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崩落の夜

作者: 黒森牧夫

 水銀の様などろりとした、それでいて高熱で固く凝縮させた様な濃密な闇が、闃とした重苦しい沈黙を強いる明けることの無い夜の中で、絶望とも驚愕とも度の外れた歓喜ともつかぬ奇怪な絶叫が、音のしない強風を引き裂いて流れて来た様な気がした。私は重りをぎっしりを詰め込んだ様になり乍ら短い強弱を付けて踏み出されていた足を止め、(こうべ)を擡げて耳を澄ませた。頭蓋を直接圧して来る様な黯い大気が、私の中で脈打つ沈鬱だが無情な音を浮き上がらせ、ゆっくりと頬から喉、両肩から背筋へと私の膚を撫で乍ら這い下りて行った。目路の限りに続く、ぐったりと汗を掻く段階を通り過ぎて表面からかさかさと干涸びてゆこうとしている黒々とした大地の中に瞳を凝らし、死にかけた鷹がそうする様な仕種で周囲を見渡すと、右遙か前方か或いは左前方の直ぐ近くに、何かいびつな形をした枯れ枝の様なものが転がっていることに気が付いた。手が触れられそうな距離にまで近付いてみると、それは人間の躰で、と云うよりは曾てはそう呼び得たであろうものの残骸で、ねじくれた両手を大きく虚空へと放り上げた儘、無力に打ち捨てられて横たわっていた。それは実際奇妙な肉体で、手足は棒切れの様に細く節くれ立ち、骨に干涸びた皮膚が申し訳無さそうに貼り付いている感じで、肋骨が浮き出て、まだ腹の辺りには内臓の名残りが残っているところは、まるで極度の飢餓に見舞われた不幸な子供の様であった。全身の骨格もそうなのだが、特に両手の指が悍ましい形に歪んでおり、人のそれと云うよりは畸形の烏のそれを思わせた。痛々しいのは何よりもその両目で、ぽっかりと落ち窪んだ眼窩にまるで偶然投げ入れられたごみ屑の様に萎縮して飛び出た醜く縮んだふたつの眼球は、これ以上無いと云う位に引き延ばされた驚愕の表情の中で、すっかり生気の痕跡を失って只そこに転がっているだけだった。一体これがどんな原因でこんな姿に成り果ててものかは見当も付かなかったが、何れ目覚めの時刻での残酷な現実がこの無残な事実の起因となっているのだろうとぼんやりと想像した。あの凄まじい、谷間に響いた谺の残響の様な叫び声を上げたのはこれなのだろうか? そんな筈はありそうになかった。仮令目覚めの時刻から反響として持ち込まれた強烈な感情が冷厳な大気を震わせ、或いは私の心霊的な聴覚に訴えて来ることが有り得たとしても、今この目の前に転がるそれなりの歴史を刻んだであろう活動の残り滓の物理的投影限界を成す物質的肉体が、この有り様であれだけの音声を出し得たとは考え難く、況してやこの焼け焦げた棒切れの様な代物が、一言でも声らしきものを発し得たなどとは到底考えられなかったからだ。では、あれは何か他のものから発せられた声だったのだろうか、それとも私が聞き違えただけの何かの物音だったのだろうか、それとも、単に私の空耳だったのだろうか?

 私の記憶の何処かで、ぱちんと何かが引っ掛かった。私はその男の原型を殆ど留めていない顔に見覚えがある様な気がした。私は記憶の抽出し引っ繰り返して中を検め、思い付いた顔を断片的に、それからひとつひとつ慎重に、目の前の見捨てられた無力な何も語らない顔と照合した。あった。私はその男を見たことがあった。確か〈研究所〉の一員で、記憶が間違っていなければ、地球物理学者か何かだった。名前は、何とかシンプソン。そう、確かに私はこの男を知っていた。目覚めの時刻に於ける幾つかの会話が霞掛かった過去の貯蔵庫の中からぬっと顔を出し、私の平衡状態を掻き乱した。幾つかの明確な疑問が切れ切れの確定化された言葉を伴った概念として生じ来り、私に、そのシンプソン某と云う男が既に死亡しているのではないかと云う推測を引き起こすと共に、この時刻に於ける、明らかなる何等かの侵犯の形跡を認めさせた。彼は只の闖入者ではない、と云う確信が、私の倦み疲れ果てた頭脳に、〈恐怖原理〉の幾つかの命題を想起させ、得体の知れぬ冷たい不安を膚に生じさせて、何の弁明も無しに去って行った。圧し殺された息苦しい闇の世界が、今や新たな色彩に染まろうとしていた。変容が既に始まっていた、と云う事実が、目覚めの時刻に於ける順列的な因果関係に余りにも馴れ切ってしまっていた為に今だにその悪癖の影響から逃れ出ることの出来ないでいる私の知性に、その認知限界を告げ知らせようとしていた。

