視えぬ聖域
『見つけた。場所は董って名前の旅館』
それだけ伝えると、清華は通話を切った。俺の考えが読めていたのだろうか。口を利く気は無かったが、たった数秒の通話では利こうにも出来なかった。通話時間が短いのは有難いのだが、不気味でもある。俺の知る清華ではない。今までの態度から鑑みるに、彼女ならどうにかして俺と仲直りしようとあれやこれや言ってくる筈なのに、この素直さはどうなんだろう。
「…………命様」
「ん?」
「同性の目線から見て、女性が態度を翻す場合ってどういう場合だと思いますか?」
「またあやしき話じゃのう。答える事は吝かではないが、妾の答えが参考になるのか? 千年以上前からこの地に住まう女神であるぞ」
ジェネレーションギャップと言っていいのか否か。しかし命様の言う様に、彼女と清華では時代を跨ぎ過ぎて所見が全く参考にならない。そもそも現代に嫌われている俺を好いている時点で、命様の価値観は今世の女子と正反対にある。
「そうですか…………」
「妹の事が気になるなら、本人に聞けば良かろう」
「下らないプライドと言えばそれまでなんですけど、話しかけたくないんですよね。ていうか俺がアイツを許す事なんてあるんですかね」
「寛容が素晴らしいとは言わぬが、妾にはお主が『許す』という行為を恐れている風にも見えるぞ」
痛い所を見透かされ、暫時言葉に詰まる。確かに俺は『許す』事を恐れている。己が人並みに善良でお人好しだと信じているからこそ、いつかどこかで絆されるのではないかと恐れている。
俺は家族が嫌いだ。その思いは今でも変わらない。これからも変わらないと思っているが、人の心は移ろいゆくものだ。この世に永遠があるとすれば命様の美貌くらいで、生きとし生けるもの全てに変化がある。その時心に決めていても、数年後には「あり得ない」と鼻で笑っているかもしれない。
―――それが怖い。
妹に対する罰のつもりで俺は極力無視している。この行いに文句は言わせない。「俺も辛かったからお前も辛くなれ」とまでは言わないが、これは俺なりの復讐だ。警察も法律も倫理も俺を守ってくれないのに、正当性を説かれる謂れはない。少なくともメアリ如きに侵食される正しさなんぞに従う道理はない。
だが、そう心に決めていても。俺はいつか妹を許してしまうかもしれない。同じ目に遭わせて俺の辛さを知らせてやりたいのに、それで妹が壊れてしまうのではないかと心配する俺も居る。これは優しいのか、それとも甘いだけなのか。
「…………俺って中途半端ですからね。初志貫徹をしようとは思ってるんですけど。あ、メアリは絶対許さないし好きになる事はないんですけど。非情になり切れないと言いますか、うーん。甘いんでしょうねえ」
「ならば基準を設けてはどうじゃ?」
「―――基準ですか?」
「お主は悪環境のせいで思考が憂いに染まっておるが、しかし杞憂とも言うじゃろう。現にお主は折れていない。お主の受けた仕打ちは、常人であれば廃人になるか、心が折れてしまうか。それとも大人しく信者となるか。そのどれかである筈じゃ。しかしお主は抵抗し続けている。妾にしてみればな、お主は強い。強すぎる。お主は自分が思う程弱くは無いのじゃぞ? それでもお主が不安ならば基準を設ければ良い。基準を超えたら許す。超えなければ許さぬ。話は単純じゃ、悩む事も無くなるぞ?」
「あー」
しかし基準と言われても、そういう発想は考えた事も無かった。端的に言って基準の作り方が分からない。それこそ基準を作る基準が必要だ。何をしても許さないとも思うし、何かすれば許してしまうとも思える。俺は俺を信じられない。未来の自分がどんな判断を下すか分からなくて恐ろしい。
命様は憂鬱になりつつあった俺の身体に覆いかぶさり、ぎゅっと抱き締めた。
