イグジステンス・ギャップ
テレビはいつ見ても面白い。芸能界が真っ黒であれそうでなかれ、我々視聴者に提供されるのは純粋な娯楽、エンターテイメントだ。精神的にストレスが蓄積している中、その純粋さはとても有難い。頭を空っぽにしながらも、しかし内容は理解出来て楽しめる。こんな素晴らしい文化をどうして俺は今まで避けていた……つもりは無い。家では家族が占領していたから避けるしかなかったのだ。
「……のう創太。妾は不思議で堪らないのじゃが、これの何処が面白いのじゃ?」
「何処が面白いかーと言われても……今、何も考えたくありません。自分で見つけてください」
現在、俺は命様を抱きしめながらベッドの背に体重を預けている。何も考えないというのは素晴らしい。メアリ信者共はだから幸せなのだ。
普通の人が悩みそうなことや、判断のつかない事は全て正義の象徴たるメアリが決める。自分たちは只、彼女の判断を仰いで称賛すれば良い。そう決め込んで生きる事の何と楽な話か。今の俺と対比させれば第三者からでも分かるだろう。
正常を気取る俺は打倒方法、回避方法、力そのものの正体など考えなくてはいけない事がたくさんある。特別甘党でもない俺が糖分を欲しがるくらいには色々と。更に言えば街中から日々虐げられてきた俺は、追加で『殴られない為に』『気絶しない為に』『死なない為に』などの生存思考もしなくてはいけない。そりゃあもう疲れる。文字通り身も心もくたくただ。
断言しよう。俺はきっと長生きしない。
長生きするつもりも無いが。
「……あはは。ははははは」
「…………俗世ではこのようなものが娯楽として流行っておるのか。妾には合わぬのう。まさかこのような所でお主との差異を感じる事になろうとは」
「差異って。大袈裟ですよ。逆に聞きますが、命様が好きな番組って?」
脳を使わずに聞いたからだろう。命様の視線が痛い。本当に何も考えていないので、何故彼女がそこまで怒っているのかも分からない。信者としてその気構えは如何なモノかと咎められようとも、疲れているものは疲れているのだから仕方がない。それもこれも俺の想定が甘かったせいだ。つかささんの提案を聞いて俺から行動を起こしたとはいえ、来るんじゃなかった。
「―――意地悪な問いじゃのう。妾はこのてれびなる物体さえ知らぬというのに」
「ああーそれで。だから怒ってたんですかー。済みません。でも傾向とかあるじゃないですか。落語が好きとか漫談が好きとか食べ歩きが好きとか?」
「落語ッ? 落語は好きじゃぞ。以前は信者の一人が妾の為に独自の落語を聞かせてくれたものじゃ。して、落語は何処でやっておるのじゃ?」
番組表に画面を切り替えて、全ての局を俯瞰する様に見、黙ってリモコンを置いた。
「やってません」
「見れぬではないか!」
「落語は局がこぞって取り扱うほどの人気じゃありませんからねー。やってない時はやってませんよ」
「不便じゃのう―――それにしてもこのてれびとやらは不思議な物体じゃなッ。妾の腰程もない箱の中に人がきっちり収まっておる。一体全体どういう仕組みなんじゃ?」
「俺にも良く分かりません。まあそういうものだと思っておけばそれでいいと思います」
「お主には真理を探究しようという気概がないのか!」
「俺に限らず、現代人は大体こんなものですよ命様。例えばこの携帯だって、詳しい仕組みを説明しろと言われたら出来ません。でも色々な事が出来る道具だってのは知ってます。それくらいでいいんです」
「…………人の世が神を必要としなくなった。それは寂しくも、しかし我が子が一人前になったかの様で嬉しくもある……じゃが、良い事尽くめとは行かぬようじゃな」
「もっと人の歴史に寄り添いたいと言って駄々こねた神様の台詞とは思えない立派さですねー」
「あ、あれは忘れよ! お主に出会えてつい本音が……そういう約束じゃったろ! あの時は、確かに!」
「そうでしたっけー?」
脳の蕩けたやり取りは、存外楽しい。ひょっとすると今の俺に必要なのは楽しさではなく安息なのかもしれない。一度気が緩むと、次に気を張るのがとても馬鹿らしく思えてくる。一度緩めるだけでこんなに楽になるのに、どうしてわざわざ辛い状態を維持させなければならない……なんて。まるでサボる事の楽しさを知った優等生みたいではないか。
