20 月夜の手紙
それは、月が綺麗な晩のことだった。
身体はスパルタ教育のおかげで疲れ切っていたが、目が冴えて庭に出てきてしまったのだ。
夏を少し過ぎた季節のこと。夜着だけでは少し肌寒かった。
どこかで鈴虫が鳴いている。
(この世界でも、月は同じなんだ……)
白く光る地球の衛星を見上げながら、日本のことを思い出した。
こちらにきてから、もう一年以上の歳月が流れている。
日本で暮らしていたあの日々が、まるで蜃気楼のように遠い。
本当はこちらが夢なのではなくて、私は日本というありもしない国の夢を見ていたんじゃないか。そう思うことすらあった。
(やっと、蘭花から解放されると思ったのに)
憎かった姉すら、今は懐かしい。
なにもかもが恋しかった。両親も、友人の杉田も、そしてこれからするはずだったメイクの仕事も。
手を伸ばしても、何一つ届かない。
ただ目の前に出される課題を、毎日こなすので精一杯だ。
「眠れないのか」
ガサリと庭木をかき分け、声を掛けてくる人物がいた。
咎められるかと一瞬覚悟したが、声を掛けてきたのは懐かしい人物だった。
「あんた……」
それは、あの花酔楼で芙蓉のもとを訪れていた青年官吏だった。
名前を呼ぼうとして、私は彼の名前すら知らないことに気が付く。
「はは、俺を『あんた』なんて呼ぶのはお前くらいだ」
男はおかしそうに笑った。
私は恥ずかしくて堪らなくなる。
確かに、貴族子弟がなることの多い官吏様を、あんたなんて呼ぶ人間はいないに違いない。
「だって、知らない……名前」
小声で反論すれば、それを聞き取ろうと男が近づいてきた。
その時ふと、男の腕になにか丸い物が抱えられていることに気付く。
目を凝らしてよく見れば、それは小さな蓋つきの壺だった。素焼きの、貴族様が持つにはあまりにも素っ気ない品だ。
「なに、それ?」
思わず尋ねると、男は私の視線に気づいて意地悪そうな笑みを見せた。
「ああ、これか。なんだと思う?」
(疑問で返すな! なんて、正直に言うわけにはいかないよね)
「わからない。痰壺?」
痰壺と言うのはぺっと痰を吐きだす壺のことを言う。
わざわざ持参するとも思えないが、大きさからするとちょうどそれくらいだ。
すると、男は呆れたような顔をした。
「なぜ俺がわざわざ痰壺を持ち歩かねばならない。これは、お前にだ」
そう言って壺を差し出される。
例の詩の本に続き、この男に何かを貰うのは二回目だ。
恐る恐る受け取ると、壺は何かで満たされているのか、ずっしりと重かった。
「なに、これ?」
「いいから開けてみろ」
しぶしぶ、言うとおりにする。
すると壺の中には、覚えのある匂いのする液体で満たされていた。
「これ……」
すぐにわかった。
これは、花酔楼で漬けていたヨモギ化粧水だ。
「どうして?」
男を見上げると、彼は答える代りにざらりとした紙を差し出してきた。
例の本とは比べ物にならないような、粗末な紙だ。
とりあえず壺を地面に置き、その紙を受け取る。
そこには、達筆な文字が書きつけられていた。
夜ではあっても、月の光で十分読むことができる。
「“小鈴、元気でやっているか?”―――これっ!」
そこにしたためられていたのは、花酔楼の妓女達からのメッセージだった。
芙蓉をはじめ、私が毎日マッサージをしていた女達だ。
花酔楼の妓女は一流なので、それぞれに読み書きができた。だから紙にはまるで寄せ書きのように、さまざまな筆跡のメッセージが綴られていた。
私がいなくなって化粧ののりが悪いとか、マッサージをする手が懐かしいとか、そんなことが書いてある。言葉が上手くないんだから下手なことは言うなとか、じっと相手を見るくせは相手を怒らせることもあるから、気を付けろとか。
言葉は悪いが、どれも私を心配してくれているのが手に取るように分かった。
一年共に暮らしてきたけど、自分なんてただ召使だとしか思われていないだろうと思っていた。
でも彼女達はまるで友人のように、実の姉のように、この身を心配してくれている。
「“人のことばかりじゃなくて、自分のことも考えな。あんたは他人のことばかり必死にやるから”……」
少し武骨なその文字にだけ、著名がない。
しかし折々によく目にしたその筆跡には、見覚えがあった。
「お養母さん……」
気づけば、涙が零れていた。
私のことを、勝手に売りつけたんだと思っていた。
しかしあとからよく考えてみれば、お養母さんだって貴族に命じられれば拒否できなかったはずだ。
売られる直前、外には出るなとあれほどしつこく言われていたのは、こうなることを危惧していたのだろう。
厳しい人だったが、彼女と余暉のおかげで私は野垂れ死にせずに済んだのだ。
そういえば、この紙には余暉からのメッセージがない。彼は花酔楼だけの専属ではないから、仕方ないのかもしれいなが。
「あと、これも」
男が手絹と一緒に、麻でできた袋を差し出してきた。
気恥ずかしく思いつつそれで涙を拭い、袋の中を覗きこむ。
するとそこには、少なくはない量のお金が入っていた。丸くて、真ん中が四角くくり貫かれた銅貨だ。その四角の一片ごとに、榮、黄、通、宝と文字が記されている。
榮は国の名前。そして黄は皇帝の一族の姓氏だ。
「どうして……?」
「お前を身請けする代金を支払おうとしたら、小鈴に借金はないから本人に渡せと突っ返された」
驚いて目を見開く。
あのお金に厳しかったお養母さんが、まさかこの少なくはないお金を私にと言うなんて。
(それよりも、まさか私を身請けしたのって、この人なの?)
どういうつもりなのか。
そういう気持ちが顔に出ていたのか、男は苦笑を漏らした。
「お前は口よりも、顔の方が雄弁だな」
そう揶揄され、恥ずかしくなる。
日本にいた頃は、無表情で可愛げがないとよく言われていたから。
「私の名前は黒曜。お前を身請けしたのは、この私だ」
ようやく全ての事情が分かるかも知れないという予感に、私はごくりと息を呑んだ。