2話 AM 7:32
階段を上り廊下を進む。
西向きにつくられた廊下は薄暗く、蛍光灯の明かりによってぼんやりと照らされている。
その中の一つがチカチカと点滅している。
もう数日になるが未だに交換されていない。
昼はともかく夜になるとなかなか鬱陶しいため早々に交換した方が良いだろう。
とは言え、それは俺の役目ではない。ここを管理している人間の役目だ。
だから俺はなにもしない、やるべき人間がやればいい。
仕事しろよ管理人。
転がり出てきている三輪車を跨ぎ、それほど長くもない廊下を進むと突き当りの自分の部屋の前へとたどり着いた。
上着のポケットから鍵を取り出し。ドアの鍵穴に差し込む。が、上手く回らない。
ここ最近鍵穴の調子が悪い。
鍵自体は何でもなさそうなため穴の方だと思う。
不便ではあるが、それでも何度か開け閉めしているうちにコツを掴めたようで、特別苦労はせず鍵は開いた。
完全に使い物にならなくなる前に修理しなくてはならない。
部屋に入り施錠する(内からは容易に回る)と靴を脱いで部屋に上がった。
昨晩出た時と変わらない部屋。
と思ってから少し違ったことに気づいた。
昨晩飲みかけで放置してしまったらしいコーヒーがテーブルの上にある。
湯気を立てていたはずのそれはもうすっかりと冷めてしまっており、その暗い面にうっすらぼんやりと俺の顔を映し出している。
俺は台所へ行きカップの中身を流しに捨てカップに水を張ると、買ってきた酒を冷蔵庫へと仕舞い上着を脱いだ。そしてバスタオルと着替えを持ち、風呂場へと向かう。
取り敢えずシャワーで汗と疲れを洗い流してしまおう。
手早くシャワーを浴びパジャマ代わりのジャージに着替えると、バスタオルで頭を拭きながら冷蔵庫に入れておいたビールを取り出す。
缶を開け一気に喉の奥へと流し込む。僅かな苦みと炭酸による喉越しが爽快で心地良い。
この瞬間は何度味わってもいいものだ。
テレビをつけると朝の情報番組で天気予報を流していた。今日は晴れるらしい。
画面の左上に表示されている時刻は7:32。
仕事に、学校に行く人が忙しなく動いているであろう時間だ。そんな時間に一人酒を飲んでいることにどこか後ろめたさを感じ、その一方で妙な高揚感のもある。
この生活サイクルになった当時はそのことに少し戸惑いもしたが、そんな生活を続けているうちにだいぶ慣れてしまった。
別に悪いことなど何もない。
皆が寝ている時間帯に俺は働き、そして今勤務を終えたのだ。
勤務後の一杯。
堂々と飲めばいい。
ビールを飲みながらしばらく画面を眺めていたが特に面白い話題はなく、ある有名芸能人の結婚の話題になったあたりで完全に興味をなくした。
昨日の昼過ぎに入籍したとかで、それからというものテレビではその話題でもちきりだ。
どのチャンネルどの時間帯でもこの話題一色のためいい加減ウンザリしている。
世間の多くの人間にとっては興味深い話題であり、それ故メディアもこぞって飛びつき取り扱うのだろうが、正直俺にとってはどうでもよいことだ。
マスコミの調子づいた問いかけに歯の浮くような言葉で答えながら惚気る芸能人二人を見ながらビールをあおった。
まあ、末永くよろしくやってくれればいいと思う。
離婚でもしようものなら今のこの映像はさぞ恥ずかしいものとなるのだろうから。
そんな二人の未来に心にもないエールを送りながら俺はテレビを消した。
缶ビールを空け、缶チューハイを開けたところでスマホにメッセージが入っていることに気が付いた。
友人から飲みの誘いでも来たのかと思い、何と言って断ろうか少し酔いのまわった頭で考えながら確認すると、メッセージは母親からのものだった。
何か不幸でもあったのかと急ぎ内容を確認するが、文面の様子からそういう訳ではないようで、そのことに安堵しながらアルコールによって少し霞む視界に苦労しながら文章を読み進めた。
内容は何てことない家族の近況報告のようだ。
弟が大学に合格し春から都内で一人暮らしだとか、最近父親の帰りが遅いだとか、週末に習い事を始めただとか、そんな他愛もない内容だった。
ただ、家族も皆よろしくやっているのだということが分かり、自然と口元が緩んだ。
安心したのだと思う。
そうして読み進めていくと文章の最後の方にある一文に目が留まった。
前向きでいられていますか?
自分の行いに責任をもって前向きに歩んでいるのならよし。
それは幼少より何度も母親の口から聞いた言葉だ。
何をするかは自由。好きなことをすればいい。ただ、そのことにしっかりと責任をもって決して人として恥ずかしい行いはせず、あくまで前向きでいろ。
今でも思い出せる。
心の中でそれを反芻しながら当時のことを思い出してみる。
我が家の教育はそれほど厳しいものではなかったように思う。放任とまではいかないけれどある程度のことには寛容だったろう。
ただ、この一点に関しては別だったように思う。普段から口うるさく言われていた訳ではないが、躾の根底に常にこの想いが流れていたように今になって思う。
それだけ母にとってそれは大事なことだったのだろう。そして俺にもそうあるように望んだ。
その一文を何度も読み直しやがて俺はテーブルにスマホを置いた。
缶チューハイを一口飲みベッドに寄り掛かる。
果たして今自分は母親が言うように生きられているだろうか?
そんなことを考えながら俺は目を閉じた。
ご覧いただきありがとうございました。
次回更新は9月9日の予定です。
どうぞお楽しみに。




