17話 小さな少女の大きな想い
目の前に強い衝撃を受け、視界が白く光った。
自分がどうしているのか、どうなったのかも分からず、慌てて周りを見回すとそこは見慣れた自分の部屋だった。
目の前のテーブルを見ると何やら水浸しになっており、その中をチューハイの缶が転がっている。
額に鈍い痛みが残っているのを確認したあたりで自分が寝落ちしていたらしいことに気づいた。
ティッシュを数枚まとめて取り、テーブルにこぼれたチューハイを拭きながら光の射し込む窓の外を見ると、陽は大分高くなっているようだった。アパートの前にある団地のくすんだ壁が陽に照らされて白く見え、道路脇の電柱から伸びる電線が艶やかに輝いている。
何かまた夢を見ていたようだがそれはもうすでに霧散してしまっており思い出せない。散り散りになった細かいピースをかき集めようとし、けれど止めた。
何となくだが嫌な夢だったような気がしたからだ。
頭の中に極力思い出さないようにしていた大学の時の友人、そして彼女の顔が思い浮かんでいた。
もしかしたらまた昔のことを夢に見ていたのかもしれない。
最近そんなことばかりだ。
お陰で目覚めがすこぶる悪い。
少し頭痛がし、喉がカラカラに乾いている。チューハイの缶を持ち上げたところで今しがたこぼしてしまったことを思い出し、一緒に買っておいたペットボトルの水を取り出した。蓋を開けると一気に喉に流し込む。が、勢いがつきすぎたためそこで咽かえった。
ゴホゴホと咳き込みながらまったく散々だと一人憤る。
全て自業自得だが。
時計を見ると丁度七時半頃であり、ゴミ収集車が来るまではまだそれなりに時間がある。
だが、ここで二度寝に入ると恐らく起きられないだろう。
今のうちにゴミを出してしまった方が無難だ。
週末にかけて溜まったゴミは流石に出してしまいたい。
けれど、その前に。
俺は煙草とライターを手に取ると立ち上がり、フラフラとした足取りでベランダに向かった。
時間はあるのだ。一服してからにしよう。
窓を開けようとし、けれど伸ばしかけた手をいったん止め、ベッドの上に放り投げてあったカーディガンを取るとそれを羽織った。
三月の朝はまだ寒い。
改めて窓を開けるとやはり冷たい空気が全身を包み込んできた。部屋の中との温度差で余計に寒く感じる。
両腕をさすりながらベランダに出ると煙草を一本取り出して咥え、ライターで火を―――――――
「好きです!」
――――――着けようとして手が止まった。
ついでに思考も止まった。
恐る恐る声がした方に振り向く。
すると目を向けた先、隣の部屋のベランダに長い黒髪で眼鏡をかけた制服姿の女の子が立っていた。
スカートの前で両手を握りしめ、真っ赤な顔で目をぎゅっと瞑り、全身をプルプルと小刻みに震えさせている。
けれどそこで俺の視線を感じ取ったのか、ピクンと肩を大きく震わせる。そしてパッと目を開くと俺の姿を認めた。
彼女は動きを止め、キョトンとした表情で俺を見つめてくる。
この状況に理解が追い付いていないのだろう。
しかしそれも僅かな間で、彼女の顔は見る見る赤くなっていき、目には涙が溜まっていく。身体は再びプルプルと先程以上に震え始める。
マズイ
俺はそう思いながらも、しかし無言で立ち去ることも出来ず、どうしたものかと考えた挙句苦笑いを浮かべると
「えっと……………おはよう?」
とその状況にそぐわない一言を彼女にかけた。
その直後そんな俺の言葉ごと朝の空気を切り裂くような悲鳴が上がった。
「ごめんなさい!ごめんなさい!」
俺の前で高校生女子が必死に頭を下げている。
頭を下げるたびに長い髪が地面につきそうになり気が気ではない。
けれど彼女はそんなことお構いなしに、というよりそんなことに気を配る余裕などまったくないようだ。
必死に頭を下げ続けている。
あの後、その朝の空気にそぐわない彼女の悲鳴を聞きつけた人たちによってちょっとした騒動になった。
彼女のご両親がベランダに駆け付け、同じアパートの住人が顔を出し、散歩中のおじいさんがアパートを見上げ、その人が連れた犬がギャンギャン吠えた。
あらぬ誤解をされそうになった俺は彼女と共に必死に事情を説明し、これまた必死に頭を下げたことによってようやく納得してもらい事を収めるに至った。
そして今は彼女が俺に向かって必死に謝罪をしている。
とは言え、彼女にも悪気があったわけではない。
「いや、ホントにもういいから……ね?」
俺も誤解さえ解けたのであればもうこれ以上言うこともないのだ。
それに謝罪も過ぎたものになると逆にこちらが困ってしまう。相手に特別非がないのであればなおさらだ。