 不意に、上空で光があった。都市塔の残像が残っている辺りだ。ぞわぞわと大量の茸の様に天一面を覆い尽くしている形を持った闇の中に、薄い黄色か薄い緑色、或いはひょっとしたら赤い何本かの亀裂を背景にして、細長い塔のシルエットが断続的に浮かび上がった。それは音の無い稲妻に似ていたが、フリッカーを起こした薄暗い書斎を照らす蛍光灯の様でもあり、また私の肉体が存在している時空から何十億年も隔てた場所で明滅する、死にかけた矮星の最後の息衝きの発露でもある様であった。それは数度塔の頭頂部の輪郭をはっきろと照らし出し、それから痙攣を起こした様なみっともない震えを繰り返し乍ら上空の光景を掻き乱した。乱舞する幾つもの残像と切り結ばれた、明確な形を持つ前に曖昧な儘闇の中へと霧散霧消してしまう関係性の中に、私は幾度かあり得ざる影を見た様にも思ったが、或いはそれは純然たる幻覚だったのかも知れない。過去の方向から系列を為して来ている筈の私の悟性は、既に時間的な過負荷によってはっきりそれと判る綻びを見せ始めていたのである。

 数十万年か数百万年が経過した後、都市塔が頭頂部からぼろぼろと、まるで乾いてパサパサになってしまった古いケーキの様に、毀れ始めた。今はどう見ても完全に無人と化した、曾てはそこで無数の人々が生き、死んで行った生活の舞台にして、人類の愚かしくも輝かしい活動の数々の拠点となったものの残像の崩壊が私の精神の上に少なからぬ心痛を与えてゆくのを、私は唯凝っと見守っていたが、その内に、厚い布地に零された水がじわじわと染み込んでゆく様に、私の眼差しにも徐々に驚愕の色が訪れた。私は認識を反転させ、全ての光景を裏返しにした。これで、ひとつの確定された焦点ともうひとつの仮構され振り向き様に要求された焦点を中心として、全ての認識される世界は私のものとなった。だが不思議なことに塔の崩落はそこで止まってはくれなかった。私は再度、再々度と同じ作業を繰り返し、一切を明晰な光の下に曝し、私の決めた形に世界を認識しようと試みたが、悉くそれは失敗した。塔が崩れ落ちると云う事実は厳然として変わらなかった。どの認識される世界に於ても塔の崩落は動かされざる不変項として留まり続ける、と云う恐るべき事態の理解は、私を愕然とさせ、戦慄を呼び起こした。一方で、見ている内にも塔は崩壊の速度を早め、見るも無残な損傷と磨耗の跡を交叉する光と闇の狂った踊りの中に曝け出していた。私はその信じざるべからざる光景の中に、目を覆いたくなる衝動に駆られ、一切の認識を閉遮してしまいたいと希ったが、私の意識が零れ落ちてしまうその端々から、世界との関わりは成立していってしまい、私は望んでもいないのに無理矢理に確定される形となって、この悍ましくも容赦の無い夜の世界の住人として存在し続け、また存在するであろうところのものとなった。

 信じられない程巨大な虚無が世界を包み込み、覆い被さり、睥睨し、呑み込み、一切を虚空へと還そうとした。私は抗うどころか身動きひとつ出来ずに、唯ひたすらに一個の、他に同定の仕様が無いので次善的に一個である眼差しとなって、それら私に認識し得る限りでの全てを注意深く、その存在の存在性の全てを賭けて見守り続けた。恐怖が平坦になる時空との邂逅がやがて間近いことを、私は知ること無くして知った。有り得ざる哄笑が、恐らくは私の認知機構が強引に哄笑へと翻訳せざるを得なかった、より冷徹なる精神の抱いている微細な概念が、私との他律的な関係に於て認識として成立した。私はその哄笑のする方角へと向かって一歩を進め、来るべきものがやがて訪れるのを、起こる得るかも知れない変容の次の段階への移行を、永遠に続く一瞬のちらつきの中で身構え、そして待った、待った………。

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