32 霙
本日二度目の更新
ガシャンと陶磁器の割れる重い音がした。
慌てて春麗が房に飛び込むと、皇太后は肩を怒らせ、侍女の一人が破片の飛び散った床に額づいていた。
「ああ春麗、戻ったの……」
皇太后は疲れたようによろめいて椅子に腰かけた。籐細工の華奢な椅子が、ぎしりと悲鳴を上げる。
「聖母神皇様! どうかお許しくださいっ」
磁器の欠片を恐れもせず、侍女は震えながら叩頭する。
春麗はいつもの冷たい顔をして、皇太后の傍らに立った。
「この者が、何か無作法でも?」
「聞いてちょうだい春麗。これのせいで、妾の髪がほつれてしまったわ。美しく結った妾の髪が」
皇太后がさも悲しげに言うので、春麗はその華やかに結い上げられた頭部へと一瞥を向けた。
見ただけでは分からないが、恐らくどこかの飾りに侍女が引っかかってしまったのだろう。
「北門から放りや」
「そんな! 聖母神皇様、どうかご慈悲を!」
懇願に涙が混じる。
皇太后の暮らす宮に勤める者にとって、北門行きは直接死を意味する隠語だ。
今まで何人の罪なき女や宦官たちが、北門送りになったことだろう。
「聖母神皇様」
「なんだ春麗。命乞いか?」
「いえ。しかし増員のご予定については、先に伺っておかねばなりません。聖母神皇様の身近に寄れるのは、選ばれた身分の者のみ。そう使い捨てにされては、補充が追いつきませんゆえ」
春麗は出来るだけ感情を込めずに、平坦な言葉で言った。
己も北門送りになるか、或いは侍女と共に助かるのか。
きりきりと糸の張りつめる様な沈黙が続く。
「……気が削がれた。雨露を呼べ」
春麗は拱手して礼を述べると、床に頭を擦りつける侍女を助け起こし、医官の元へ行くように言いつけた。
侍女の頬には、磁器の欠片で切ったのか薄い傷が浮かんでいる。
「傷が残るといけないわ。早く手当てを受けなさい」
房を出てそっと囁けば、侍女は逃げるように去って行った。
外はしとしとと冷たい雨が降っている。
春麗は溜息をついて、部屋中に散らばった磁器の欠片を拾い集めた。
「聖母神皇様。お呼びですか?」
やってきたのは、小柄でしわくしゃな一人の老人だ。
宦官の中で最も位の高い内侍監である雨露は、皇太后が権力を振るう上で欠くことの出来ない存在だった。
春麗は瞬く間に磁器を片付け、老齢の雨露に椅子を勧め茶を淹れる。
皇太后の宮はいつでも人手不足なので、一人で三人分の仕事をしなければ追いつかない。
「例の件は、どうなっているかしら?」
「万事恙なく。聖母神皇様は心配性ですなあ」
雨露は好々爺めいた呵呵という笑い声をあげた。
しかし見た目とは大違いの俗物であることを、春麗は良く知っている。
「そうは言っても、あのしぶとい青児のことですもの」
青児というのは、現皇帝の幼名だ。
皇太后はいつまでたっても、義理の息子を皇帝として認めようとはしない。
どころか、今まで公然と垂簾聴政を敷いてきた彼女にとって、若く気力に満ちた皇帝は邪魔者以外の何者でもなかった。
「今度こそ、聖母神皇様の目の前で我らの悲願を果たしてご覧に入れましょう」
「期待しているわよ、雨露」
「ご心配なく。臘日に呼びました雑技団に、凶手を忍ばせてございます。後は聖母神皇様の御名において後宮に皇帝をご招待頂ければ、北衙の連中も助けには来れますまい」
臘日とは臘月八日の成道日に催される祝宴で、釈迦が悟りを開いた祝いの日である。
また北衙は榮建国時から続く皇帝禁軍の名残で、宮城の北に駐屯していたことからこう呼ばれた。
春麗は侍女としての教えの通り、何も聞かず何も言わずただ命令を待っていた。
今日はひどく冷える。
聖母神皇様のために湯婆を用意しなければ。
そう思って外を見れば、雨はいつの間にか雪交じりの霙へと変わっていた。
頬の傷が疼く。
春麗は呆然とした鈴音の顔を思い出し、そっと己の頬に指を這わせた。




