プロローグ
彼女に最後に会ったのは桜の花が満開に咲き誇るある春の日だった。
その日は大学の卒業式だった。
卒業生たちは皆めかしこみ、自らを彩り、おめでたい日にふさわしい装いに合わせようと、もしくは自らがその『おめでたい』を体現しようとしていた。
共に過ごした友人や恩師との別れの寂しさを感じさせつつも、どこか浮足立ったような空気が漂っている。やはり多くの人間にとって卒業とは喜ばしいものなのだろう。
そんな卒業生たちをまるで祝福するかのように桜の木々は色づき咲き誇る。
開く蕾はまるで笑顔を浮かべるよう。
一面に舞い散る花びらはまるで拍手喝采のよう。
おしゃべりに夢中になって周りの桜のことなんて見向きもしないような卒業生たちを何の得があるのか祝福してくれるそんな桜の木々を健気に思った。
慣れないスーツや袴姿のような大袈裟に着飾ったものよりも、その彩をたたえながらもどこか控えめな桜の花の方がよっぽど自然で美しく感じる。
主役である卒業生よりもそれを優しく見守るかのような桜の木々の方がよっぽど尊く感じるのだ。
もっともそんなことを考えているのは俺ぐらいかもしれないが。
いや
それとも案外俺が気づかないだけでそう思っている人間は多いかもしれない。
少なくとも俺以外にあと一人ぐらいはそんなことを思っていそうだと、そう思った。
そんなことを考えていたからだろうか?
多くの人で雑然とし、桜の花びらによって霞む景色の中で彼女の姿は嫌にハッキリと鮮明に確実に俺の目に留まった。
ドクリと心臓に、全身に嫌な痛みが走る。
数人の友人たちと談笑する彼女。
装いは控えめな色ながらも綺麗な袴姿。浮かべる笑顔は俺が見慣れていたものに近い気がする。
同じではない。
限りなく近いものだが別物だ。
そんな気がするのだ。
友人たちと手を振って別れ、こちらを向いた彼女と不意に目が合った。
瞬間俺の体が硬直する。頭の中には様々な想いが駆け巡り、やがて真っ白になった。
真剣な表情で、瞳で俺のことを真っ直ぐに見つめてくる彼女。
こちらも見慣れたものでは決してない。
けれど何度も、何度も見た表情だと俺の心が告げる。慣れてないだけであり、確かに知っている。
表面的なものではなく、心の奥底に刻み込まれたようなその記憶。表情。
その瞳を見つめ返すことには少なくない恐怖を覚える。
今更どんな顔をして彼女と向き合えばいいのだとそう思いながら、きっと俺の顔はそんな戸惑いとそして後悔に染まっているのだろう。そんな顔を見せたくはないが、どうしようもなく、目を逸らすこともできない。
お互いただただ無言で見つめ合う。
やがて彼女は一度目を瞑り、開くと、一転して明るく、眩しい、輝くような笑顔を浮かべた。
まるで花が咲いたかのような笑顔。
この桜が咲き誇る中でけれどまったく別の花。そう……まるで夏の日射しをいっぱいに浴びたひまわりのような笑顔。
それは俺が見慣れた笑顔に似ていて、けれどやはり同じではない。
どこが違うのかと言われればそれは上手く説明できないのだが、確かに違う。
第三者では気づかないかもしれないが俺には分かる。
見慣れた彼女の笑顔。
俺の一番近くにあった笑顔。
もう手が届かないほどに遠くへ行ってしまった笑顔。
俺の記憶の中の笑顔とはやはり違うのだ。
そしてそんな笑顔を見ることはもう決して叶わないのだろうということも分かっている。
けれどそう思ったところで、俺にそれを口にする資格はないし実際口にすることなんてできない。
そんなのは今更だ。
俺にできることは少ない。
だから俺も笑顔を浮かべた。
こうすることが正しいかは分からないけれど、笑顔を向けられたのであれば、ここはやはり笑顔で返すべきだろうとそう思った。
自分でも顔が引きつっているのが分かるがそれでも無理やりに口角を上げる。
彼女も変わらず笑顔だ。
そうしてお互い笑顔で見つめ合う。
周りの人間の声は聞こえず、風や木々が騒めく音も聞こえず、まるで音がなくなったかのように錯覚する。
その音のない世界でお互い向き合って見つめ合う俺たち二人の間を桜の花びらがひらりひらりと静かに舞う。
やがて彼女はゆっくりと後ろへ向き直ると、静かに歩き出した。
俺は黙ってその背中を見送る。
彼女の歩みは止まらず、ゆっくりとけれど確実に遠ざかって行き、やがて卒業生の雑踏の中、舞い散る桜の霞の中へと消えていった。
一度も振り返ることはなかった。
俺はちゃんと笑えていただろうか?
きっと酷いものだっただろう。酷くぎこちなく、不格好で、とても笑顔とは呼べないものだっただろう。
それでもどうにか笑って送れた。
彼女はどう思っただろうか?
俺の笑顔をどんな気持ちで見て、どんな気持ちで笑顔を浮かべたのだろう?
どんな気持ちで俺のもとから去っていったのだろう?
そんなこと彼女ではない俺には分からない。
誰にも分かりはしない。
「アンタなら分かるか?」
そう訊ねながら傍らの桜の木を見上げるが、当然それに答えてくれることはなく、ただただすべてに靄をかけるように桜の花びらを舞い散らせていた。




