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30 優しくしないで

本日二度目の更新



「どうした」


 冷たい廊下で項垂れる私を、助け起こしたのは黒曜だった。


「黒曜……」


(私には、優しくされる資格なんてないのに……)


 私は反射的に彼の手を払い、自分の力で立ち上がった。

 春麗を傷つけた私が、誰かに優しくされるなど許されるはずがない。


「なか、入る。早く」


 今の黒曜は宦官に化けているとはいえ、人に姿を見られるのはまずい。

 そう言って尚紅に入ろうとすると、突然後ろから抱え上げられた。


「黙っていろ。この方が早い」


 驚きの悲鳴を、私は喉の奥に押し込んだ。

 そのままずかずかと、黒曜は尚紅の中に入る。

 柔らかい敷物を敷いた床の上に、そっと壊れ物のように下ろされた。


(いっそ放り投げてくれればよかったのに)


 自己嫌悪に打ちのめされた私は、そんな八つ当たりめいたことを考えていた。


「何があった? 女官から酷い仕打ちでも受けたか?」


 私を覗き込む黒曜は、凛々しい眉を顰め労わるような目をしている。

 その視線が苦しくて、思わず口から言うつもりのなかった言葉が零れだした。


「資格、ない」


「資格?」


「優しくされる資格、ない。女の人、傷つけてしまった。私余計なことした」


 まるで飲んだ毒を吐き出すように、私は貧しい語彙で先ほどの出来事を説明した。

 皇太后に召されたこと。

 そこの女官の顔に傷があったこと。

 良かれと思ってそれを隠す化粧をし、そして拒絶されたこと。

 語り終えると、胸のつかえが少しだけ軽くなるのを感じた。

 黒曜は間に口を挟まず、じっと黙って話を聞いてくれた。


「私ひどい。ひどいことした。だから優しくされる、資格ない」


 言いながら、これでは同情してくださいと言っているようなものだと思った。

 黒曜の優しさを完全には拒否できない自分の弱さが嫌で、自己嫌悪は更に重みを増す。


「帰って。大丈夫。明日から、また頑張る」


 そう言って、私は黒曜に背を向けた。

 味方がいれば、甘えたくなってしまうのが人の(さが)だ。

 しかし今は、とりあえずなんでもいいから自分を罰したかった。

 屈みこんだ拍子に鬘が落ちる。

 晒された首筋が、寒さで粟立った。

 黒曜が立ち上がったのか、布ずれの音がする。

 彼を見送らなければと思ったが、その顔に失望を見るのが恐くて床に縮こまっていた。

 足音が続かないので不思議に思っていると、突然背中に重みを感じる。

 その重さは温かくて、心地のいいものだった。


「一人で抱え込むな。お前の悩みは私の悩み。お前の悲しみは私の悲しみだ」


 耳元でささやく声がする。

 甘い低音に頭の奥がとろけそうになった。

 お腹に腕が回され、後ろから抱きしめられる。

 先程とは違う意味で、黒曜の顔を見ることができなかった。


「どうして……優しくする、くれる?」


 黒曜は、会うたびに印象の違う不思議な人だ。

 初めて会った時は、恐い人かと思った。

 でも本をくれた時は、優しい人なのだと思っていた。

 それから色々あったが、私の中の黒曜は優しいのか厳しいのか未だに定まらないでいる。


「後宮に入るよう、頼んだのは私だ。ならば、お前が後宮で成したことの責任は、全て私にある。当然だろう」


「当然、違う。私勝手して、勝手傷ついてる。春麗の方が、きっと痛い……」


 別れ際の彼女の泣き顔を、思い出すと胸が痛んだ。

 優しくされる資格などないと言いながら、黒曜の体温にどうしようもなく慰められる自分がいた。

 床の敷物に、ぼたぼたと染みができる。


「泣くな」


「泣いてない」


「泣いているだろう?」


 黒曜の長い指が、私の頬から涙を攫っていった。

 打ちひしがれている時、人の体温は余りにも心地よく心の襞まで沁みてしまう。

 今すぐに振り払わなければいけないのに、私は身動き一つ出来なかった。


「そこまで強くなる必要はない。私はお前に無茶な頼みをした。それをやると言ってくれただけで十分だ」


「それとこれとは―――」


 黒曜は私の唇を撫でることで、反論を封じた。


「私の本当の味方など、深潭ぐらいのものだ。あれは私の乳兄弟であるから、いつまでも私を弟のように思っている。私は口の堅い密偵を必要としていた。皇太后に差し向けるためだ。皇太后に送り込んだ幾人かは、既に連絡を絶っていた。だから後宮に送り込んでも不自然にならない、皇太后が自らつながりを持ちたがるような特技の持ち主が必要だった。しかしそれを捜し歩こうにも、皇太后の手の者によって私は絶えず監視されている。そんな時だ。花酔楼に、異国の化粧師がいるという噂を聞いたのは」


 雨音に交じる黒曜の言葉に、私は黙って耳を傾けていた。


「場所が妓楼であるのも都合がよかった。通っても不審には思われん。そして私はそこで、奇妙な少年に出会った。妓楼から漏れる明かりで文字を学ぼうという、奇特な少年だ」


(私のことだ)


「彼に文字を教える時間は、私にとっても楽しいものだった。そんなふうに気軽に、人と話したことなどなかったのだ。少年は素直だった。初めは明らかに私を恐れていたのに、話す内に徐々にその表情が柔らかくなった。私は、これが『友人』というものだろうかと思った。それまで私には、ただ一人の友人もいなかったのだ」


 顔が赤くなるのを、止められなかった。


(そんな風に、思ってくれていたなんて……)


 彼は貴族だ。

 気軽に友人など作れるような立場ではなかっただろう。

 花酔楼の庭というあの特殊な空間でなければ、私達はきっとそんなふうに言葉を交わすことなどなかったはずだ。


「だから―――その少年が異国の化粧師であると知った時、やっと見つかったという喜び以上に、辛かった。その者に危険な任務を命じなければいけない自分の立場が。本当は何もかも忘れて、彼とはただの親しい友人でありたいと……」


 黒曜はそこで言葉を途切れさせた。

 どうしたのだろうかと思っていると、素早く背中にあった体温が離れていく。


「邪魔をした」


 驚いて慌てて振り向くと、もう黒曜は尚紅から出て行くところだった。

 私は驚いて何も言えないまま、彼の背中を見送った。



 


 

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