彼女のためにも俺のためにも不要な謝罪はこれ以上必要ない。
少なくとも俺は気にしていないのだから。
…………女子高生に悲鳴を上げられたことに少なからずのショックは受けたが、それも気にしないこととする。
そうやって彼女をなだめること十数分。ようやく彼女も頭を上げてくれた。
「ごめんなさい……」
「いや、いいからさ。あのタイミングでベランダに出て来た俺がいけないんだし……」
とそこまで言ってしまってから俺は自分の失言に気づいた。そしてやはり思った通り
「ううぅ~~~~~~」
「あのタイミング」という言葉に彼女は再び顔を真っ赤に染め上げ俯いてしまった。
俺は「あーーー……」と視線を泳がせる。
『好きです!』
傍から見れば彼女が俺に告白したかのように見える構図だ。
きっと誰もがそう感じることだろう。
けれどそれは違う。
俺はそんな勘違いはしない。
そう決めつけているのでは決してなく、俺はただそうだと知っているだけだ。
「また練習?」
「………はい」
俺が苦笑しながらそう尋ねると、彼女はおずおずと上目遣いで俺を見上げやはり真っ赤な顔で小さく頷いた。
彼女には好きな人がいる……らしい。
詳しいことは割愛するが、どうも昔その彼に助けてもらったことがあり、それ以来好意を抱くようになっていったらしい。
ただそれ以来一度も会話をしたことはないらしく、ただ遠くから見つめているに終始しているらしい。そもそも相手が自分のことを覚えているかも分からないと言うのだ。
気さくに話しかけ友達にでもなれれば親しくなるための第一歩になるかもしれないが、彼女の性格上それはなかなか難しい。
近づきたい。けれどどうしたらいいか分からない。そしてそれが分かったところで勇気がない。
そんな恋に悩める彼女が頼ったのがあろうことか俺であった。
俺?
は?
マジで?
当時はそう思ったものだ。
自分より年上であり、隣人同士の顔なじみとして何年かの付き合いがあり、何より当時彼女もちであった俺は随分と頼りがいがありそうに見えたようだ。
顔見知りでそれなりに親しかったため幾分か接しやすかったというのも彼女としては大きかったのだろうと思う。
実際には俺にはそんな頼られるようなものは何も、本当に何もなかったわけなのだが、必死に縋る彼女を見てそうも言い出せなくなってしまい、結局引き受けることになった。
引き受けたからにはいい加減にはしたくなかったし、何よりも彼女の恋がかかっていたためこちらもこちらなりに随分と真剣に相談にのったつもりだ。
先程の練習もその一環である。
元々あまり口数が多くなく、声も小さい彼女である。
普段からそれではいざ彼の前に立った時なおさら何も言えなくなってしまうだろう。
それでは始まるものも始まらない。
そのために少しでも声が出せるように練習でもしてみてはどうかと以前提案したことがあった。
加えて、大きな声を出すのと一緒に、彼に声をかける時のことも想定するようにした。
真剣に相談に乗ったという割には我ながらショボイ提案である気はする。
実際効果があるかなど分からない。ほぼ無意味で終わってしまう可能性はある。
ただそれでも何もしないよりは幾分かマシであるような気もした。
それからというものたびたび彼女が声を出す練習をしているのを見るようになった。
ベランダで。
練習場所の提案まではしていなかったのだが、まさかここを選ぶとは思っていなかった。
他の部屋の住人に筒抜けだし、前の通りには当然人通りだってある。
彼女からしたら相当ハードルが高いのではないかと思ったが、練習に必死で余裕がないためかそのことに気づいていないようで、まあそれならそれでということで俺もそのことにはあえて触れないようにしている。
とは言え、以前はこのベランダにも隣の部屋とを隔てる衝立があったため、俺自身はその姿を直接は見てはいなかったわけだが。
彼女がたどたどしく練習する声だけが衝立の向こうから漏れ聞こえていた。
ぎこちなくどこか危なっかしい、けれど必死な彼女のその声は、とても健気で微笑ましく、聞いていて決して嫌な気分にはならなかった。
彼女には秘密だが、一時期その練習の声を肴に酒を飲むことにはまっていた。
彼女がベランダに出たタイミングで俺も窓を開け、漏れ聞こえてくる声を聞きながら缶チューハイをチビチビ飲んでいた。
必死な彼女には悪い気がするし、あまりいい趣味とは言えなそうだ。
彼女が知ったら顔を真っ赤にして憤慨することだろう。
もっともその衝立も昨年の台風の際に強風によって大破してしまい、それ以来取っ払われてしまっている。
