命の報復
「……気付かれたら、私もああなっちゃうのかな」
メアリさんの演説は聞くに堪えない。不快という意味ではなく、幸せ過ぎて頭がどうにかなっちゃいそうなのが怖いのだ。脳が蕩けるとは多くの場合比喩表現だが、私の場合、本当に蕩けている……もとい溶けてしまっているのではと、錯覚してしまう。
そうだと考えれば合点が行くものもある。脳みそが溶けているから誰もこの世界の異常に気が付かない。ひょっとしたら私や兄貴が異常なだけかもしれないけれど、それはこの際どちらでもいい。どちらの経験もある、またはどちらにも所属していない限り、どちらがどちらなのかという区別はつかないものだ。私にとってこの立場は正常だし、他の人達にとってメアリさんを肯定する立場は正常。俯瞰する存在が居ない限り、どちらがどちらなのかは判別できない。だからそれでいい。
私は体調不良を理由に抜け出し、とある人達の後を尾けていた。その人達が誰なのかは全く知らない。厳密には一人だけ知っているけれど、特別交流はない。何を知っているかと問われれば、それは一つだけ。
私の兄貴が自主的に絡みに行った数少ない人物だという事。
状況が状況なので仕方ないが、兄貴は基本的に人間不信で、人間が嫌いだ。何故なら兄貴と違ってメアリさんの事が好きだから。それだけ聞けば怒りの矛先がお門違いだって思う人も居るだろうけれど、でも仕方ない。メアリさんの事を嫌いってだけで他の人は兄貴をゴミか何かだと勘違いしている。私もそうだった。兄貴を同じ人間だと思えなかった。
そんな兄貴が絡みに行く人物がどのような人物なのか、知りたかった。
あわよくば仲介に入ってもらって、兄貴と仲直りできればとも考えていた。
「先生……うっぷ。気持ち悪い、です」
「何処かで一度吐いてもいいんだぞ? いやあそれにしてもあの薬は効き目が強いねえ。次からはもう少し効き目を抑えてみる事にするよ。他の症状は?」
「頭が…………重いです。それと、なんか―――体温が」
「ふむ。付け焼刃の知識で薬を調合するものではないな。それとも比率を何処かで間違えたか……ともかく、暫くは学校を休みたまえ。いや、これからもずっと休みなさい」
「……え? どうして、ですか」
「君に手伝ってもらいたい事がある。何を隠そう蘇生薬の開発だ。今日みたいに強引な蘇生は体に大きな負担を掛けてしまうからな」
「…………ま、また死ななきゃいけないんです、か?」
「無理強いはすまいよ。どうする?」
「…………お、お役に立てるなら、頑張りま…………おえええ!」
尾行を続けて三〇分。同学年の生徒こと藍之條幸音が道路で嘔吐した。私とは特に面識はないものの、庇護欲がそそられるのか男子の間ではそれとなく狙われている。面識も無いのにどうして知っているのかと言われたら、単純に中学校の規模が小さいので、名前を忘れるという事がそもそもないからである。
隣は…………誰だろう。友達……にしては『先生』呼びはおかしいだろう。だが保護者というには身長が圧倒的に足りない。
「大丈夫か……んー想像以上に吐いたな。それじゃあ家に帰れないだろう。悪い事は言わないから僕の所に泊まりなさい」
「え…………で、でも」
「幸い、メアリという存在は世間的には正しさの象徴だ。彼女の存在を利用してやれば誰も怒らないどころか賞賛されるだろう。それともあれかな? 犯罪者と関わっているのがバレたら殺されるとでも、思っているのかな?」
会話の内容が良く分からない。犯罪者って誰だろう。いや、そんな事はどうでもいい。あちらの事情など知ってどうする。私は私の事情を汲み取るだけだ。現在進行形で尾行している奴が言っても説得力はないけど、誰かのプライベートを覗き見る趣味は無い。
「せ、先生は…………はあ、はあ。嫌じゃないんですか……? 私とのお泊り」
「それはお医者さんに患者の診察が嫌かどうか尋ねるようなものだ。好きとか嫌いじゃないんだよ幸音君。分かるかい? 君も僕の患者なんだから、最後まで面倒は見るとも」
…………患者?
誰かが病気……単なる風邪にしても流行り病にしても生徒が罹患すれば学校にも情報が共有される。別に不思議な話ではない。学校側だって被害を拡大させたくないから、情報が伝われば―――例えば風邪が流行っているなら手洗いの重視、マスクの無料配布などの対策が取れるだろう。もし彼女が何らかの病気に罹っているのなら、少なくとも私達にもその情報、または対策が伝わってこないとおかしい。だが事実として、そんな話は寡聞にして聞いた事がない。
―――隣の人は、じゃあ主治医って事?
