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28 権勢の行方

本日二度目の更新

「お前か? 異国の化粧師とやらは」


 その声は、想像していたよりも低かった。

 私はめでたい吉祥の文様が織り込まれた絨毯に這いつくばり、額を床に付けていた。

 声の主は皇太后。

 この国で最も権力があると噂されるその人だ。

 まだ顔を見てすらいないのに、その声からは余裕や迫力といったものが感じられた。

 知らず、私の体は震えている。


(もし、黒曜との約束が知られていたら?)


 そんなはずはないのに、私は最悪の展開を想像して青くなった。

 それが悟られないよう、息を潜めて返事をする。


「はい」


「ふふ、畏まらずともよい。面を上げよ」


 命じられ、ゆっくりと顔を上げた。

 贅沢な金糸の刺繍が施された襦裙に、派手な橙の褙子(はいし)はまるで金そのものをを纏っているかのようだ。

 しかし何よりも驚かされたのは、皇太后の若々しさだった。

 彼女は四十過ぎだと聞いていたのに、まるで二十歳前後のように若く美しい。

 高価な臙脂の紅に彩られた唇は、艶っぽくもなぜか禍々しかった。

 その微笑みは美しいのに、なぜか震えが止まらないのだ。

 それが悟られないように、私は必死で顔に笑みを浮かべた。


「この度は、どのようなお召し、ですか?」


「ふむ。お前が変わった化粧をすると聞いてな。(わらわ)も試してみたくなった」


「私の化粧、その人が気にしているところ、気にならなくするようにするためのもの。聖母神皇様十分お美しい。ご自分の気に入らないところ、あるですか?」


「美しいからこそ、それを保つには並々ならぬ努力が必要なのだ。慢心して気を抜けば、今にもこの顔は醜く病み衰える―――褒美は惜しまん。妾をもっと、もっと美しくしておくれ」


 そこまで聞いて、私はある違和感を覚えた。

 皇太后には、確か尚紅で一番の腕を持つ化粧師が側にいるはずだ。

 なぜならその引き抜きが切っ掛けで、今の尚紅が廃止寸前になってしまったのだから。

 皇太后の気を引いてしまわないように、私は慎重に言葉を選んだ。


「私の前任者、会わせてくれる、ますか? 聖母神皇様の肌のこと、詳しく聞く。それによってやり方、変わるます」


 言った瞬間、部屋の中の空気が緊張した。

 まるで、見えない刃を突き付けられたかのようだ。

 皇太后は眉を顰め、不機嫌そうに扇子を振った。


あれ(・・)か? はて、どうしたかな? 雨露(うろ)


 そう言って皇太后が尋ねたのは、背中の曲がった小柄な老人だった。

 特徴のある服装から、一目で彼が宦官だと知れる。

 彼は皺に埋もれるように笑い、そして言った。


「はい。前任の化粧師でしたら、北門から既に旅立った後でございます。泰山府君にでも願い出ませんと、面会は叶わんでしょうなあ」


 ぎくりとして、息を呑んだ。

 泰山府君というのは、人の生死を司る神様の名前だ。

 考えたくはなかったが、引き抜かれた尚紅の女官は恐らく、もうこの世にはいないのだろう。

 病気の類ならいいが、とてもそうとは思えなかった。

 おそらく前任者は、皇太后の不興を買ったのだ。


「鈴音と言ったか。お前も、心して聖母神皇様にお仕えするように。それが我が身のためだぞ」


「おやめ雨露。鈴音が硬くなっているじゃないか」


 二人はおかしそうに言い、そして他の皇太后に侍る女官たちは、皆一様に氷のような冷たい表情をしていた。


(恐い……この人たちおかしいよ! こんな人が国の行く末を握ってるなんて、おかしすぎる。絶対このままじゃだめ!)


 硬くなる体に活を入れ、私は黒曜との約束を守ろうと意気込んだ。

 思わず俯きそうになるのを堪え、皇太后の美しい顔をまっすぐに見つめる。


「ありがたき、幸せ。聖母神皇様を、今よりももっと、美しくしてご覧、入れる」


 強く言い切ると、部屋中の視線が私に集中した。

 しかし構わない。

 一番重要な皇太后の反応はと言えば、とても上機嫌に、高らかな笑い声をあげていた。



   ***



 麻の書類に筆を走らせながら、黒曜は考えに耽っていた。

 今頃、鈴音は無事にやっているだろうか。

 皇太后の不興を買ったりはしていないだろうか。

 近頃は、何をしていてもそんなことばかり考えてしまう。

 皇太后を探ってもらうために彼女を後宮に入れたというのに、できれば皇太后には近づいてほしくないとさえ思うのだ。

 文字を学ぶ奇特な少年として出会った鈴音は、初めただの少年に見えた。

 花酔楼で噂の化粧師について探っている時のことだ。目の端に写った人影を、初めは皇太后の放った凶手かと思い、見つけてから客の情事を覗く不埒な少年かと思い、そして最終的には文字を学びたいという彼の意志を知って驚かされた。

 榮国で学問を学ぶのは、ほんの一握りの上流階級だけだ。それがなぜかといえば、当然お金がかかるから。

 子供さえも働かなければ生きていけない世の中だ。

 勉強をする余裕など、恵まれた者にしかあたえられない。

 それは文字を書きつける紙も、過去の偉人の教えを記す文献の類も、家に招く教師にも言える。学問に必要な物は、すべてが高価なのだ。

 これでは、平民が科挙を受けることなどできるはずもない。

 広く人材を求めるという科挙の目的すら、その現実の前には霞んで見える。

 科挙を受験するのは貴族の子弟が殆どだ。稀に地方の郷士の子息が意気揚々とやってきたりもするが、大抵は肩を落として帰郷していく。

 だからこそ黒曜は、小鈴と呼ばれていた少年を応援したいと思った。

 彼に、国を変える可能性を見たから。

 彼に詩文を教える時間は、黒曜にとっても数少ない心安らげる時間だった。

 事情が変わってしまったのは、小鈴こそが評判の化粧師だと知ったからだ。

 皇太后のもとに潜入させる人材を求めて、黒曜は化粧が上手いと評判のその人物を探していた。

 その化粧師がすぐ近くにいたのは驚きだったが、なによりも小鈴が女性だという事実に驚かされた。

 そして彼女が行う、未知の化粧法にも。

 今、城下では宰相の妻黒花琳にあやかって、薄化粧が夫婦円満の秘訣だともてはやされている。

 その浸透速度は凄まじく、白粉が全く売れなくなったと白粉を下ろしていた問屋は頭を抱えているらしい。

 鈴音から聞いて鉛白が毒だと知った黒曜は、この流行に乗って鉛白の使用を禁止しようかと考えていた。

 たった今御璽を押した書類も、そのための物だ。

 それは黒曜が初めて出す勅旨だった。

 鈴音と出会って、色々なことが変わっていく。

 黒曜は玉璽を専用の官吏に預け、席を立った。


「皇帝陛下、どちらへ?」


 宰相である黒深潭は、相変わらず顰めつらしい顔をしている。


「構うな」


 黒曜―――榮国十五代皇帝黄龍宝は、黄色の袞服(こんふく)を翻した。

 そこに描かれているのは、五本の爪がある九匹の龍。

 それこそが、彼がこの国で最も尊い立場にいるという証だ。

 その背中を見ながら、深潭は溜息をついた。

 ―――入れ込み過ぎているのでは。

 そう思っても、とても諫言などできそうになかった。

 

 




 

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