05 芙蓉
その数日後、私はなぜか花酔楼のナンバーワンである芙蓉姐さんに呼び出されていた。
横には、心配して付き添ってくれた余暉もついている。
(なんでこんなことに?)
そう思いながら、芙蓉ご自慢の化粧筆を手に取る。漆に螺鈿細工の蝶が描かれた、それだけでひと財産になりそうな立派な物だ。
緊張で、手が震えた。
もし失敗したら、私もムチを喰らうのだろうか。
そういう特殊な性癖はないので、ぜひとも遠慮願いたい。
「姐さん。何も子供がしたことじゃないですか」
「あらぁ、アタシはこの子に化粧師の才能があるのか、確かめたいだけよ」
―――なんでこんなことになっているのか。
それは、先日少女の頬に花びらを描いたことに起因する。
私は少女を慰めるために軽い気持ちでやったことだったが、その少女に鏡を貸してほしいと頼まれた芙蓉にとっては、そうではなかったらしい。彼女は私の描いた花弁に興味を持ったらしいのだ。
だから今日になって突然呼び出されたと思ったら、私の顔にも美しい花を描いてみろと命じられた。
こちらにしてみれば、忙しいのに勘弁てくれよの事態である。
わざわざついてきてくれた余暉にだって、申し訳が立たない。
(とにかく姐さんの不興は買わないように、ここは穏便に……)
そう思い、私は大人しく作業を始めようとした。アシスタントになる前だったとはいえ、こちらだって化粧に関しては素人ではないのだ。ナメてもらっては困る。
しかし筆が触れる寸前であることに気付き、ふと手を止めた。
「なぁに? どうしたんだい?」
艶やかな彼女の顔には、たおやかでありながらもどこか人を馬鹿にするような笑みがのっていた。
しかしそんな顔をされようとも、どうしてもそのまま作業を続ける気にはなれなかった。
「どうした? 気分でも悪いのか?」
固まった私を、余暉が心配そうに覗き込む。
私は首を振り、真っ直ぐに芙蓉の目を見つめた。
「ねえ、さん。ちょっと、まて……」
「はあ!? あんた何様のつもりだい!」
「まあまあ、落ち着いて!」
芙蓉が大声を出して怒鳴る。どうやら言葉遣いを間違ったらしい。余暉の使うような下町言葉が出てしまうのは、私の悪い癖だ。
私は彼女の怒号を背中に受けながら、すたすたと部屋を出た。
そして必要なものを用意して、もう一度彼女の部屋に戻る。
一度では足りなかったので、何往復もした。おかげで初めは怒っていた芙蓉も、最後には呆れた顔をしていた。それは余暉だって同じだ。
「なんだい? できないからってアタシにお供え物でも持ってきたのかい?」
やっと全ての用意を終えた私は、彼女の前に膝をついて言った。
「姐さん、まず顔、あらう」
「はぁ!?」
芙蓉は普段の優雅な様子など嘘のように、素っ頓狂な声を上げた。
「その、しろい……はだ、よくない。水、あらう」
そう言って私が差し出したのは、水の入ったたらいだった。
改めて芙蓉の肌を間近で見た私は、彼女の肌がひどく荒れている事に気が付いたのだ。これではどんな素晴らしい化粧をしようが、それだけで台無しになってしまう。
「よくないってねぇ……これは宰相様が買ってくださった、最高級の鉛白だよ!」
鉛白と聞いて、私は驚きに飛び上がりそうになった。鉛白といえば、大昔に日本でもおしろいに使われて、それが原因で沢山の死者をだしたというあれじゃないか。
(もしかして、花酔楼の妓楼は皆これを使ってるの!? 鉛白は最悪死ぬまであるのに!)
確か専門学校で化粧の歴史を勉強した時に、おしろいに用いた鉛白によって昔は沢山の中毒者が出たと習ったはずだ。現代のファンデーションの原料はセリサイトという粘土のような岩なので、もう中毒者が出る心配はないのだが。
「うそ、思って、あらうっ。きれい、する!」
「とにかく、言うとおりにしてやってくださいよ。そしたらコイツも満足するでしょうから」
余暉のフォローが入ると、姐さんはしぶしぶたらいの水に手を付けた。
(余暉についてきてもらって、正解だったかも)
彼はこの辺りの妓女にとって憧れの的なので、逆らえる人間などそうそういないのだ。
男だろうが女だろうが余暉に言い寄る人間が山ほどいる事を、私はこの一年で骨身にしみて知っていた。
それにしても、いきなりこのおしろいを使っていたら死ぬと言っても、下働きの子供が言うことなんて誰にも信じてもらえないに違いない。姐さんが顔を洗う水音が響く中で、私はおしろいの代わりになる物がないか、必死で頭をめぐらしていた。
そして彼女が十分に顔を洗って白粉を流したのを見届けてから、乾いた布を渡す。
「ったく、アタシにこんなことまでさせるなんて……それにしてもこの水、なんだかちくちく嫌な感じがしないねぇ。どこの水だい」
「あめ」
「はぁ!? 雨水だってのかい!」
雨水と言うのは軟水なので、洗顔に適した水なのだ。勿論、大気汚染など欠片もない夢の中だからこそできることだが。
これが例えば土に染みて地中の鉄分を含み、硬水になってしまうと今度は水と言えども肌を荒らしてしまう。なので私も洗顔をする時は、井戸水ではなく巨大な甕に溜めた雨水を使っていた。
「ちょ、姐さん」
驚きのあまり身を乗り出した芙蓉を、余暉が押し止める。
「そのほうが、きれい、なる。ちくちく、しない」
芙蓉の神経を逆なでしないよう、慎重に答えた。
彼女はしばらく目を見開いて呆然としていたが、何かを諦めたように顔を拭った。