死は記憶に値しない、と彼女は言う
全体的にたるみ期。モチベが。
メアリを嫌う者は俺以外に存在しない。だからかつて嫌ってきた者達が結末としてどうなったのかは誰も知らないし、知る必要が無い。俺を除けば、誰も嫌わないのだから当然だ。メアリを嫌うという行為自体がそもそもイレギュラーに位置する事を忘れてはいけない。
だが予想は出来る。あれだけの集団を敵に回しておいて無事に生きられる訳が無い。俺が今日も無事に生きられているのは、不本意ながらあの腐った宗教団体の頭領が俺の事を嫌っていないからだ。裏を返せば、彼女の目が届かない所では頻繁に被害に遭っているという事なのだが……それでも、殺されるまでは行っていない。これがどういう事を意味するか分かるだろうか。
周防メアリは一度も人間の死に触れていないのである。
大袈裟にいってはみたが、これはごく普通の事だ。一般的幸福を享受していれば触れる死など精々親族の死か、ペットの死か。しかも死に触れると言っても葬式に出席するとか精々がその辺りだ。ペットを除けば、死に触れる事は基本的には無い。死体がその辺に転がっている程この国の治安は悪くないのだ。しかし今、茜さんは死体の存在に言及した。
街中の奴等から嫌われている俺でも、死体を見た事は一度もない。そして間違いなく死体は前からあったものではなく、つい最近生まれたものだ。何故ならメリーさんの噂が恒久化した状況でこの建物に誰も来ないとは考えられず、誰かが来たのなら警察沙汰になっているから。幾ら怖いモノ見たさと言っても、死体を見たい奴は一人もいない。
「死体…………? それは浮遊霊とかそういうものじゃないんですか?」
「さあて、私は魂の気配を感じただけだ。それも肉体を離れて時間が経ってない様に思える。確認の為にも三階へ行くかい? この感覚が間違っているとは全く思わないが、もしかしたらと言う事もあるかもしれない。私は別に構わないがね、少年。一つ気がかりな事がある」
「何ですか?」
「君は死体を見た事があるかい?」
何気ない質問だったが、それを尋ねられた瞬間、俺は襟首を掴まれ、正気に戻ったような感覚を覚えた。
「…………無いです」
「―――ああ。そう。ならば一つ忠告しておこうか。死体は強烈だよ、見ないで済むならその方が良い。ねえ神様」
「うむ。妾も茜と同意見じゃ。妾達の様な存在が視えるお主でも、死体は確認せん方が良かろう。お主に限らず、遍くの人は同族が死ぬ事に抵抗があるものじゃ。無理をしてはいかぬぞ?」
メアリなど死んでしまえばいいと、そう思わなかった日が無かった訳ではない。しかし実際として人を殺す事なんて出来ないから、だから現実的に、せめて俺の視界から消えて欲しいと願う様になった。俺だって死体を見たくなんかない。死体を見て尚も気が狂わない奴は異常だ。俺は一度でも見た瞬間心に深い傷を負う用意がある。何度も見れば発狂は免れないだろう。
それでも三階にある魂の気配が気になって仕方ない。命様は無理をするなと言ってくれたが、何となく俺にはそれを見る使命がある様な気がした。根拠は勿論ない。勘と言ったらそれまでだ。俺の勘が当てになった回数など高が知れており、どれだけ過大評価をしても五分五分。当たるか当たらないかだ。
「さて、今ならまだ間に合うぞ少年。私が私の起源を探すなんて奇妙な話だが、どうする? 部屋の外で待っているか?」
「待つのじゃ。創太が部屋の外に居ると妾も中には入れん。部屋には入る必要があるぞ」
「ああ、神様は少年の首に掛かった勾玉が無いと社の外には出られないんだったね。それは困った、いやあ実に困り果ててしまったよ。これでは少年が死体を見たくないと言った時にどうする事も出来ないじゃないか。私の身体だけでは死体を隠せても一つが限界。私一人で探すのならそもそも協力を仰いだ意味がないし、これはある意味では詰んでしまったようだねえ」