それからというもの彼女が恥ずかしいからということで、練習中は極力ベランダには出ないようにし、窓を開けることも控えていた。
今日はうっかりと出てしまったが……。
「その様子じゃあまだ声はかけられないかな?」
「ううぅ~~~……」
俺が苦笑いしながら言うと彼女は泣きそうな顔でうなだれる。
あぁ……そんな顔しないで……。
「さっきのはともかくさ、普段の俺との会話はそれなりに出来るようになってきたんだけどね」
「はい……」
彼女と関わるようになってから、多少でも進歩が見られたものとして挙げられるのがこの会話だ。まだまだぎこちなくはあるし、ごく少数の人間に限るが……。
出会った当時いくら隣人とはいえ挨拶程度しかしたことのなかった俺たちの会話はそれはぎこちないものだった。
俺が色々と話題を振っても会話が全く続かない。
それでよく俺に恋愛相談なんてものをもちかけたものだと感心するが。
そんな初めぎこちなかった会話だが、それでも繰り返していくうちに彼女も、そして俺自身も慣れて来たのか大分まともに会話出来るようになってきた。
たんに慣れたというだけなのであれば特訓どうこうは関係ないだろうが、それでも進歩は進歩だ。
そういうところではこうして会話すること自体に意味があったといえる。
聞くところによると、学校のクラスメイトとの会話も以前より少しだけ出来るようになったとのことだ。その程度は定かではないが、彼女がそう言うなら信じようと思う。
……先程の様子ではどうしても不安が残るが。
それにしても
「『好きです』っていきなり言うの?」
「え…え!?え、あ、ち、違いますよぉぉ!」
俺の言葉を受け彼女が赤い顔をブンブンと勢いよく振る。それに合わせて彼女の長い髪が右へ左へと揺れた。
「いきなりそんなこと言いませんよ……これは、その……い、いずれ、その時が…来た……ら」
そう返してきた彼女の声はやはり恥ずかしいのか後になるほど小さくなっていき、やがて消えた。そして耐えられないと言った風に手で顔を覆い俯いてしまった。
「ううぅ~~~………」
「うん、なんかごめんね」
何に対しての、どれに対しての謝罪かは分からないが取り敢えず謝ってしまった。無責任なことだと思う。
俯き小さく唸る彼女を慰めながら、けれど俺は全く違うことが気になっていた。
先程の彼女の言葉。
彼女も「その時」を考えているのだ。
当然のことなのだろうが、彼女もその時が来ることを望んでいる。そしてその時のためにこうして悩み、行動している。小さいことかもしれないし、それが意味を成すことか分からないが、それでもちゃんと行動している。
そこには少し感心している。
「頑張っているんだな」
「…………えへへ」
俺がそう素直に言うと、彼女は恥ずかしそうにしながらも少し嬉しそうに笑った。
その笑顔に不覚にも少しドキッとしてしまった。
それを普段からもっと見せていればさぞ好かれるだろうに。
そう心の中で勿体なく思う。
もしかしたらその件の彼も彼女のことを気にするようになるかもしれない。
もっともあまり多くの人間の注目の的になることは彼女からしてみれば耐え難いことかもしれないが。
皆に注目され、顔を真っ赤にして俯く彼女の姿が容易に思い浮かび俺は苦笑いした。
「やっぱり焦っちゃダメですよね。じゃないと何も言えなくなっちゃうし。無理にしゃべろうとして変なこと言っちゃうのも嫌だし、も少し……」
そう彼女は幾分か真剣な顔で一人何やら呟いている。
その彼女の姿はやはりどこか頼りなく、危なっかしく、心配になる。
けれどそれでも彼女はあくまで前向きなのだ。
人と関わるのは上手くないし、会話も上手くない。声だって小さい。それで気になる人に声をかけるなんて、ましてや恋人関係になろうだなんて簡単なわけがない。彼女からしてみればこの上なく高いハードルだろう。
けれど彼女は諦めない。
彼女の歩みはとても遅い。ゆっくり進むが故に一見進んだかもわからない。
それでも少しずつでも、たとえ一ミリでも彼女は前に進んでいる。分かりづらくても確実に進んでいる。
進み続けている。
そんな彼女の姿が俺には、どうしようもなく、眩しく感じた。
「君はどうして前へ進めるの?」
だからか気がつくと俺は彼女にそう問いかけていた。
「え………」
俺の言葉を受け彼女がキョトンとしている。そして次第に困惑の表情へと変わっていった。
突然の俺の言葉の意味を図りかねているようだ。
そのことが分かったし、俺自身一体何を言っているのだと思ったが、それでも言葉は溢れだし止まらない。