「……どうするかはお主に任せる。じゃがお主に何があっても妾は味方じゃ。怖がる必要は何処にもない。お主がどれ程間違えたとしても、お主の存在そのものは決して間違えておらぬ。もし行動を起こす事が恐ろしいなら妾が背中を押してやる。安心せい、創太。神は個人を救わぬが、弓月命はお主に寄り添おう」
スマホで軽く調べたところ、『菫』という名前の旅館はとっくに廃墟と化しており、そこに人の入る余地は無い。立ち入り禁止の紐が敷かれているし、そもそもの旅館も半分以上壊れているので廃墟としての価値すら無い(価値が無いから廃墟なのだが、世の中には廃墟めぐりが趣味の人間も居るので、価値の有無は廃墟の一言では括れない))。
「アイツ、デマ情報流したのか?」
「まともな者が居るとは思えぬが」
「まともな、というか人絶対居ませんよこれ。ホームレスだってもっとマシな場所で寝ますよ……周りに人いますか?」
「おらぬ。昼にも拘らず人通りが寂しいのう」
命様が憂う程人通りが無い理由は、この旅館の立地にあるだろう。道路と隣接しておらず、住宅街に入って少し踏み込んだ場所にある旅館だ。ここが目的地ならば俺達みたいに来るだろうが、そうでない人間は極力ここを通りたくないだろうし、夜なんて猶更だ。見るからに幽霊とか出そうだし。
視える俺に言わせると、逆に一体も見えないのでむしろ不自然なのだが。それは置いといて、この旅館が廃れた訳が素人から見ても分かった気がする。
「行きましょうか」
「こっそり抜け出して大丈夫なのか? 捜索されてしまっては話がややこしくなるじゃろう」
「さっきまでテントに居たんで大丈夫ですよ。それに空花が本当に居るなら、宗教に誘うんですから時間はかからない…………自分で言うのもあれですけど怪しいですね俺」
カルト宗教家と言われても言い返せない。今となっては世界に二人だけの異常だ。空花が影響を受けない理由にも因るが、この世界は根本的に多数派至上主義な所がある。賛成する人間が多ければ何をしてもいいと思っている。メアリなんて正にそうだ。法律も警察も諸手を挙げてしまうもんだから、誰も異常者とは言わない。人の悪口が三度の飯より好きな奴でさえ、メアリの前では本性を改竄されたかの如く称賛する。異常だ。アイツこそカルト宗教家だ―――
―――と、カルト宗教家が言ってみる。こうしてみると同じ穴の貉なのかもしれない。
つかささんがかつて言った言葉が今になって突き刺さる。苦い思いを抱きながら、俺は立ち入り禁止の札を乗り越えた。空花が居る前提だが、どうして彼女はここに居るのだろう。友達と遊びに来ていると彼女は言った。なら廃墟に来る道理は思い浮かばない。肝試しと仮定しても、やはり時間帯が合わない。
「………………」
先程も少しだけ言及したが、この廃墟、幽霊が一体も居ない。『視る力』で形を与えたくないので幽霊が見えても絶対に焦点はボカしていたのだが、ここではその必要が無い。地縛霊はおろか浮遊霊すら見えないのは異常だ。この道中に五〇体以上は見えた霊は何処に行った。
「すみませーん!」
廃墟を訪ねる男、檜木創太。声は響いたが、返事は返ってこなかった。本当に居るのだろうか。清華の奴、マジでデマ情報を流したのか。アイツが合理的とは思えないが、メリットが一切ない行動をやる程愚かでもない。
「入りますよー!」
無言を肯定と受け取り、第一歩を踏み込む。
次の瞬間。
「ああああ駄目駄目駄目! 入っちゃ駄目、入っちゃ駄目ええええええええ!」
耳を劈く高音が俺の行動を封殺。何かが勢いよく駆け寄ってきたが、床の割ける音、何かが倒れる音、硝子の弾けた音を経て沈黙。暗闇は再び口を噤んだ。
床を普通に行くのは危なさそうなので、別の入り口を探そう。