死体は見たくない。わざわざ茜さんが『魂の気配』という言い方をしたのは、きっとまだ死体付近に魂があるという事なのだろう。『視える力』はこれだから碌な事にならない。死体と一緒に本人の魂も捉えなきゃいけないなんてどんな拷問だ。死体が判別不可能な状態にまで破損していても、魂が見える俺には、それが誰であるか判別が出来てしまう。だから見たくないのだ。
だが同時に、俺の勘が告げている。死体は見なければならないと。それが何かを変えるきっかけになると。
「……いえ、お気遣いなく。死体はきちんとこの目に焼き付けますよ」
「おや、覚悟が出来たのか? と言っても私達が見える事を除けば俗世の住人に違いない君が出来る覚悟など安いだろうが」
「覚悟なんて出来てませんよ。でも何となく、見なきゃいけない気がするんです。どんな思いをしても、その経験が何かを変えるって……俺の勘が告げてるんです。それに俺が入らないと、命様がどっちみち確認出来ません!」
「我が神の為とあらば己が身を犠牲にする事も厭わないとでも言う気かい?」
「その通りです!」
もとよりこの身は神に捧げたもの。今更躊躇してどうする。『俺』が動機の主体になるから色々な事を考えてしまうのだ。命様を動機の主体にすれば、迷いは現れない。これ以上の問答は不要とばかりに目線で語ると、茜さんはやれやれと手を広げて、それ以上は追及しなかった。
割と本気で有難い。これ以上念押しされていたら流石に俺も躊躇していただろうから。
「では行こうか」
廃屋なのでエレベーターは使えない。俺と命様は階段を使ったが(命様は俺から離れられない)、実体のない存在に過ぎない茜さんは天井をすり抜けてまっすぐ三階まで行ってしまった。視えているので忘れがちだが、彼女は怪異。俺に付き合ってくれていただけで、本当は物理法則など関係ないし、三階に直接入る事も出来たのだ。その事も忘れて普通に階段を上ろうとすると、間違いなく呆然としてしまう。
俺みたいに。
「い、行きましょう」
階段は非常に狭かったが、物理法則に従わないという点では命様にも同じ事が言えるので心配はいらない。不可視の存在は壁に突っかかる事なく、そのまますり抜ける。三階まで足早に駆け上がって廊下に出ると、そこには廃れながらも未だ朽ちる事なく役目を果たすいくつかの扉があり、その中の一室―――端の扉の横で、茜さんは待っていた。
「やあ、遅かったね。私の感覚に狂いが無ければ、この先から気配がするよ。さて、少年。覚悟は決まっていないらしいが、見ると言うのなら君が開けるべきだ。後ろには私達が居る。もし君の腰が抜けてしまったら支えてあげるとしよう。まあでも、神様の目の前でそんな情けない事をするとは思えないが」
「あ、当たり前でしょう! 俺を舐めないでくださいッ」
威勢よくノブを握り、回す所で固まる。俺の動きを止めたのは他でもない、俺自身の心拍だった。ドクン、と一度脈打つたびに、まるで俺の腕に杭を打ち込まれているかのようだ。心拍は必然的に遭遇する危機を回避しようと脳に働きかけてくる。
扉を開けてはいけない。開ければきっと後悔する。
そりゃあ後悔するに決まってる。事情がどうであれ死体なんか見ないに越した事はない。でもその躊躇以上に、俺には見なければいけない動機がある。命様への信仰もあれば、人助けならぬ怪異助けという理由もある。事情がどうあれ頼られたのなら、俺はベストを尽くす。
「行きますよ―――!」
心拍から心拍までのインターバル。その刹那に、俺はノブを回して、部屋に突撃した。
惨たらしい死体などそこにはない。
