02 幸せからの急転直下
そうして私は、無事に専門学校を卒業した。
俳優さん等にメイクを施すメイクアップアーティストになるため、プロダクションへの所属も決まった。
引き留める姉を振り切って実家を出て、ついに自由の身になる時が来た―――そう思っていたのに。
(ちょっと、これってどういうこと!?)
土の上に座り込んだまま、私は左右に伸びる高い壁を、呆気にとられて見上げた。
高い空を区切るその壁は、全て煉瓦で組まれた壁だ。そして道も、舗装の施されていない踏み固められた土の道。時折、牛に引かれた荷台や、馬に乗る人が通りすがる。
私は呆気にとられて口を開けているよりほかなかった。
(夢か? 夢なのか?)
必死になって、自分に残されている最後の記憶を手繰り寄せる。
ようやく手に入れた自由を祝い、私は杉田と一緒に下町の串揚げ屋で乾杯をしていた。
スタイリストの道を進んだ彼女と一緒に、いつか同じ映画のエンドロールに載っちゃったりなんかして! と盛り上がっていたのだ。
(確か串揚げ五本盛り合わせで一本残ったレバカツを取り合って、じゃんけんに負けて取られたんだ。それで、なんだよーって言いながら大ジョッキのハイボールを―――……)
必死に頭をひねるが、それ以降の記憶が出てこないのだった。
それほど量を飲んだとは思わないが、やはり姉から解放されたことが、よほど嬉しかったらしい。
だからはしゃいで飲み過ぎて、こんな変な夢を見ているのだ。
私はそう結論付け、自らの頬をビンタした。結構容赦なしに。
しかし、一回叩こうが二回叩こうが、夢が覚めるどころかビスケットが増えたりもしなかった。
(いったぁ……なんなのこの夢? 痛い上に醒めないとか、シャレにならない!)
路上に座り込んだまま自らを痛めつける私を、行き過ぎる人々が何事かという風に見ていた。
そう言えば、そんな人々の服装も見慣れないものだった。
彼らは様々な色のゆったりとした服を着ていて、なんと言ったらいいのか、しいて言えば教科書の聖徳太子が着ている服と似た服を纏っていた。
(どこかの国の、民族衣装?)
とりあえず頬を打つのをやめた私は、立ち上がり服の埃を叩いて払った。服は昨日着ていたパーカーとスキニーのままだ。傍らには、自分への就職祝いに買ったアタッシュケースみたいな大きなメイクボックス。中を検めてみると、そこには買った時のまま、きちんと化粧筆などの仕事道具が収まっていた。
(あれ、これって居酒屋に持って行ったっけ? なくしたら嫌だから、部屋に置いていったはずなんだけど……)
そんな疑問を感じつつ、私はとりあえず道の端に寄ることにした。
先ほどから時折、行き過ぎる荷馬車の運転手に邪魔だと言う視線を向けられていたので。
ちょうど壁の一角に門のような場所を見つけ、そこに駆け寄る。
閉じ込められてるわけではないのだが、高い壁に囲まれているとやはり圧迫感があった。そして早く壁の外に出て、周囲の状況を把握したかった。
門の中に入ると、そこには小さな町があった。
瓦屋根の古い作りの家が、壁の中に見渡す限り広がっている。
「へえ……」
まるで観光地にでもきたような気持ちで、私はその町に足を踏み入れた。
黒い瓦屋根と、そこに立つ赤い柱。そして屋根から垂れ下がる赤い提灯や結び飾りは、絵葉書で見た中国の古い街並みに似ていた。
高い建物はなく、視線はすぐに向こう側の高い壁へと行きつく。壁で四方を囲まれた小さな町。もしかしてさっきの道の反対側の壁の向こうにも、同じような景色が広がっているのかもしれない。
(でも、だとしたらこの街、本当はどれだけ広いの……?)
そんなことを考えつつ、私は細い道を進む。さっきの広い道とは違い、こちらは馬車などが通ると想定されていないのか、比較的狭い。
視界は少し、黄色く染まっていた。目がおかしくなったのかと思い、何度も目をこする。そしてその街並みを見ていて、気付くことがあった。
(あ、これって、もしかして黄砂?)
春先になると、テレビの天気予報で伝える単語が頭に浮かんできた。
中華風の街並みと、そして黄色い砂。目の前の夢は、どうやら中国が舞台らしい。
(私って、実は中国に旅行に行きたいとかそういう願望があったのかな? だからこんな夢を見てる、とか?)
大分落ち着いてきたので、そんなことを考えつつ首を傾げる。
街は静かだった。
そんな時、道の向こうから歩いてきたのは、数人の男性だった。その中に一人、長い髪を一つに結わえて肩に垂らた女の人がいる。
とても綺麗な人だったので、私は一瞬見惚れてしまった。
「――――――?」
すると、その集団の中の男性の一人が、突然私に話しかけてきた。
ところが、彼が何を言っているのか全く分からない。中国語のような気もするが、私にはもともと中国語の心得なんてない。
(なんで? なんで自分の夢の中のわけわかんない言葉喋る人が出てくるの!? もう、いい加減にしてよ……)
果てしない疲労感を感じながら、私は黙り込んだ。
私が知っている中国語なんて、ニーハオとか、オーアイニーぐらいだ.
ニーハオはまだいいとして、オーアイニーなんて出会い頭で言われたら相手もびっくりだろう。
「―――?」
「――! ―――!!」
彼らは口々に何か言っているが、一向に理解できなかった。
なにかまずいことでもしたのだろうかととりあえずペコペコと頭を下げるが、それでは彼らは納得してくれない。
知らない言葉で話しかけられることに困惑し、私は疲れ始めていた。
青年たちの顔も陽気な様子から怪訝な物に変わってきていたので、そろそろ逃げ出した方がいいかもと私は考え始めていた。
その時だ。
「――――」
前に出て彼らを制したのは、先ほどの美女だった。
彼女が凛々しい顔で彼らに何事か言いつけると、ぴたりと彼らは静かになる。
(この女の人は、偉い人なのかな? でもなんで、この人男の人達と同じ格好してるんだろう?)
そんなことをぼんやり考えていたら、彼女は少し考える素振りをした末、私に手を差し伸べてくれた。
彼女がどんな人物か分からないと思いつつも、途方に暮れていた私は思わずその手を握りしめた。