09 その男、詩を詠む
それ以来、その青年官吏とは頻繁に顔を合わせるようになった。
夜、私が中庭で零れた明かりを拝借していると、度々彼がやってくるのだ。
(ったく。どんだけお盛んなんだか。厳しそうな顔して……)
回を重ねるごとに男に慣れてきた私は、果てにはそんな失礼なことまで考えるようになっていた。
なんとなく、男が妓女と逢瀬を重ねているのが気に食わなかったのだ。
「これも読め」
そう言って男が差し出してきたのは、私が読んでいた絵本など目じゃない程、きちんとした本だった。とはいっても、製本の技術自体が存在していないのか、やはり冊子のような作りではあったが。
しかし、男が取り出してきた本に絵はなかった。なので私は単語一つ一つに詰まり、困惑する。
どういうつもりだという気持ちを込めて男の顔を見上げれば、そこには今までと印象の違う、無邪気な笑みが浮かんでいた。
「どれだ? どの文字が読めない?」
男が覗き込んでくるので、私はしぶしぶ最初につっかえた文字を指差した。
「苦だ」
低く聞き心地のいい声が、耳元に聞こえた。
なんとなく、落ち着かない。
男は嬉しそうな顔で、朗々と一片の詩を詠った。冊子の序盤にある一文だ。
苦に文章を把りて 人の邀え勧む
吟じて好箇を看れば 語言新たなり
相如の賦に及ばざると雖然も
也た黄金の一二斤に直す
ねんごろに詩文によって、私の心を迎え、励ましてくれる、
吟じつつ、この好い作品を見れば、言葉が新鮮に感じられる。
司馬相如の賦には及ばないかもしれないけれど、
それでも黄金の一、二斤には値します。
どうも、贈られた詩に感動した誰かが詠んだ詩らしい。
『司馬相如の賦』というのがなんだか分からないが、そこまでではないにしろ黄金一、二斤に値すると歌い主は言っている。
(えーと、ここでの一斤は五百ミリペットボトルよりちょっと重いぐらいだから……一kgの金!? 現実世界だったらひと財産だよ。今は金の相場も高いしさ)
なんて、ちょっと外れた感想を持つ。
そんな私の表情をどう受け取ったのか知らないが、男は丁寧に詩について説明してくれた。
「これは、贈られた詩に喜んだ妓女が、客に贈った返詩だ。『司馬相如の賦』というのは、昔の皇后が失った寵愛を取り戻すために、司馬という者に黄金百斤を積んで書かせた詩のことだ」
(黄金百斤……って五十キロ以上の金!? どれだけだよ皇后。詩に五十キロの金って……。それだけこの世界では詩が重要視されてるってこと? それとも単に皇后の金遣いが荒かっただけ?)
詩の素晴らしさより金遣い(文字通り)の荒さに驚愕している私だったが、その驚きをどう解釈したのか、男は嬉しそうに言った。
「これは、私の好きな詩だ。だから本の最初にくるよう作らせた。残りは簡単な文字の詩ばかりだから、お前一人でもなんとか読めるだろう。分からないことがあれば、次来た時に聞くといい」
そう言って、男は上機嫌で帰っていった。
黄金の価値にばかり頭がいっていた私は、なんとなく申し訳なくなった。
親指の腹で、そっと紙面を撫でる。
それは現代の日本とは違う、厚くてざらざらする紙だった。
(ってゆーか今、『作らせた』って言わなかった? え? どれだけ偉いのあの人? そして私はこれをもらっちゃって無事で済むの!?)
返そうかと思って慌てて男の背中を探したが、既に彼は建物の中に入った後だった。
己の迂闊さと金に気を取られたがめつさを反省しつつ、私は文字の勉強を再開した。
***
最近、お養母さんがうるさい。
妓女でもないのに外出禁止令を出され、今まで行っていたお遣いも他の人に頼むという。
私は仕事が減って楽が出来るからいいのだが、その様子がちょっと尋常ではないのだ。
「いいかい小鈴。アタシは身寄りのないあんたを余暉から引き取って、今まで面倒見てやったんだからね? わかってんのかい! だから誰に誘われても迂闊についてくんじゃないよ。飴玉やお菓子の類ならアタシが買ってあげるからね!」
とりあえず頷いておかないとうるさいのでそうするが、言っている内容がどうもおかしい。
だって最初の頃は、いつでも代わりはいるんだからと脅してばかりいたのだ。だから私は、寝る場所と最低限の食事を惜しんで必死で働いた。
大体、甘い物はそれほど好きではないので、それをくれるからといってほいほいついて行ったりしない。
まあ彼女は私を少年だと思っているので、それも仕方ないことなのかもしれないが。
という訳でお遣いの代わりに開いた時間を、私は例の官吏にもらった本を読む時間に宛てた。
そこに書いてある詩は簡単だが深い内容のものが多く、それほど詩に興味のなかった私すら、次第に内容に引き込まれていった。
詩の出典は北里志から
当時の妓女の生活というのは興味深いです