気の緩みとは、即ち堕落である。
一度でもその心地よさを知った人間は、たとえその後に二度と同じ事をしなかったとしても、心の何処かに悪魔を住まわせてしまう。そして度々誘惑されるのだ。『もう頑張らなくてもいいんじゃないか?』と。
気が緩むと言うくらいだ。心は楽にもなるだろう。だが楽な道が幸せに続いているとは限らない。堕落のすゝめを受け続けるデメリットは長期的に見れば取り返しのつかない痛手になる。俺や俺以上にストイックな人間が気を張り続けるのは、つまるところマクロな視点における利益の為だ。
まあ俺は今、脳みそが蕩けているのだが。
「……十時まで長いですねー」
「この後は何がやるんじゃ?」
「さあー。娯楽には違いないでしょうし、細かい事は気にしないで行きましょ―――」
テロリンッ。
携帯に通知が入った。思考が冴えている時の俺ならば絶対に確認はしなかったが、今の俺に危機管理能力は無い。通知とは所有者が気付く為に仕込まれている設定であり、それが鳴り響いた時点で、脳の蕩けた俺にとっては『見なければいけない』ものになっている。不用意に既読を付けてしまったが、送り主を見た瞬間、軽く後悔した。
『創太! ビーチに来れる? 皆が貴方にした悪戯の件で話があるんだけど!』
『断る』
既読無視を出来ない性分が災いした。俺は数秒できっぱりと返すと、慌ててドアの施錠を確認。この部屋はオートロックなので施錠されていなかったら大きな問題なのだが―――案の定、杞憂だった。
唐突に動きが機敏になった俺についていけず、命様は両手をベッドに突いて困惑していた。
「何じゃ何じゃ? 突然どうしたんじゃ?」
「メアリが来かねないんですよ。だから今の内に偽装工作を……命様も手伝ってください!」
有無を言わさぬ圧力に押され、命様は少々名残惜しそうにベッドから降りた。
「何をすれば良い」
「……ああ。えっと、布団を雑に捲ってください。次に靴を隠します」
「この部屋には居ないと思わせるつもりか?」
「その通りです! 居ないと分かれば捜索しようとするでしょうが、アイツは完璧なんですから、一度見逃したら次にもう一度そこを見ようとは思わないでしょう。完璧性の虚を突いた完璧な作戦でしょう! 自分で言うのもあれですけど!」
成功させないといけないし、成功すれば俺はまたもあいつの完璧性を否定出来た事になる。時代が違えば勲章ものだ。
偽装工作の途中で、彼女がふと疑問を呟いた。
「それで妾達は何処に隠れる? 生半な場所では発見されるであろう」
「命様はどうせ見えないので隠れなくても大丈夫です。俺は―――」
たとえ偽装工作が完璧でも、隠れ場所が雑なら意味がない。この個室において隠れられそうな場所は幾つかあるが、どれもこれも収納性に重きを置いているせいで隠匿性が皆無だ。
人海戦術があったとはいえ、誰にも教えていなかった俺の秘密基地を暴き出した彼女の観察眼は伊達ではない。まともな場所に隠れては発見されるのがオチ。
ではまともじゃない場所とは何処か。
人が居るなんて思わない所。絶対に隠れられないだろうと思わせる事の出来る場所。ゴミ屋敷ならばいざ知らず、この小綺麗な部屋にそんなものがあるものか。だがこちらが取れる最速の手段はここでのやり過ごししかない。今から外出の準備などしても、五分で発見されて連行されるのがオチだ。
「命様。人が居なさそうだな~って思える場所は何処ですか?」
ここで自分に振られるなど思ってもみなかったらしい。命様は口を間抜けに開けて、多少仰け反った。
「え、妾!? 何故妾に尋ねようと思ったんじゃお主は! しかし……ええい、この際どうでもよいか! 誰かが居るとは思えぬ場所じゃろう? うーむ…………」
「ありませんか!? 無いなら無い! あるならある! どっちですか!」
「急くな! …………おお、あったぞ創太。じゃが本当に隠れられるとは思えぬ。お主の体格、決して小さいとは言えぬからの」
「多少身体を壊してでも入るつもりです。何処ですかッ?」
命様は懐から扇子を取り出すと、閉じたまま斜め下へと向けた。
「ここじゃ」
休息がもう終わった……




