正体不明には屈しない
三日間は風の様に疾く過ぎ去った。キリトリさんがいつ来るか気が気でなかったが、命様曰く『殺気は感じない』との話で、又聞きだが空花も『段々心臓がドキドキしてきたから来るなら早く来てほしい』と恐れているようだ。
空花はツイーターでも活動しているそうなので、検索をかけてみた。アカウントは流石に偽名だが、フォローしているアカウントは悉くがメアリ信者(今の時期は誰をフォローしてもそうなりそうだが)で、積極的にメアリ関連の話題で交流を図っている。俺と違って空花は元々が第三者なので、彼女に嫌悪感が無い。こういう行動は俺には出来ないので、素直に尊敬する。好きでもない人間を良くそこまで持ち上げられるなと。嫌味にしか聞こえないが俺にとっては賞賛である。
「莢さん……居ないな」
月天燐の森は電車を使えば直ぐに行ける。俺は電車に乗れないので徒歩で来たが(電車に乗った日には間違いなくリンチに遭う)、莢さんの存在はまだ明らかになっていない。電車を使っても問題は起きない筈だ。なのに遅い。
こんな事なら待ち合わせなどするべきではなかったかもしれない。同じ家に居るのだから仲良く外出……は無理か。それでも時間差で外出するくらいで良かった。算数の教科書みたいに。
「お待たせいたしました、創太様」
「あ、ようやく来た。マジで何の準備をしてたんですか?」
「色々と」
詳細を教えるつもりはないらしい。莢さんは普段のクラシカルなメイド服から一転、機動性を重視したのか生地の薄い入ったメイド服に切り替わっていた。腰のスカートも深いスリットのお蔭で長さに反して足は動きやすそうだ。
正直、その程度の変化は些末なもので、俺が一番釘付けになったのは彼女の手―――何故か指ぬきグローブを装着しているのだ。
「あの、莢さん。それは一体……」
俺の人差し指を追った彼女は、改めて目の前に手を突き付けた。
「これですか? ファッションの類……とでもお考えになればよろしいかと思います。無論、その様な趣味は持ち合わせておりませんが」
「じゃあ違うじゃないですかッ。え、ちょっと怖いんですけど。本気で何の準備したんですか? バイク?」
「森をバイクで走るのはナンセンスでしょう。ご安心ください。何も無ければそれで良いのですから」
何も無ければ。果たしてそんな幸運があり得るのだろうか。一抹の不安(莢さんも含めて)を抱えながら俺達二人は月天燐の森へと踏み出した。
幸音さんの地図は商品として売り出せばそこそこ売れるのではと期待してしまうくらい緻密且つ分かりやすかった。周防天畧の眼は節穴だ。完璧を求めるにしたって、その為に子供を誘拐するにしたって節穴だ。
そもそも普通の人間が月喰さんみたいになれる訳がないのだ。彼女も命様も人知の及ばぬ遥か遠き存在。魔性の色香と美貌を兼ね備えた正真正銘の怪物だ。それを追い抜こうという考えがそもそも間違っている。
特に月喰さんは……男ならまず勝てない。勝手に婿にされた俺が相手だったから手を抜いてくれたが、彼女がその気になれば誰が相手でも数秒持たず陥落する。天畧にそんな魅力はない。悪いが正真正銘のクズとさえこの場で言い切っても良い。
子供を最初から道具としかみなしてないような奴は親を名乗る資格はない。俺はそう思う。
「ここから暫く道なりですか?」
「そうですね」
地図を凝視しながら俺は頷いた。
暫くはきちんと整備された道を歩いているので、実はあまり見る必要が無い。道なりにさえ進んでいればそれが地図通りだ。莢さんに特別な変化はないがやはりグローブが気になる。何の為に付けてきたのか皆目見当がつかない。自白した通りファッション目的ではなさそうだが、実用性にしても一体何に使うと言うのか。
遊歩道に沿っている分には他人に会うリスクも考えられたが、果たしてそれは杞憂だった。今日はメアリの十六年分の活躍を追跡する番組が放送されている(過去を歪めるな)。そんな中で森を散歩しようという馬鹿は居ない。それをするくらいなら家電量販店にでも行ってテレビを眺めているだろう。
「ここから道を外れます。こっちです―――ね」
地図の通りならば俺達の右側。歩道を整える手すりを抜けて行くのだが、普通に雑草が生い茂っている。人よりは獣が通りそうな道だ。六〇年も経っていたらこんな風になるのもおかしくはないのだが、ちょっと戸惑ってしまった。
「こっちですよね?」
「私に尋ねられても困ります。地図をお貸しいただけないでしょうか」
言われるがまま地図を渡してやると、莢さんは左手に地図を持ち、数秒凝視。あっさりと俺に返却し、手すりを跨いでいった。
「え、ちょっとッ?」
「こちらで正しい様です。行きましょう」
「先に行かないでくださいよッ! 何かあったら真っ先に被害を被るのは莢さんなんですから」
地図を持つ俺が先導しないのは何と言うか罪悪感がある。当人は全く気にしておらずドンドンと素進んで行くので、再び俺が先頭に戻るには多少強引な割込みをするしかなかった。どちらにしても彼女は気にしていない。地図を持っていないにも拘らず、確信をもって歩みを進めている。
……まさかあの一瞬で地図を覚えたのか?