「自分の想いを伝えようとするのは大変だよね?怖いよね?なのに、それなのになんでそうやって挑み続けられるの?なんで諦めてしまわないの?何が君にそこまでさせるの?」
俺は彼女を見ながら一息に言い切った。
そこで息をつく。
ひゅっと高い音が喉でなった。
はっ、はっと乱れた息を整える。
こんなに一息にしゃべったのはいつぶりだろうか。
視線の先、彼女の表情は驚きに染まっており、その目を丸くしている。
普段そんなに口数の多くない知人が突然まくしたてるかのようにしゃべり出したら当然こうなる。ましてやこんな内容だ。それは困惑するだろう。
けれど彼女はすぐにまたその表情を変えた。それはやはり真剣なもので、少しの強張りが見える。
その表情に何か、なぜだか分からないが心がざわついた。
「怖いですよ。もちろん……」
そうポツリと言った彼女は自らのスカートをキュッ握った。
「怖いに決まってます。他の人に話しかけるのだって緊張するのに、あの人に……だなんて。想像しただけで体が震えて、心臓がドキドキして、頭が真っ白になっちゃいます」
ましてや告白なんて、と呟いた彼女はその言葉通りカタカタと少し震えている。顔は真っ赤で、少し硬さが見られる。
「それなのに何で?」
「それは……」
彼女はしばし俯いていたが、やがてその顔を上げると俺のことを見据えた。
強張っているが、その目は真っ直ぐに俺の目に合わされている。彼女の表情は真剣そのものだ。
その表情にやはり心がざわつく
そして真剣な表情そのままに
「一緒にいたいから」
彼女は言った。恐らく本心から。
いつもより幾分か大きな声で、ハッキリと。
一瞬だけ過ぎ去りし日々を共に過ごした彼女の顔が思い浮かび、すぐに消えた。
「私は待っててもダメな人だから」
なおも彼女は言葉を紡ぎ続ける。
「何もしなくても、そこにいるだけで注目されて、好きになってもらえる人はやっぱりいます。クラスの可愛い女子はやっぱり男子に人気ですからね。けれど私はそうじゃない。みんなみたく可愛くないし、地味だし」
少々地味というのは否定しない。決して垢抜けた感じではないだろう。
ただ、可愛くないということはないだろうと本心から思う。
彼女は自己評価が低すぎるのではないだろうか。
「待ってても好きになってもらえない。向こうからは来てもらえない。……………けど」
彼女の声に力がこもっていく。それはきっと彼女の本物の想い。
「それでも見てもらいたいなら、近づきたいなら、本当に一緒にいたいなら、もうこっちから近づくしかないじゃないですか。たとえどんなに怖くても、こっちから行って『私を見て!』って言うしかないじゃないですか」
顔を真っ赤に染めて、目を潤ませて、それでも自分の想いを吐き出す彼女は俺の知らない彼女だ。
けれどそれはきっと俺が知らないだけで、確かに彼女なのだろう。
「諦めることなんて、出来ないです。だってもうこんなに……………」
彼女は声を詰まらせる。それを口にするのはやはり恥ずかしいのだろう。そのまま口を噤んでしまった。
けれど言葉にしなくても彼女の言いたいことは分かる。その俺の知らない彼女の、彼女らしからぬ姿からこれでもかと伝わってくる。
結局大事なところはそこなのだろう。
その大事なものが本物で、その強さが内気な彼女をここまで突き動かす。
いや、内気なと、一言で済ますのは正しくはないのかもしれない
俺は彼女のことをそんなに知っているわけではない。
例え身内であってもその人のすべてを正しく理解することはかなわないのに、たかが隣人でしかない俺に彼女のことが分かるわけもない。
分かるなどと言ったらそれはただの勘違いだ。
おこがましいにもほどがある。
ただ、そんな俺でも言えることがあるとすれば、それは
彼女は決して弱くなんかないということだ。
たかがそんなことしか分からない。けれどただの隣人に分かることなんてその程度だ。
今更ながらに自分の語った内容に赤面し「うぅぅ~~~」と俯き悶えている彼女を見ながらそう考えを改めた。
彼女は俺なんかよりよっぽど強い人間だ。
そんな俺が彼女にしてあげられることは何だろうか?
「まぁ……なんて言うか……がん…」
そこで俺は言葉を切る。
そしてしばし思案し、改めて口を開いた。
「思ったようにやりな。自分の思ったように」
彼女は未だ赤い顔で目を潤ませていたが、それでもこちらに顔を向けると恥ずかしそうにけれどとても可愛く笑ってみせた。
やはり彼女の笑顔は魅力的だと思う。
ご覧いただきありがとうございます。
何かを感じていただけたら幸いです。
次回の更新は10/29(日)の予定です。
またお越しいただけたら嬉しいです。




