世界に隔離された日常
急いては事を仕損じるという言葉がある。今すぐにでも幸音さんから『つばき』の情報を聞けるのならそれに越した事はないが、そんな奇跡はメアリでも無ければ起こせない。この時間を無駄と断ずるのは勝手だが、果たして無駄な時間が歴史を積み上げたのではないか、と。
周防メアリが完璧たる所以は絶対的に良い結果をもたらすからだ。世界を自分勝手に歪められる彼女でさえ結果主義からは抜け出せていない。つまりは最終的に勝てさえすればいい。一度でも勝てたなら周防メアリの『完璧』は崩壊する。勝てさえすれば無駄な時間など一切存在しなかったと言い切る事も出来る。
不思議な事にこれらの法則はチェスにも当てはまる。思考に焦りが生じれば勝てる勝負も勝てないし、ネットで軽く調べれば分かる様な戦術が莢さんに通じる筈もない。でも調べる。果たしてそれは無駄かもしれないが、最終的に勝てさえすれば無駄ではない。
更に言えば俺はその無駄な時間を使って幸音さんと親密度を深めているので、無駄はあればある程良い。会話を重ねれば誰とでも仲良くなれると、俺はそう信じている。
メアリと信者以外。
「幸音さんって定石覚えるの早いですね」
「こういうの得意なんです。何度もやりましたから」
「つかさ先生とですか?」
「いえ、もっと前の事です」
お?
熱心にチェスの研究をしているからだろう、警戒心が薄い。あまり露骨に尋ねると身構えられてしまいそうだが、流れの中で触る分には気付かれなさそうか……?
「何度もって事は、昔からボードゲームが好きだったとか?」
「そういう訳じゃないんですけど……あ、檜木さん。ナイトの動き方間違えてますよッ!」
「……わざとです。さっき幸音さん、駒を無理やり動かして指摘されてたじゃないですか。だから試したんですけど、気づけるなら問題なさそうですね」
特殊能力があるフリをしておきながら素で間違えたとは言えない。口が裂けても言ってなるものか。慌てて取り繕ったのは正解だった。彼女の様子からして気付かれていない。
「あ、あれは忘れてくださいッ! どうしても……負けるのが嫌だっただけなんです、から」
「たかがゲームとは言いませんけど、そこまでですか? 大体幸音さん、体育祭の時出場種目全部最下位だったじゃないですか。そこまで負けず嫌いなら血ヘド吐くくらい悔しかったと思うんですけど、そんな様子ありませんでしたよね?」
「あれは先生が居てくれたから……! 確かに負けず嫌いなのは認めます。でも御覧の通り、別に才能がある訳じゃなくて………………」
黙りこくる。これ以上触れると否が応でも追及の形を取らなくてはいけなくなるので終いだ。俺は少々強引に話を切り替える。
「今は預けられちゃってますけど、その後つかさ先生とはどうなんですか」
「―――はッ、はいぃ!?」
「本人がどうあれ、先生の事が好きなんですよね。進展、ありましたか?」
曰く、つかささんは『愛』という言葉を嫌っている。そして叶うものなら誰にも愛されたくないとさえ思っている。何故彼がそうなってしまったかは知らない。しかし推し量る事は出来る。詳しくは知らなくとも、宗教が原因で家庭崩壊を起こしてしまった、と。理由はこれだけで十分だ。
彼が『愛』を嫌う理由も、『神様』を嫌う理由も全てはそこにある。でなければ神様を相手に毒を盛るなどという不届きな真似は死んでも出来ない。
そんな男を慕う少女の恋模様が果たしてどうなるのか。野次馬は嫌いだが、全く気にならないと言えば嘘になる。何、過去への探りを勘づかれるよりはマシだ。
「……………あ、あると思いますか?」
「大体ないと思います。あの人、犯罪者の癖に変な所はまともだから手を出したりはしないだろうし。因みに最近行ったアプローチとか……その顔を見る限り、ありませんね」
つかささんが何歳なのかは知らないが、あの雰囲気は中々年を食っていると見た。であるならばアプローチに対する反応はたかが知れている。彼にしてみれば幼年期の女子が『パパのお嫁さんになる』と宣われた様なもので、ハッキリ言って幸音さんの想いは確実に敗れるのが目に見えた恋だ。
