29 自分の浅はかさ
今日はとりあえずの顔見せだったらしく、準備をしておけと尚紅に帰された。
ああ言ったはいいが何も対策など考えていなかった私は、部屋を出た途端両手が激しく震えだしてしまった。
押さえても、止まらない。
それどころか震えは全身にまで広がり、私は道半ばでへたり込んでしまった。
帰りの道案内は、迎えに来たのと同じ顔に瑕のある女だ。
彼女は歩けなくなった私を見ても、相変わらず眉ひとつ動かさなかった。
しかし共に膝をつき、私の手を握ってくれた。
「ご立派でした」
そう囁かれて、耳を疑う。
(そんなふうに、見てくれていたなんて)
彼女は私の震える手を撫でさすった。白く美しい手だった。
労働を知らない手。皇太后に直接仕えているぐらいだ。さぞ名のある家柄の女性なのだろう。
しかしその頬にある傷が、すべてを裏切って禍々しい印象を与えている。
私は手を借りてどうにか立ち上がり、再び尚紅へと歩き出した。
彼女の背中はさきほどの出来事など嘘のように、私の言葉を拒絶している。
それでも勇気を出して、私は彼女に言った。
「もしよろしい、あれば、尚紅寄ってくださいますか?」
「わたしが、ですか? なぜでしょう?」
「聖母神皇様の化粧について、知りたいです」
彼女はしばらく黙り込んでいたが、了承してくれたのでほっと息をつくことが出来た。
やることが決まってからは、不思議ともう手は震えてこなかった。
***
皇太后の侍女は名を春麗といった。
彼女は私がマッサージ用の寝台に案内すると、驚いた顔をした。
「なぜ、私なのでしょう? 聖母神皇様の化粧について、お知りになりたかったのではないのですか?」
「まずは私するを、試すしてから意見ください。私することにおかしいあったら、教えてほしいです」
そう懇願すれば、春麗はしぶしぶ私の提案を受け入れた。
彼女が寝台に横になったのを確かめてから、私はいつもの要領で洗顔を始める。
傷のある頬に触れた時、彼女はぴくりと体を強張らせた。しかし口は閉じたままだったので、私も特に何かを言ったりはしなかった。
その傷は随分古い物なのか、しっかりと固まっている。
変色はそれほどでもないが凹凸があるので、白粉では隠せないのだろう。
ひまし油で洗顔した肌に化粧水を叩き込む頃には、春麗の肩からは少し力が抜けていた。
その間に、用意しておいた薄い絹をその傷の上に張り付ける。
そして白い肌に合わせて慎重に色を選び、何度もファンデーションを重ねた。
瑕や痣を隠す化粧のことを、メディカルメイクという。
私は専門でこそないが、専門学校でメディカルメイクの講義は受けていた。
(こんなこと、春麗には余計なのかもしれないけど……)
そう思いつつ、仕上げに砕いた雲母を叩き込んだ。
傷は完全に消えたりはしなかったが、言われなければ気付かないぐらいには目立たなくなる。
化粧というのは女性を美しくするだけではなく、こうして気になる部分をカバーして自分に自信を持つための手段だ。
仕上がりを見た春麗は、しばらく黙り込んでいた。
やはりよけいなことをしてしまっただろうかと、私ははらはらしながらその様子を見守る。
「……聖母神皇様は、噂に聞く薄化粧を望んでおいでです」
そう言い放つと、春麗は急いで立ち上がり、足早に歩き始めた。
私は慌ててそれを追う。
「待って! 悪い、した! 謝る!」
必死で追いすがったが、彼女は足を速めるだけだった。
やはり私のした化粧が気に入らなかったのか、或いはプライドを傷つけてしまったのか。
(やっぱり、余計なことだったんだ。どうしよう!?)
泣きたくなりながら、春麗を追った。
尚紅を出て少ししたところで、彼女は急に立ち止まる。
外には既に薄闇が降りていて、彼女のぼんやりとしたシルエットが白く浮かび上がっていた。
振り返った彼女の頬は、涙で濡れていた。
「お礼は言いません」
春麗は毅然として、言った。
感情の読めない平坦な声だった。
「でも、あなたの化粧の技術は素晴らしいということは分かりました。きっと聖母神皇様も、お喜びになるでしょう」
それだけ言うと、彼女は行ってしまった。立ち竦む私を置きざりにして。
重い疲れと罪悪感が、肩にのしかかってくる。
良かれと思ってしたことでも、相手を傷つけてしまえばそれはある種の暴力だ。
自分の考えのなさが身に染みて、自己嫌悪で今にも潰れそうだった。
いつの間にか、外は雨が降り出している。
おそらく暗雲が立ち込めた空はひたすらに暗く、細い雨が冷たく地面を打った。




