21 理想と現実
本日二度目の更新
ふっと冷たい風が吹く。
季節は夏から秋へ、確実に移ろっていた。
「なぜ、身請け、した?」
尋ねると、黒曜は私を池の側にある四阿へと誘った。
長い話になるということなのか。
私は黙って、それに従った。
陶製の椅子は、ひんやりとして冷たい。
しばらくして、黒曜がおもむろに口を開いた。
「―――お前は、皇太后について知っているか?」
皇太后というのは、この国の現皇帝の義母にあたる女性だ。
かつて正妃だった皇帝の実母が身罷られた後、前皇帝が寵愛し正妃にした女性であるという。
花酔楼は官吏の多い妓楼だったから、彼女について耳にする機会はなにかと多かった。
ある者は酔って皇太后を悪しざまに罵り、またある者は彼女を褒め讃える詩を詠んでいた。
しかし、そのどちらもが口を揃えて言うこと。
それは、現皇帝が皇太后の傀儡にすぎないということだ。
女と酒に酔って言ったことだから、それは偽らざる本音なのだろう。
日本にもそういう歴史はあったし、あまりにも遠い世界の出来事なので、私はそれに関して今まで特に何かを思ったりはしなかったのだが。
「凄い、人。強い」
女一人でその権力を維持するというのは、並大抵ではないだろう。
なので私が言えるのは、それぐらいだった。
「強い―――か。確かにその通りだ」
黒曜は顔では薄く笑いながら、その言葉の根底に隠すことのできない嫌悪が滲んでいた。
「皇太后の専横は目に余る。三省六部の人事に口を出し、政を恣にしている。官吏は皇太后に媚びへつらう者ばかりが出世し、諫言をする者は疎まれ中央から遠ざけられている。このままではいずれ、この国は倒れる」
月光に照らされる美貌は、憂いの色を帯びていた。
今までどこか粗野な印象を受けた黒曜だが、その彼が真剣に国の今後を憂いているのを、私は少し意外に思った。
「黒曜、国、心配?」
その思いは、気付けば口から出ていた。
妓楼に姿を見せる官吏の多くは、国がどうとか、そこに生きる市民がどうのなんて語らなかった。
ただ、自分がどれだけ得をするとか、損をするとか、儲けが出るとか出ないとか。
言うことはまるで商人だと、私は常々思っていたのだ。
だから花酔楼に通ってきていた黒曜が、そんなことを口にするなんてという思いがあった。
黒曜は驚いた顔をして、私を見ていた。
四阿に沈黙が落ちる。
(あ、失言だったかな……)
面識があるので気安く言い過ぎてしまった。訂正しようにも、なんと言えばいいのか。
そうしてあたふたしている内に、先に黒曜が口を開いた。
「そうだな……心配だ。俺はこの国を、もっといい国にしたい。もっと交易を充実させ、制度を整え、そこに生きる民が飢えない国にしたい。身分など関係なく、能力のある者が動かす国にしたいのだ」
怒ったのかと思ったのに、黒曜の顔にははっきりと笑みが浮かんでいた。
感情が読めない人だ。
そう思いつつ、彼が語る理想は素敵だなと思った。
たとえ今は理想論でも、理想は持たなければ叶うことだってない。
「その国、いいね」
心のままに感想を言えば、黒曜は突如私の頭を掴み、わっしわっしと撫でてきた。
余暉とは違う、乱暴な撫で方だ。
(頼むから、力加減をして!)
頭がくらくらしつつ、私はちょっと楽しくなった。
本当なら、黒曜はきっと言葉を交わすなんて出来ないくらい身分の違う人だ。
なのに今は偉ぶるでもなく、私と対等に話をしてくれている。
「―――初めて会った時、お前は部屋から零れた明かりで本を読んでただろ?」
突然初対面の時のことを言われ、思わずこくりと頷く。
「それを見て、思った。志さえあれば、誰でも学ぶことはできる。貴族だけではなく、商人や農民の中からも、優秀な者はきっと生まれてくる、と」
(そんな立派なものじゃないのに……)
申し訳なくて、黒曜の顔をまっすぐは見れなくなった。
私が本を読もうとしていたのは、別に偉くなりたいとか、国を変えたいとか、そんな立派な理由があったわけじゃない。
ただ、この国のことをと知るのに必死だっただけだ。知識を得て自分の身を守りたかっただけだ。
彼の理想に比べて、なんて卑小な理由だろう。
思わず俯いてしまうが、黒曜は構わず続けた。
「だから、お前に託そうと思った」
(何を?)
はっとして、黒曜の顔を見つめる。
そうだ。今はただの雑談をしていたのではなく、私を身請けした理由について尋ねていたのだ。
ならば今までの話に、私のお嬢様教育が何か関わってるのだろうか?
「頼む。国のために、後宮に入って皇太后を探ってはくれないか?」
黒曜はそう言って、卓子に手をついて深々と頭を下げた。
彼の言う言葉の意味が理解できず、私は唖然としてしまったのだが。