考える程に分からなくなってくる。兄貴はどうしてこの二人と面識があるのだろう。特別接点があるようには思えない。そもそも兄貴は近づこうとしないし。
「………………あ、あの!」
どうも悪い人達ではなさそうなので、思い切って声を掛けてみる事にする。先に振り返ったのは主治医と思わしき白衣の男性だった。
「君は…………成程。君が檜木君の妹さんだね」
「えッ?」
出会って数秒で素性を看破されてしまい、言葉に詰まった。兄が私の事を話していたと考慮しても、初見で私を見抜ける理屈にはならない。瞳を大きく開いて固まったまま数秒が過ぎた。
「ど、どうして知ってるんですか?」
「目元が良く似ているよ。名前は清華君だったか。僕、または幸音君に何か用かな? あの演説を無視してまで来たんだ、檜木君が蛇蝎の如く嫌う信者と君はまた違うようだ」
背丈は私とそう変わりないが、纏う雰囲気が学生のそれではない。覇気がないというか、全体的にくたびれているというか。この人からは生気を感じない。いよいよ私には眼前の男性がどういう存在なのか分からなくなってしまった。
「―――わ、私。兄貴を殺しかけて! 殺しかけたんですけど、兄貴が説得して、元に…………えっと、貴方達は、兄貴とどういう関係なんですかッ?」
「僕達は………………幸音君。僕達は何だ?」
「ふぇ、へ? え、えっと…………ゆ、友人でしょうか……ううえっぷ」
「だそうだ。そうでなかったとしても、君や他の人よりはずっと彼とは懇意にしている。付き合いは圧倒的に短いがね」
男性は改めて、問う。
「檜木君の妹さんが、僕達に何の用かね?」
「私、兄貴と仲直りしたいんです!」
遂に口に出してしまった。周囲に人が居ないのを幸運に思うべきだろう。こんな言葉を他の人間に聞かれたら、この命はその日の内に尽きるだろう。証拠も根拠もないが確信はある。嬉々として殺されはしないが、数の暴力には勝てない。私は漫画のキャラみたいに強くないから。
僅かに乾燥した風が肌を撫でる。このまま跡形もなく擦り切れてしまいたい。目の前の男性と対峙しているだけなのに、それを望んだのは私なのに、何故か私の本能は怯えている。不可解だ。
「……それは無理だろう。檜木君はかなり頑固な所があるからな。己の信ずる神にそう言われたならばまだしも、僕達如きでは心を動かすなんて夢のまた夢だ。当てが外れたみたいだね」
「どうすれば仲直り出来ると……思いますかッ?」
「聞かなくても分かり切っているだろうに。『周防メアリをどうにかする』。これ以外に方法はない。彼の頑固さも、冷徹さも、元を辿れば彼女にあるのだからね。彼女の存在なくして彼は強くなれないと言い換えてもいい。本人は怒るだろうが、そういう意味では周防メアリという存在は彼にとって必要不可欠ではある」
私の罪は決して赦されない。もし赦される時が―――兄貴がもう一度私を妹として見てくれる時が来るとすれば、それは私がメアリさんをどうにか出来た時だけ。殺すにしても何処かに追いやるにしても、私がもう一度兄貴に信用してもらうにはそれしかない。それ以外のあらゆる償いは意味を成さない。そう思っても仕方ないくらい、それが妥当なくらい、私は兄貴に辛い思いをさせてしまった。よってたかって弱い者いじめをし続けて、それが正しいのだと信じ続けてきた。
…………。
「身勝手なお願いだと承知の上で……兄貴に内緒で、協力してくれませんか?」
「お? また唐突な提案だね。その心意義は評価するが、あの怪物を相手に勝算が?」
「ありませんけど! でも人間、やれば出来ない事って無いと思うんです!」
「そう思うなら僕達の力を借りずに仲直りをすれば良いと思うけどね」
「う―――ッ!」
痛い所を突かれて、私は猛烈に言葉に詰まった。男性はケタケタと不気味な笑い声をあげ、心底愉快そうな笑顔を浮かべて言った。
「やはり血は争えないね。君も中々良い反応をしてくれる。少しだけ君の事が気に入ったよ清華君。楽しませてくれたお礼に、協力―――いや、君に勝算を与えようじゃないか」
「しょ、勝算ですか?」
「そう、勝算だ。君にとってメアリは敵で、どんな事もする覚悟と度胸がある。そして僕は勝算を与えられる。仲直り出来るかどうかはさておき、メアリさえどうにか出来れば、少なくとも彼からは血縁上の妹などという他人行儀な言い方はされまいよ。どうかな?」
それは神の差し伸べた奇跡の手綱か。
はたまた悪魔の持ちかけた破滅の取引か。
私は。
つかさ先生の勝算とは…………?
運もカンストしてるせいで本来の意味でチート化しているメアリに対する勝算とはなんぞと。まあその辺りですか。当面の謎は。




