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31 屋烏之愛

 後宮から戻った黒曜―――黄龍宝はひどく慌てていた。

 白皙の額に汗を浮かべ、早鐘のように打つ心臓を持て余している。


「陛下! どうかなさいましたか!?」


 皇帝の仮の寝所を任された衛兵が駆け寄ってくる。

 

「いや、大事ない」


 龍宝はそれを押し止め、深いため息をついた。

 本来、皇帝の寝所は後宮にあってしかるべきである。

 しかし幼少の頃より後宮を忌み嫌っている龍宝は、しきたりを無視して外朝の執務室近くに臨時の寝所を設えさせていた。

 臨時とはいえ、屋根つきのそれ自体が部屋であるような立派な寝台だ。

 透かし彫りの天井から、たっぷりとした絹の(とばり)がおりている。

 主の着替えを手伝おうと、若い侍従が寄ってきた。

 いつ何時でも皇太后の暗殺を恐れる皇帝は、身の回りの世話をする侍従すら最低限の数に抑えている。

 宦官ではなく禁軍から無理に登用したその侍従は、嘆息する龍宝から次々と高価な衣を剥ぎ取っていった。


「……深潭は?」


「既に宮城を出ております。お呼び戻しになりますか?」


「いや……」


 龍宝はほんの少しだけ首を振り、その必要はないと伝えた。

 白い寝間着に着替えを済ませると、侍従は壁際に寄り気配を消す。

 これから彼には、そこで一晩皇帝の眠りを見守るという役目が待っていた。

 本来皇帝の寝所に侍るのは女官か或いは宦官の役目だが、今上の後宮嫌いは有名だ。

 皇帝の家であるはずの後宮は、先帝の妃である皇太后に牛耳られて久しい。

 もし皇帝が後宮に一歩でも足を踏み入れようものなら、凶手が群がるか皇太后の息掛かった嬪妃が差し向けられるかのどちらかだ。

 今の後宮は皇帝にとって、安らぎを得る場所ではなかった。

 今日(こんにち)、その場所にわざわざ宦官に成りすましてまで足を踏み入れたのは、ひとえに鈴音の身が心配だったからだ。


(自ら差し向けた密偵を、心配するなんてどうかしている)


 そう思いつつも、龍宝の思考は気づけば短髪の少女のもとに向いていた。

 酷いことをしてしまったと、彼女は泣いていた。

 普段は溌剌として存在感のある少女だが、後ろから抱きしめればなんてことはない、今にも折れそうな儚げな背中だった。

 おそらく黒曜の片腕で、その首など簡単にへし折れてしまうのだろう。

 大人になってより女性との距離を保ってきた皇帝にとって、そのか弱さは脅威だった。


(なぜ、少年だなどと信じていられたのだろうか?)


 夢うつつ、龍宝は彼女のことを思い出している。

 出会った時は、確かに少年に見えた。

 その少年に後宮への潜入という危険な任務を課したのは、他ならぬ自分だ。

 なのに今では、すぐに後宮から連れ去りたいと思ってしまう。

 悪の巣窟のようなあの場所から連れ出して、傷ついて泣くことがないようにいつも傍で護ってやれたらと、そんな埒もないことを考えてしまう。


(危険な考えだ……それは)


 幼い頃より国の歴史、特に皇帝の生涯についてよく学んできた龍宝にとって、それは危険な衝動だった。

 榮国ができる以前。天地開闢より今に至るまで、女で身持ちを崩した指導者は数知れない。

 名君と呼ばれた者でも一度色に溺れれば、執務を疎かにし昏君(こんくん)として後世に名を残すことになる。

 それは彼の父である先帝も、同じだった。

 生前は善政を敷いたにも関わらず、老いて若い皇后を迎えた後は、その専横を許したとして昏帝という不名誉な(おくりな)を得ている。


(俺は―――恐れているのか。あんなか弱い少女を)


 彼女を突き放すように後宮を出た自分は、確かにあの瞬間恐れていた。

 自分が何かに固執してしまうのを。

 そしていつか―――その大事なものを失うことを。

 龍宝の大切なもので、手元に残っているのは深潭ぐらいだ。

 他は全て、皇太后によって奪われた。

 母は身罷り、父は道を失い、本来は龍宝のものであるはずの政すら、今は皇太后の手にしっかりと握られている。


(誓ったはずだ。父の汚名を雪ぎ、あの女を奈落の底に突き落とすのだと)


 権力を恣にする義母を、龍宝はそのままのさばらせておくつもりはなかった。


(そのためには、こんな感情は邪魔だ)


 今日を持って、密偵に心を傾けるのは止めようと、龍宝は心に決めた。

 これ以上彼女を想えば、深みにはまる。

 永く復権を願ってきた彼にとって、その感情は邪魔でしかなかった。

 遠く屋烏(おくう)が鳴いている。

 その鳴き声まで愛おしくなる前に、忘れてしまえと龍宝は耳を塞いだ。




屋烏之愛……人を愛すると、その家の屋根にとまったカラスにまで愛がおよぶようになるということ

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