不可能を覆す真似はメアリ以外に出来ないし、やってはいけない。追う必要のない傷は負うべきではない。
「だ、だってアプローチとか…………そ、そんな事したら、嫌われちゃいますから……」
語調と共に下がる目線、萎む語尾。進捗を聞いただけなのにここまで腰が引けていると流石に喝を入れたくなる。俺は正反対に語調を強め、ハッキリと励ました。
「『愛』って言葉が嫌いなだけで、幸音さんを嫌うとは到底思えないですね。結構甘い方ですよ、貴方には」
「ぜ、絶対に嫌われます……! 先生言ってました。『愛などという言葉を軽々しく使う奴はこの世で一番嫌いだし、そんなものを気軽に受け取る人間も頭がどうかしてるとしか思えない。そんな気軽に愛が量産出来たら世界はとっくに平和なんだよああ反吐が出る。気色悪い。偽愛者の事を考えるだけで今すぐ殺しに行きたいくらいだ』って!」
幸音さんは想い人から嫌われるのを大層恐れている。確かに発狂も斯くやと思われる罵倒の数々を耳にしたら俺でも躊躇うだろう。そんな男に告白など嫌味でしかないからだ。
しかしその言葉を聞く限りでは、どうも『愛』という言葉が嫌いというよりは、『愛の使われ方』に嫌気が差しているのではないかという気もする。あまり事情を察するのは得意ではないが、つかささんの家庭を崩壊させた宗教に関わりがありそうだ。
「わ、私……先生に嫌われたら、もう死ぬしかないんです。あんな所には……もう、戻りたくないので」
「あんな所?」
彼女の過去を知るにはまたとない機会に俺はやや食い気味に乗っかってしまった。普段の彼女なら心を閉ざしそうなものだが、一度決壊したダムが水を出し尽くすまで止まらない様に、俺はふとしたきっかけから心の闇を吐き出させてしまった。
闇が底を尽きるまで、何があっても止まりそうにない。
「………………私は生まれた時から、お母さんに全てを求められてたんです」
幸音さんの細く小さな指が、キングの駒を手に取った。
「私の子供は全てにおいてあらゆる他人を上回らなければならない。お母さんの口癖です。だから色々な事、教えられました。私も、あそこにいた他の子も、みんな平等に。お母さんは私が大好きでした。私もお母さん、好きでした。でも私は、特別才能が無くて。それが分かったらお母さん、私にしつけをするようになったんです」
『しつけ』というのは、体中に刻まれた傷跡の事だろう。要するに虐待だ。親として最低の行為なのは改めて説明するまでもないが―――いや、判断はまだ早計か。話を聞こう。
段々と彼女の喋り方が変化していく。情緒ある人間から人間を演じる機械の如く断続的に。或は機械そのものへと。
「ある時から、体の成長が止まりました。お母さんは私の存在を認めようとしませんでした。私を殺そうとしました。だから私、逃げたんです。その時まで外に出た事なくて、ずっとずっと走って。色んな人の家、勝手に出たり入ったりして。逃げて、逃げて、逃げて逃げて逃げて。そしたら……先生と出会ったんです」
『先生』の二文字が口を吐いた途端、幸音さんは元の情緒を取り戻した。両極端な二面性まではまだしも、特定のワードによる状態の切り替えまで存在すると、本人がどうあっても人間味を感じられない。人間はそんな簡単に、そして単純に切り替わるものじゃない。意図してそう訓練されているか…………それとも彼女の真の姿こそ、この状態なのか。
『つばき』という建物の存在。
それを知るメアリ信者。
鍵を握る幸音さん。
完璧を求める母親。
時系列は全くかみ合わないが、そうとしか考えられない。
「幸音さん。もしかして貴方の母親の名前って…………アマラだったりしますか?」
藍之條幸音はその場で大きく飛び退り、信じられぬ者を見る目で俺に尋ねた。
「な、何で知ってるん……………ですかッ?」
何故時系列が噛み合わない……?