あるのはついさっきまで生きていたと分かる新鮮な死体二つ。お互いの手首に縄を括り付け、またお互いの胸に刃物を突き付けた状態で二人は死んでいた。もう一人に見覚えは無いものの、うち一人には微妙に見覚えがある。それに加えて二人の格好は何処からどう見てもウチの制服であり、この死体二つが生徒である事は、どう言い繕っても逃れ得ぬ事実に相違なかった。とすると見覚えのある方が貝沼、無い方が藤耶という事になる。
「………………!!」
言葉が出なかった。恐怖や驚きで出ないのではない。死体にしてはあまりにも綺麗に死んでいるから、どう反応して良いか分からなかったのだ。本能的恐怖として腰は抜けてしまったが、それ以上は頭が真っ白になって、何のリアクションもとれなかった。
人間、本当に驚くと声すら出なくなるというのは事実らしい。どうにか声が出せるようになったのは、命様が何度か背中を叩いてくれた後だった。
「創太、創太! しっかりするのじゃ、大丈夫かッ? 気は保っておるな? 気絶してはいかぬぞ? 俗世を知らぬ妾とて分かる。このような所で意識を失えば面倒事に巻き込まれるとなッ!」
「あ、あ………………あッ」
視線が泳ぐ。無意味に揺らぐ。目的も無く視線が泳ぐ最中、理解に苦しむ己の行動に、俺の脳は理屈を後付けした。
「み、視えない………………」
「ん?」
「た、たま、魂が…………何処にもない!」
霊を見た事はあっても死体を見た事はない。葬式に参列した事もない。だからこそ俺には理解が及ばなかった。死体があれば当然、そこには魂があると信じていた。もしや『視る力』が失われたのかとも考えたが、命様や茜さんが視えている時点でそれは薄い。つまり…………どういう事だ?
「おやおやあ。これはこれは…………」
ドライな反応を済ませて、茜さんはズカズカと部屋の中へ。命様は腰の抜けた俺を壁まで引っ張り、容態を見守ってくれていた。
「ふむふむ。私達はメリーさんに殺されました、か。携帯には複数の着信通知。不在着信の件数が全く同じ……成程ねえ」
「―――立てるか、創太」
「す、す、すみ……済みません。情けないですよね……!」
「全く情けないに決まっておろうが! じゃが死体を見た事がないお主に勇敢さを求めるのは酷というものじゃ。此度の姿は不問とする。抜けた腰が戻り次第、立つのじゃぞ」
「はい…………」
命様が身を翻す。
「茜よ、元はお主そのものであった筈の事件じゃ。何か分かったのではないか?」
「…………何もかも理解したと言えば聞こえは良いが、実際は何も把握出来ていないのが事実だ。実情は後で話そう。少年、取り敢えず警察を呼んでは貰えないかな?」
「け、警察ですか…………?」
「私が言うのも何だが、噂と言えば君達人間は事件性のあるものが大好きだったよね。私のバックストーリーにしてもそうだ。事件性があるからこそ、怪異が生まれた経緯として説得力が生まれる。凶悪な事件は噂として、そして過去として、記憶として、事実として、半永久的に語り継がれる。似た事件が起きる度にね。隣町の『首狩り族』については知ってるかい? 怪異かどうかはともかく、あれが忘れ去られる事はないだろう。多少の噂など、事実の前では誤差も同然という訳だ」
「要領を得んな。何が言いたいのじゃ」
「つまりはこの騒動を事件にしてしまえば良いという事さ。死者が二人、それも少年の学校の生徒ならば尚の事メリーさんの噂なんてしないだろう。これはどう見ても『自殺』だ。元本人が言うのだから信じたまえよ。仮に私が嘘を吐いていたとしても、霊的存在など信じる筈もない警察ならば間違いなくそう結論付けてくれるだろうさ。学校は死人の噂で持ち切り、となれば街にそれが伝播せぬ道理はない。噂を噂で上書きする―――とは少し違うけれど、これならば実質的に解決策になるのではないかな?」




