34 冷たい春
目を覚ますと、どこか暗い部屋の中にいた。
手足が縛られ、口には猿轡が噛まされている。
(ここは……?)
埃っぽいにおいが鼻についた。
木箱が積み重なっているので、おそらくは物置かなにかなのだろう。
小さな明り取りの向こうは完全な闇だった。
あれからどれくらい経ったのだろう。
全ての感覚がぼんやりとしていた。
霧を掴むような感覚で、記憶をどうにか手繰り寄せる。
(そうだ、私は女官たちの話を盗み聞きしてて……)
その時だ。
外に人の気配を感じて、私は身を固くした。
草を踏む足音が、壁のすぐ側まで近づいてくる。
ガタンと立てつけが悪い音がして、入ってきたのは春麗だった。
驚きで思わず、側の木箱の肩をぶつけてしまった。
木箱はガタンと、騒がしい音を立てる。
彼女の持つ蝋燭の明かりが、頼りなさげにゆらゆらと揺れた。
「目が覚めたか?」
春麗の冷たい眼差しに見つめられ、息を呑んだ。
彼女の傷跡が、ろうそくの明かりに禍々しく浮かび上がる。
初対面の時とは違う、彼女の気配はまるで抜身の刃物のように鋭かった。
どうしてこんなことをと、気軽に尋ねられるような雰囲気ではない。
「お前は、皇帝が差し向けた密偵か?」
春麗の言葉は平坦で、全く感情が含まれていなかった。
だから首を振ることもできず、私は呆然と彼女を見上げた。
「あの女官たちは、いつもあの場所で噂話をしている。すると、皇帝の放った密偵が面白いように寄ってくる。それを見つけて仕留めるのが、私の役目だ」
思いもよらない事実に、私は息をするのも忘れた。
か弱く虫も殺さないような彼女に、そんな任務があったなんて思いもしなかった。
皇太后に刃向う者には、死あるのみ。
そんな言葉が脳裏を過る。
私は絶望的な気持ちになった。
(やっぱり無理だったんだ。私に密偵なんて……)
これからどうなるだろうかと、未来を創造すると震えが止まらなくなった。
拷問をされるのか、はたまたすぐにでも殺されるのか。
日本にいた頃は遠かった死という感覚が、今は触れられそうなほど近くにあった。
知らず呼吸が荒くなる。
その恐怖から逃れたくて、今すぐにでも気を失ってしまいたいと思った。
そうすれば、誰に依頼されたかも喋らずに済む。
(せめて黒曜の存在は、知られちゃいけないっ)
春麗の指が、静かに伸びてくる。
目をぎゅっと握って、私は必死にあの晩の温もりを思い出そうとした。
黒曜を裏切りたくない。
知らずに出てきた涙が、目尻からこめかみに滑っていく。
歯のがたがたという震えを、猿轡が阻んでいる。
息苦しさを感じながら、生唾をごくりと呑んだ。
(お父さんお母さん……ごめんなさい。私、日本に帰れそうにないや……)
私は死を覚悟した。
しかしいくらまっても、痛みはやってこない。
どれくらい経ったのだろうか。
訝しく思い目を開けると、春麗の白い顔が目の前にあった。
驚く私の顔をじっと見つめ、驚くことに白い手が私の猿轡を外した。
「どうして……?」
荒く息を吐きながら、彼女に尋ねる。
相変らず春麗の顔には、表情のようなものは何一つ浮かんでいなかった。
しかしそれから彼女の放った言葉は、驚くべきものだった。
「皇帝に知らせろ。皇太后は内侍監の雨露に命じて、雑技団の中に凶手を潜ませている」
そうささやきながら、彼女は素早く私の手足を縛っていた縄を解いた。
「早く! 臘日は今夜だ。もうすぐ夜が明ける」
何が何かも分からないまま、急かされて立ち上がった。
固定されていた節々が痛んだが、動けないことはなさそうだ。
私は春麗の顔を見つめた。
こんなことをすれば、彼女だって無事では済まないだろう。
助かったのは確かだが、その意図が分からない。
じっと見つめていると、春麗はようやく小さな溜息を洩らした。
そしてその唇が、不器用な笑みを形作る。
「無事に帰ってきて、私の顔に化粧をしてくれ」
優しい声で、春麗はそう囁いた。
私は返事に迷った。
ありがとうなのか、ごめんねなのか。
口からは言葉にならない熱い息が零れた。
泣いている暇はないと分かっているのに、目頭が熱を持って仕方ないのだ。
「早く、行け」
春麗の声に促され、震える足を踏み出す。
振り返ると、春麗の顔にもう笑みはなかった。
私は彼女に頭を下げ、物置を出て行く。
明け方の空気は冷たくて、まるで無数の薄い刃物に切りつけられてるみたいだった。
東の空が、じりじりとピンク色に染まっていく。
何度も転びそうになりながら、私は明け方の後宮を駆け抜けた。




