とんぼ
ところで、あなたが畳に寝転んで天井を見つめていますと、一つの何か知ら長細い影を見て認めました。あなたは自身の知らずの内にそれを確かに目で追いました。細いその影にゆっくりと焦点を合わせます。それはそれは美しい朝蜻蛉でした。この季節になるとよく見かけられるらしい彼らでしたが、今は午後四時を少し回ったところで、普通の朝蜻蛉はもう既に植え込みの側に――あなたの知らぬ内に――出来た翅塚で寝静まっているはずなのです。
「不思議な事もあるものだ」あなたは呟きます。
あなたは彼らの存在を知ってはいましたが、目にするのは初めてのことでした。日が西にくつろぎ始めているのをあなたは意識しながら頭を起こしますと、彼は優雅にあなたの目の前に止まり、あなたに話しかけました。
「ヤァヤァ、初めまして。と言っても、私は眠っている君を何度か目にしているのだがね」
「それはお恥ずかしい。ということは、初めてお話致しまして、だね」
「アァ、初めてお話致しまして」
彼の声はとても上品に感ぜられました。まるで静かに落ち着き払い、柔和で、それでいて快活な印象です。普段あなたが耳にする蜻蛉達はもっと下品な話し方をし、夜中だというのにゲラゲラと大きな声で笑います。それと比べるとなんと紳士的なのでしょうか。
「そんなに不思議かい?」彼はその目を虹色に輝かせながら言います。
「えぇ、とても。翅を拝見してもいいかしらん」あなたがそう言うが早いか、彼はどうぞと言わんばかりに、さらりと翅を広げました。水銀をガラス板で挟み込んだような、瀟洒で立派なそれでした。まるで彼の上品さをそのまま映し出しているようです。彼も我が身ながらそれを自慢にしている様子でした。しかし、だからこそ、何故こんな時間に空を泳いでいたのかということを強く疑問に思うのでした。
「もうすぐ私は死ぬんだ」
あなたは自分の心を見透かされたように感じ、少しどきりとしました。また、彼の目はそれくらいの事なら平気で出来そうな気もしたのです。
「私は朝の高町と自分の住むアパルトマンしか知らない。朝蜻蛉ということを考えれば当然の事だろう。しかし私は満足できなかった。自身の内に渦巻く知識欲を抑えられなかった。一種の冒険心とも言える」
彼は声のトーンを少しも変えずにそう言いました。あなたはと言うと、先ほどの言葉に只ならぬ決意めいたものを感じ、前足をさかさかと落ち着きがありません。
「もう長くない余生だ、こうして夕の高町を見たところで死ぬことには変わりない。それならば、少しでも私の暮らしていた町をこの目に収めたかった。だから私はここにいる」
あなたは彼の虹彩をじい、と見つめています。「だからあまり長居は出来ない」という彼の言葉を聞き逃すほどに見とれてしまっていました。
西日はもうじきに寝静まります。それが彼にとって苦痛を伴うことをあなたは分かっていました。
「私はモウ行くよ。君も、お達者で」
あなたが声をかける間もなく、彼は翅を震わせ、優雅に飛び立っていきました。あなたは反射的に小さく「あ」と声を出しましたが、その声が彼に届くことはありませんでした。
いつかは私も彼のようにまだ見ぬ朝の高町を知りたい、とあなたは考えながら、そして下品な声を上げる仲間たちと行動を共にする事に辟易しながら、自身の小汚い翅を広げました。
あなたの暮蜻蛉としての一日が始まろうとしています。