40 約束
深潭は余暉から離れると、すぐに顔を引き締めた。
「旧交を温めるのは後ほどにして、今は今夜のことについて話し合わなければ。やはり祝宴への出席は取りやめに……」
「いいや。俺は行くぞ」
腕を組んで、黒曜は深潭の意見を破棄した。
「陛下! 自ら身を危険に晒すようなことはおやめください!」
「皇太后直々の誘いだ。今更断ることはできん。それに、考えようによってはこれは好機だ。凶手が雑技団に混じっていると分かれば、やりようはある」
「陛下……」
「そんな、黒曜!」
二人のやり取りを見守っていた私は、堪らず声を上げた。
(命を狙われると分かっていて、みすみす飛び込むなんて!)
彼が身分を偽っていたという悲しみや驚きはあっても、だからといって黒曜に危険な目にあってほしいわけじゃない。
「黒曜死ぬ大変です。行くな! いでください」
必死で、言葉が乱れる。
行ってほしくない。死んでほしくない。
それは、黒曜が皇帝だからではなかった。
(まだ、仲直りだってしてないのに……)
死という言葉が、ひどく身近に感じられた。
体温のない続きのない、何も生み出さない終わり。
傍にいてほしいとは言わない。彼が皇帝であると知ってしまったら、もう今まで通り気安く言葉を交わしたりなんてできないだろう。
それでも、私は黒曜に生きてほしかった。会えなくなっても、どこかで生きていてくれれば十分だと思った。
「鈴音」
黒曜がそっと私の髪に触れた。
何を言われるのかと、上を向いて彼の言葉を待つ。
「ふふ、ひどい顔だな」
笑われて、顔から火が出るかと思った。
灰だらけの顔を、慌てて袖口で拭う。
黒曜はこんなにも立派な格好をしているのに、私はこんなにみすぼらしい恰好で、なおかつ年老いた宦官に化けている。
せめていつもの女官の格好ならと、つまらない後悔をした。
「今、そんな場合じゃ―――っ!」
叫ぼうとして、息を呑んだ。
黒曜が、私の顔を覗きこんでいる。
息が掛かりそうな距離だ。ともすれば触れてしまいそうなほど。
「少しは可愛い顔をしろ。今生の別れかも知れんぞ?」
先ほどまでの悲しげな顔とはまた違う、黒曜の顔には意地の悪い笑みが浮かんでいた。なのになぜか、振り払えない悲壮感のようなものが漂っていて、彼を拒否できない。
「俺は後宮へ行く。凶手をその場で取り押さえることが出来れば、流石に雨露や皇太后も言い逃れは出来ん。これは好機だ」
「しかし! 後宮には我々や北衙ですらっ」
深潭の訴えを、黒曜は掌一つで押し止めた。
そんな所作の一つにすら、なぜか気品のようなものが感じられる。
「鈴音。死ぬかもしれないと思ったら肚が決まった。お前は後宮に入れ」
「いまさら―――」
何を言い出すのかと、私はその続きを待った。
「生きて後宮より戻れたら。お前を、妃として娶る」
「陛下!」
「何を!?」
深潭と余暉の声が、なぜか遠くに聞こえた。
私は黒曜の言葉を確かに聞いていたはずなのに、いつまでたってもその内容が理解できない。
完全に思考が停止して、息をすることすら忘れた。
「だから、俺の無事を祈っていろ。必ずお前を迎えに行く」
「そんな!」
ようやく、口が動いた。
「後宮、危険! 行かせるない! 迎えいらない!」
縋るように、さらさらとした袞服を掴む。
気付けば涙が出ていた。
最近の私はひどく涙もろい。
日本にいた頃は、どちらかといえば感情が薄いと思っていたのに。
可愛げがないと、蘭花にもよく言われていた。
「聞き分けがないことを言うな」
「聞き分けない、黒曜の方! 後宮危険、行かせない!」
はげしく首を振ると、宦官の丸い帽子がぽとりと落ちた。
久しぶりの地毛は首筋がすーすーする。
最近はすっかり、鬘を被る生活に慣れていたから。
「黒曜、私に本、くれた。もっといい国にする、言った!」
「だから、その為に行くのだ。皇太后の専横を断たなければ、この国は前にはすすめん」
「でも、死んだら何もかも終わり。黒曜の代わりいない!」
まるで子供のようにいつまでも駄々をこねる私を、黒曜の大きな掌がそっと撫でた。
それは慣れ親しんだ、強くて少し乱暴な撫で方だ。
「必ず戻る。戻らなければいけない理由があるからな」
「え……?」
その理由とは何だろうか、見上げた私に黒曜は言った。
「自分を化粧した、お前を見せてくれ。赤い華燭の服を着て……」
華燭というのは、つまり結婚のこと。
私の頬はこれ以上ないほど熱くなった。
顔から実際に火が出ていたとしても、驚かないと思うほどだ。
「愁嘆場はそれぐらいにしてもらおうか」
突如視界から黒曜が消えた。
一本の腕に、体の自由を奪われている。
何事かと振り向けば、そこには複雑な顔をした余暉がいた。
「あんたのことはどうでもいいが、鈴音を悲しませたくはない。俺に考えがある」
私達はそれから日が暮れるまで、余暉の提案を実現するための準備に追われた。




