27 お迎えがきました
その日から尚紅には様々な悩みを持つ妃妾がやってくるようになり、私はその対応に追われていた。
さすが女社会の中のこと。噂が回るのが早い。
勿論後宮に入った任務を忘れたわけではなかったが、黒曜が言う通り皇太后は自分のお気に入り以外は決して近くに寄せないので、やりようがなかった。
今のところ、出会った妃達に噂話を聞くので精一杯だ。
そして彼女達は一様に、「聖母神皇様に逆らってはいけない」と口を揃える。
それを聞くたび、どんなに恐ろしい人なのだろうかと悪い想像が膨らんだ。
恐ろしかったが、黒曜を裏切るわけにはいかない。
彼は本気でこの国のことを案じているのだから。
自分の中に湧き上がる恐怖心を押さえつつ、目の前の仕事に打ち込む。
しばらくは、そんな日々が続いた。
尚紅を訪れる人の数は日に日に増え、後宮に働く女官は勿論のこと、位の低いお妃様は自ら直接。位の高いお妃様だと侍女が私を呼びにやってくる。
順番が前後してしまわないよう、私は尚紅の入り口に名前を書く紙を用意した。
飲食店の入り口によくあるアレだ。
しかしそうすると、当然のように問題も出てくる。
「我が主は、九嬪が一人昭容である。即刻駆けつけよ」
「そういうわけ、いかないです。順番。こちらにご記名お願いします」
「我が主を愚弄するのか!?」
(いやいや、してないから)
こんな風に、順番を守らないお妃様(か、またはその侍女)が現れたのだ。
後宮は完全なる上下社会。仕方のないこととはいえ、毎回それらを説得するのは骨が折れた。
そうこうしている内に、順番待ちをしていた位の低い宮官などは、お叱りを恐れて帰ってしまったりするのだ。
私にとっては、誰もが平等にお客様である。だからできれば来ていただいた順番を優先したい。
それに一人の我儘を許してしまうと、後からどんどん同じような例外を増やさなければいけなくなる。
「昭容様、大変お美しく寛容、聞いた。ならば緊急違うではないですか?」
「う……確かに昭容様はお美しく寛容よ。しかしそれとこれと別で―――」
侍女が何か言い募ろうとしている時、その後ろから別の女官が顔を出した。
額に花鈿を描いた、細面の美しい人だ。立ち居振る舞いが優雅で、身に着けている物もお妃様の一人かと見間違うほどの贅沢さだった。
しかし、それらを全て裏切っているのは、彼女の頬に深く刻まれた縦筋の傷跡だった。
そのあまりの禍々しさに、驚きで一瞬息が止まった。
「あなたが新たな尚紅の女官か?」
「そ、そうでアルが……」
「ちょっと! 昭容様のお召しが先よ!」
女官の顔を見ていなかった侍女が叫ぶ。
順番待ちをしていた他のお妃様達は、まるで蜘蛛の子を散らすように部屋から逃げて行ってしまった。
「悪いが、遠慮してもらう。聖母神皇様のお召しだ」
女官が無表情に言い放つと、昭容様の侍女は一目で分かるほどに青くなった。
「お、お許しください。そのようなつもりでは!」
彼女はまるで泣いて縋るように、床に額ずく。
女官はそれを冷たく一瞥した後、その凍てついた視線を私に向けた。
「着いてこい」
そう言い捨てると、颯爽と身をひるがえし部屋を出て行ってしまう。
どうするべきか一瞬迷ったが、とにかく私は尚紅を後にした。
***
皇太后の宮に向かう回廊を、女官は余りにも静かに歩く。
(足、ついてるよね?)
私は何度も、裾を引きずる彼女の足元を凝視した。
彼女の気配があまりにも希薄なので、つい幽霊ではないのかと疑ってしまうのだ。
「名は、なんという?」
ひんやりとした声に尋ねられ、なぜかどきりとしてしまった。
「鈴音と、いいます。異国よりきました」
名前の音が珍しいらしく、最近では自己紹介にこう付け加えるようにしていた。
「なるほど。ではあなたが施すのは、異国の化粧法か?」
「そう、です」
「榮人の肌に合わなかったり、体に害を及ぼすような療法はないのか?」
「ござません! 全て我が肌にて、試したもの。私、する。飾るではない。気になるところ、気にならなくする化粧」
疑われているのかと、慌てて否定した。
焦って、言葉がカタコトになってしまう。
すると不意に、女官が足を止めた。
何か、気が咎めるようなことを言ってしまったのだろうか。
戸惑っていると、彼女は小さく呟いた。
「気になるところを、気にならなくする……か」
私の言葉をなぞり、しばらく沈黙する。
ふっと一陣の風が吹き、彼女の柔らかな袖を攫った。
次の瞬間、何事もなかったように彼女は再び歩き出していた。




