36 余暉の話
余暉の生まれは、古い貴族の家柄だ。
世が世ならば、科挙を受験して官吏になっていたことだろう。
余暉は勉強好きの子供だったし、代々官吏をしている父や祖父を尊敬もしていた。
しかし二十年前の政変で、全ては変わってしまった。
宦官の奸言に惑わされた皇帝が、謀反を企んだとして余暉の祖父の捕縛を命じたのだ。
門下省で尚書をしていた祖父は、年老いた皇帝を籠絡しようとする宦官達と反目しあっていた。
榮国で謀反大逆を企んだ者は、仔細に関わらず九族皆殺し。女子供ですら、その例外ではない。
余暉は幼くして追われる身の上となった。
時には路上の物乞いに身を窶し、時には線の細い容姿を使って女に化けたこともある。
全国を這いずるように逃げ回る日々だったが、余暉はめげなかった。
彼には、守らなくてはいけない存在がいたのだ。
それは生まれたばかりの妹。七歳年下の明鈴だった。
明鈴は大人しい子供だった。
追手がいる時は決して泣かなかったし、空腹だろうに余暉の指をしゃぶって飢えに耐えていた。
綺麗な衣も着れぬ。満足に食べることもできぬ。
余暉は明鈴が哀れだった。
だからこそ、彼は誓った。自分に何があっても、明鈴だけは守らなければ―――と。
政変により起こった政治の混乱により、国は荒れていた。
老いた皇帝に代わり宦官が権力を握り、彼らの贅沢により逼迫した財政は、平民達の暮らしに増税という暗い影を落とした。
行く先々で見るのは、疲れ果てた人々の姿。
余暉はそんな時代の中を、泥水をすすって生き延びた。
ただ妹を救いたいという思いだけが、あの頃の余暉を支えていた。
いつかこんな日々が終わり、妹と平和に暮らせる日がやってくる。
それだけを夢見た少年時代。
やがて、宦官達と密接な繋がりのあった皇后―――今の皇太后が政変に打ち勝ち、彼女の好きなようにできる幼い皇帝が玉座についた。
皮肉なことだが、皇太后が一手に権力を握ったことにより、宦官の時代も終わりを告げた。
皇太后は賢い女性だったので、国が荒れれば税収が減り、反乱が起これば余計な費用がかさむと心得ていた。
緩やかに宦官から権力を削ぎ、彼女はそれを己のものにしていった。
結果として皇太后の政治手腕が国を救い、榮という国を生き永らえさせる結果となった。
新しい皇帝の即位の際には大赦が行われ、余暉の家の名誉も回復した。
そうして長きにわたる逃亡生活が、遂に終わりを告げたのだ。
しかしその日を迎えることなく、明鈴は幼くして命を落としていた。
流行病にかかり満足な治療も受けられないまま、短い一生を終えたのだ。
余暉は自暴自棄になり、名乗り出て先祖の名跡を継ぐこともしなかった。名前を偽り、死ぬまで『余暉』として生きていこうと決めた。
そうして流れ流れ、いつしか竜首原の色町に流れ着いた。
手先の器用だった余暉は、そこで髪結い師として生計を立てることにした。
妹の髪を結ってやる内に、いつの間にか身についていた特技だ。
色町の住人は、すれてはいるが情に厚い。
古傷を持つ者も多かったので、お互いに過去を詮索しない関係が心地よかった。
余暉はいつか仕官するはずだった紫微城を見上げながら、在野に生きると決めていた。
平民として死んだ妹のためにも、貴族の生活に戻りたいとは思わなかった。
おそらく、死ぬまでずっとそうして生きていくはずだった。
―――あの少女と出会わなければ。
余暉に転機が訪れたのは、髪結いの仲間たちと妓楼へ向かう途中のことだった。
突然目の前に、現れた不思議な少年。
余暉を見て立ち止まった彼に対し、仲間たちはまた女と勘違いされていると囃し立てた。
彼は見慣れない服を着て、異国の男のように髪を短く切りそろえていた。
余暉は目を疑った。
なぜなら、彼が驚くほど明鈴に似ていたからだ。
年恰好も、明鈴が生きていればその位だっただろう。
まるで、黄泉の国から妹が蘇ってきたかのようだった。
だからだろうか。褲を穿いてはいても、余暉は少年が女であるとすぐに見抜いていた。
その名も鈴音。
名前に鈴が入ることは珍しい。
余暉は彼女を妹と同じ小鈴の愛称で呼び、可愛がった。
客を取らされるのはかわいそうだと、花酔楼の養母にも彼女は男だと嘘を教えた。
子供だから妓女と悪さをすることもないと、無理矢理に焚き付けたのだ。
彼女が驚くような化粧の才を持っていたのは意外だったが、鈴音はまるで実の兄のように余暉を慕ってくれた。
―――いつか彼女が大きくなって、男と偽ることができなくなったら、所帯を持とうか。
一人の時にふと、そんな未来を夢想たりもした。
それは今まで考えたこともない、穏やかな未来だった。
いつの間にか、鈴音は余暉の救いになった。
彼女といると、妹を守り切れなかったという後悔が、ほんの少しだけ和らぐ。
言葉も拙い鈴音との日々が、余暉の傷を穏やかに癒していった。
しかし運命は残酷だ。
鈴音が、ある日突然貴族に囚われてしまった。
余暉は必死で鈴音の乗った馬車を追ったが、貴族の家人により取り押さえられた。
権力のない平民は、貴族の横暴に耐えるより他ない。
そうして余暉は色町を出て、鈴音を助ける決意をした。
ぬるま湯のように心地よい住処を捨てて、再び自分の運命と戦う決意をしたのだった。