莢さんも大概恐ろしい女性だ。
獣道に足を踏み入れてから三時間以上も歩かされていると、次第にこの道が合っているのか不安になってくるが、それでも背後の莢さんは歩みを止めない。俺は何度も何度も足を止め、地図を確認しては歩き出しての繰り返しをしているというのに、何処まで確信に満ちているのだろうか。
「こっちで合ってますよね? ねえ」
「地図の通りです」
すっかり忘れていたが、この地図の縮尺はどのくらいなのだろうか。今から幸音さんに尋ねるのは愚策中の愚策だが、それさえ知っていればここまで不安には思わなかったかもしれない。今日中にさっくり行って帰ってこれると思っていたのにとんだ計算違いだ。迷いの森ではないのだが、俺の胸中に生まれたのは漠然とした不安だった。もう家には帰れないかもしれない……それはどうでもいいが、命様に会えなくなるのは嫌だ。
建物の気配など感じぬまま更に時間が経過した。不意に莢さんが足を止めて、落ちていた看板を拾い上げた。
「創太様、お待ち下さい」
「はい? 何ですかその看板」
身を翻し、看板を覗き込む。老朽著しく破損していたが、辛うじて読めた文章はこの様な感じだった。
『ここから逃げてはいけません
あなた方は選ばれし子供です 完璧になる権利を得た幸福で幸運な子供です
あなた方の生まれた意味とは完璧になる事です この世の何よりも美しく至上の女性である事です それ以外の意味はありません
ここから外に行けばあなたは穢れます 完璧になれる権利をもちながらそれを捨てるのは傲慢です ここから逃げてはいけません
ここから逃げた子供は 』
「文字の形状から推理するに、ナイフで刻まれたものですね」
「ナイフで? 忠告もそうですけど随分物騒ですね」
「やはりこの先で合っているのです。先を急ぎましょう」
莢さんに励まされ、俺達は再び先を急ぐ。目的地に到着したのは四時間後の事だった。
『つばき』の色は白との事だが、長い年月を経て純白の壁は見るも無残に汚れていた。とはいえこれが目的の建物である事には違いない。森の中にある建物など早々ないのだから。
「ここが……つばき」
六〇年も月日が経っているというのに、建物自体は全く老化していない様に思える。果たしてそれは視た目だけかもしれないが、だとしても倒壊していないのは事実だ。
「……今更なのですが、ここにきて何が分かるのでしょう」
「俺も良く分かりませんよ。私に言えるのはここまでってもったいぶったんですもん相手が。取り敢えず中に入ってみましょうか」
ぐるりと建物を一周し、玄関を発見。意気揚々と乗り込もうとするが、普通に鍵が掛かっていた。
「え?」
まさか『鍵を握っている』というのは行き方を知っているという意味ではなく、本当に鍵を持ってるって意味だったのかッ?
それなら本人を連れてこないと話にならないではないか!
