08 月夜の出来事
「ご、ごめんなさい!」
私はお客が覗きを咎めているのだろうと思い、必死で頭を下げた。
妓楼での覗きは許されるものではないだろう。特別な趣味の客ならともかく。
「外で怪しい気配がすると思って来てみれば……一体誰に雇われた!」
いきなり激しい口調で尋ねられ、困惑する。
(は? 何言ってるのこの人? 覗きだと思って怒ってるわけじゃない?)
相手の表情を窺おうと顔を上げれば、そこに立つ男の顔には絶対零度の怒りが宿っていた。
月明かりに照らされた顔は、美しいがそれ以上に恐ろしい。
「お、おれは、こここ、ここの下働き!」
口が回らず、鶏のようになった。こここここ。
「そんな出まかせが通じるとでも?」
しかし尚も相手は納得しない。泣きたくなって、私は見ていた絵本を男に差し出した。
「覗き、違う! これ、よんでた……だけ」
もっと流暢に言葉を喋れたのなら、いくらでも言い訳ができただろう。しかし緊張とおそれで、私はどうすることもできなかった。
青年の腰に付けた佩玉は、科挙に合格した正真正銘の官吏の証。彼の指一本で、私の首など簡単に飛ぶだろう。
とりあえず前にのめり込む勢いで頭を下げていたら、差し出してた絵本を奪われた。
うつむいたまま食いしばり、相手の反応を待つ。
余暉が、前に言っていた。花酔楼のお客様は位の高い方が多いから、絶対に逆らってはいけないのだと。
「お前、異国の生まれか?」
私のつたない言葉から、そう推測したのだろう。青年の言葉が、少しだけ柔らかくなっている気がした。
「わ、分からない。気づいたらここ、いた……」
それはある意味で本当だった。ある日醒めない夢の世界に放り出され、一年が経った今でもその夢が覚めないのだから。
(でも、そんな説明したって分かってもらえるはずないし……)
なんでこんな目にという、今まで何度考えたか分からない気持ちが再び湧き上がってきた。
本当だったら今頃、忙しいながらも充実した毎日を送っていた筈なのだ。
「頭をあげろ」
命令に従い恐る恐る顔を上げると、男が驚くほど近くにきていて驚いた。
一体いつの間に近づいたのだろう。そう思いながら、自分よりはるかに長身である男を見上げる。
おそらくは仕立てのいい着物と、月明かりを反射する鮮やかな刺繍。腰からはその位を示す玉を垂らし、髪は多くの官吏がそうであるように布によって纏められている。
そして最大の特徴は、その涼しげな美貌だった。
余暉とは真逆の、逞しい美しさが彼にはあった。何もかもを見通すような鋭い眼差しと、硬く引き結ばれた少し厚い唇。
「まだ、子供か」
その言葉が独り言なのか問いかけなのか判断がつかず、とにかく私は黙ったままでいた。余計なことを言って、彼の更なる怒りを買いたくはなかった。
「文字を勉強しているのか? なぜだ?」
思ってもいなかったことを聞かれ、困惑する。
彼は私が覗きなどではなく絵本を読むために明かりを借りていたのだと、はたして信じてくれたのだろうか?
(大体、文字が分からなかったら勉強するのは当たり前でしょ? 何も読めないんだから)
そう思いつつ、恐る恐る口を開いた。
「文字……わかれば、知る……できる。この国のこと」
知っている単語を繋げて、必死に言葉を紡ぐ。
それは心からの言葉だった。非力な私にとって、知識は身を守る武器だ。実際、現実世界で覚えたマッサージや化粧水の作り方が、今現在の私の身を助けたのだから。
(生意気だって、また怒られるかな)
おそるおそる男の顔色を窺うと、驚くようなことが起こった。
先程まであれほど厳しい顔をしていた男が、ふっと嬉しそうに微笑んだのだ。
(え? なんで?)
そう思いつつ、余計な事は言わない。
ただしばらくの間、私はその笑顔に見惚れた。
「そうか、いい心がけだな」
そう言って彼は絵本を返すと、そのまま妓女の部屋へと去って行ってしまった。
残された私はまるで狐につままれたような気持ちで、そんな彼の背中を見送った。