル履きの足を伸ばすや、両足をぱたぱたと交互に上下させた。推察するにその行動はさして意味のあるものとは思われないが、君の素足を飾るバックルの上のビーズ玉が、きらきらと夕日を照り返してきれいだったのが印象に残っている。


 しかし自分の両親に対する評価が「いい人」というのは、今にして思えばずいぶん他人行儀だ。当時の俺はまだ君の家族と面識がなかったから「そういうものか」という当たり障りのない感想で済ませてしまったけれども、少なくとも母親の()()()さんは、うちの母親なんかよりずっと落ち着いていて母親然とした人だと思う。


 あまり笑ったり怒ったりする顔を見せる人ではないものの、物腰は理知的でしゃんとしていて、良妻賢母とかご夫人とかいう形容がひどくしっくりくる人だった。

 それを「いい人」という輪郭のない言葉で片づけてしまったあの日の君は、果たして何を思っていたのだろうか。


(たと)えるなら……そう、ちょうど水族館の魚みたいな感じ。手入れの行き届いたきれいな水槽で飼われて、毎日欠かさずごはんももらえて何不自由なく暮らせてる、つまり〝幸せ〟なはずなのに、何かずっと引っかかってるの。だって地球上に存在する魚の九十九パーセントは海や川で生まれて、そこで一生を終えるのが()()なわけでしょ? そう考えると、水族館で大事に飼われてる魚たちって何なんだろう、あの子たちは本当に幸せなのかなって……そんなことを考えちゃうんだよね」


 やがて夕空を見上げたままの君が突拍子もないことを言い出すものだから、俺はますます困惑した。君が役者としての習性で様々な物事を考察し、また感情移入したがることは当時の俺も理解しつつあったものの、まさか水族館の魚にまで同情を始めるとは予想だにしなかったのだ。


 だがちょっと冷静になって考えてみると、なるほど、君の言い分にも一理あるかもなと俺は思った。何しろ水族館で生まれ、一生を人間の管理下に置かれて過ごす魚たちは、己の本来()むべき海や川の広さを知らない。自由を知らない。

 それは恐らく、魚界(ぎょかい)の常識に照らして考えれば「普通」ではない。

 そして「普通でない」ということは、少なくとも人間の場合、不幸の二字と等号で結ばれることが多い。何故なら「普通でない」ものは社会に馴染めず、爪弾きに遭ったり陰口を叩かれたりと、とかく損な役回りを引きがちだからだ。


 当人に悪意や落ち度がなくても、多数派と違うという事実はそれだけで歪んだ糾弾の対象になる。という観点から言えば、確かに自然の摂理からはずれた「普通でない」魚たちは、かわいそうだとか不幸だとかいう同情に値するのかもしれない。

 されど俺はそういう憐れな魚たちと、君が自分を同列に並べて語るのが何だか妙に許せなかった。許せない、というのはこの場合、怒りの感情ではなくて、何だかよく分からないけれども納得がいかないという意味だ。ゆえに俺はこう言った。


「でもさ。確かに水族館とか動物園の生き物ってよく〝かわいそう〟みたいに言われるけど、あれはただ見世物になってるわけじゃなくて、見に来た人に自然や環境問題への興味を持ってもらうために飼われてるわけだろ。なら水族館の魚にだってちゃんと存在意義があるっていうか、自分にしかできない役割をこなしてるっていうか……とにかく九十九パーセントの魚には絶対になれない、特別な存在だと思うよ、俺は。……って言っても、そんなの人間の都合を押しつけてるだけだろって言われたら、まあ、そうなんだけどね……」


 と、自ら用意した反論にぐうの音も出ず、俺はハハハと乾いた笑いを最後に添えて誤魔化した。そのとき、まるで天が俺に味方したようなタイミングで『間もなく五番線に上り列車が参ります』とアナウンスが響き渡る。

 俺たちが乗る帰りの列車だった。すっかり場を支配してしまった気まずさの片隅で、内心「助かった」と思いながら腰を浮かせる。


 せっかく二十分も前からホームで待機していたというのに、白石(しろいし)までさらに小一時間もかかる電車の中で立ちんぼはごめんだ。と、アナウンスを聞いてわらわら動き始めた人だかりを見やり、俺は目だけで君を促した。

 ところが君はベンチに腰かけたまま顔を上げない。ほどなくホームへ滑り込んでくるのだろう列車の車輪が馴染みのリズムで線路を叩く音に急かされながら、俺は直前まで筋肉をこわばらせていた決まりの悪さも忘れて君を呼んだ。


「歩叶?」

「……そういうとこだよ」

「え?」


 瞬間、君が何か呟いた気がするのに聞き取れなかったのは、ついに甲高いブレーキの叫びを上げて列車がやってきたせいだ。

 ゆえに思わず聞き返したら、君はついに顔を上げた。夕日を受けてほんのり赤らんだ顔で、まるで今にも泣き出しそうな、くしゃっとした笑みを作りながら。


「そういうとこだよ、優星くん」

「え……な、何が?」

「私が優星くんを好きだなあって思うとこ!」

「へっ?」


 と刹那、まったく予期していなかった不意打ちに、俺は過去十五年の人生を遡ってみても類を見ないほど間抜けな声を上げた。君はそれを見て笑いながら立ち上がり、まるで何にもなかったみたいに「さ、行こ!」と俺の手を掴む。

 誰かが乗車ボタンを押してくれたおかげで開いた電車の扉を潜り、俺たちは向かい合って置かれた座席にわざわざ並んで腰を下ろした。

 その間も君の右手が、俺の左手を宝物みたいに握っていたのを覚えている。


 思えばあれが初めてだった。俺と君が手をつなぎ合ったのは。


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