「如何なさいましたか?」
「ああ。えっと……鍵掛かってて」
扉の一部は硝子だが、仮にそこを破壊しても中に入れるのは軟体人間だけだ。かといってバールなどの物理的破壊手段は用意していない。手を突っ込んで鍵を開けようにも距離が遠すぎる。
「どうしましょう」
「―――致し方ありません。ピッキングを致しましょうか」
「は? ピッキングってあの空き巣とかが良くやる奴ですか? 莢さん出来るんですか?」
「周防家にお仕えしていれば自ずと出来る様になるのです。本職には劣りますが、幸いにして単純な鍵ですから」
この際、犯罪行為には目を瞑る。俺は正義の番人でも無ければ秩序過激派でもない。メアリの手がかりさえ掴めればどうでもいい(殺人だけは無理)。莢さんが作業に取り掛かると開錠作業はものの数十分で終了した。
「では入りましょう」
蝶番は酷く軋んだが、開閉に問題はない。内部は相応の経年劣化をしており、階段などはとてもとても使えない。一段目から踏み抜きそうだ。
「貴方なら必ずや到着すると信じておりました。流石です」
何処かで聞いた事のある声。忘れもしない、トイレで俺に銃を突き付けてきたあの男の声だ。程なく奥の部屋から鏡越しに見えた男の姿が現れる。驚きから一歩も動けない俺に近づこうとする男を止めたのは莢さんだ。
何処に隠し持っていたのか、その手には銃身が切り詰められた散弾銃が握られている。
「……何故貴方がここに居るのですか?」
「莢さんッ! ちょっとやめてくださいよッ。護身用に持って来たのかもしれませんけど、相手は丸腰ですよッ」
「いいえ、それはあり得ません。何故ならそこの男はかつて護衛として周防家に雇われていた者ですから」
ここは紛れも無く日本だが、メアリの周囲は完全に無法地帯だ。平然と銃が持ち出され、警戒に使われている。咎めるべき法が機能しないと世界は殺伐としてしまう様だ。
「……ふむ。余計な者がついてきているようですが、まあいいでしょう。銃を向けたままでも構いません。少しお話をしませんか。檜木創太さん」
「―――話?」
男は肩の力を抜いたままその場で正座をした。
「出来る事ならあの時に渡したかった。しかしそれは叶いません。月巳町は今や完全にメアリ様のテリトリー。貴方に対して何かを働きかければ必ず知られてしまう。だからここに来てもらいました。私が知っている情報は全て話しましょう。周防天畧様の行動も、メアリ様の事も―――まずはこれを」
男が横の机から手に取ったのは黒い装丁の鍵付き日記。表紙の左上には『周防メアリ』と書かれている。銃を突きつけられている状況で手渡しは不味いと判断されたか、日記は軽く放り落とされて俺の足元へ。
「読んでください」
言われるまでもない。俺は日記を拾い上げて勢いよく広げた。
『 月 日
クソババア。マジで何しやがった。私の身体の中に妙なものがある。よく分からないカタチ。でも大きくて、激しい。私の身体は私のものなのに。この力は身体を蝕んでくる。私の心を切って、擦って、潰して、打って。何もかも奪い取ってやろうとずっと襲ってくる。寝る暇もない、休む暇もない。きっとそう遠くない日に私の心は支配される?
月 日
同じ幼稚園に居る子が気になる。あの子と話している間だけは、私の内側にあるカタチは動きを止める。理屈も原理も良く分からないけれど、あの子がもっと私を見てくれたらカタチに勝てるかな?
月 日
私の事が好きなクソババアは、結局一度も私を見てくれなかった。好きってそういう感情なんだよね。薄っぺらい、クソみたいな感情なの。クソババアだけじゃない。他の子も私の事を好きって言ってる。反吐が出る。みんな死ねばいいのに。でもあの子だけは。
月 日
やっぱりあの子が見てくれる間はカタチが止まる。その間だけは私が勝てる。クソババアの思惑を壊す方法はこれしかない。本音を言えばちょっとだけ諦めてた。でも、方法が見つかったならそういう訳にはいかない。私は私だもの。クソババアの道具じゃない。だから思い通りにはさせない。あの子はきっと私の救世主。あの子だけが私を嫌ってくれるお蔭で、私は今、こうして私を知覚できる。だからもっと嫌ってもらわないと。私以外の全てが目に入らないくらい嫌ってくれないと。犯しても殺しても気が済まないくらい、世界で一番嫌われないと。その為には何をすればいいかな?
月 日
私は人生を壊されて、ババア以外の全てが目に入らなくなっちゃった。だからあの子の人生も壊しちゃえばいいんだ。何もかも奪ってやればきっと私を嫌ってくれる。表向き優しくしてやれば、あの子は絶対に拒絶して、孤立する。罪悪感はあるけれど、やめるつもりなんてない。だって決めたんだから。
何があっても、私は決して屈しない。今日も明日も明後日も、不完全な存在を完璧たらしめるこの力に。 』




