18 イチャイチャは目に毒
「旦那様がお帰りになりました」
使用人が主の帰宅を知らせる声がした。
それに慄くように、花琳の細い肩がびくりと震える。
「大丈夫。花琳、綺麗。自信持つ」
「でも……」
うじうじしてなかなか玄関に向かわない花琳の肩を、がっしりと掴んだ。
「大丈夫! 旦那様惚れ直す!」
「でも、でも……」
さきほどからずっとこの調子だ。
奥方が迎えに来なければ、旦那様はおかしく思うだろう。
どうしたものかと思っていると、廊下の方からどたどたと誰かの走る音が聞こえた。
格調高い貴族様のお屋敷に、その足音はあまりにもそぐわない。
(随分と騒がしい使用人だな。後で怒られないといいけど)
悠長にそんなことを考えていたら、部屋の扉が開き衝立が振り払われた。
突然のことに驚き、思わず花琳の前に飛び出してしまう。
彼女を狙う何者かが侵入したのかもしれない。
「花琳っ、無事か!?」
しかし、侵入者が発したのは予想もしない言葉だった。
その声に反応したのか、私の後ろから新妻がひょっこりと顔を出す。
「旦那様! お、お帰りなさいまし……」
花琳は恥ずかしがって、すぐに顔を隠してしまった。
「何かあったのか!? その顔を見せてくれ」
そう言って、旦那様はずかずかと奥方の寝室に侵入を果たした。
まあ夫婦のことだし、問題はないのだろうが。
「どうかご勘弁を……恥ずかしいですわ」
「無事を確かめるだけだ」
そう言って、旦那様は顔を庇う花琳の腕を掴みとった。
花のようなかんばせが露わになる。
白粉ではなくファンデーションを塗った肌は、青系のコンシーラーで赤みを抑えた。
花琳は素材がいいからそれだけで十分可愛かったのだが、ここは彼女に自信を持ってもらうため、敢えて他の化粧も施した。
薄く書いた山なりの優しい眉と、つけまつ毛で少しずるをした愛らしい目。太く長めに引いたアイラインが、花琳の垂れ目を強調してより柔らかい印象を与える。
最後に、当代風に額に花鈿を描いた。花鈿というのは額に花などのワンポイントを描く化粧法だ。赤い花弁が、花琳の肌の白さを際立たせる。
「これは……」
私の技術を注ぎ込んだ化粧だが、果たしてこの世界の人に受け入れられるのか。
そんな不安はあった。
しかし旦那様は、私と花琳の不安など吹き飛ばすように愛妻をぎゅっと抱きしめた。
「なんて美しい……仙女が舞い降りたのかと思ったぞ」
「旦那様……っ。勿体ないお言葉ですわ」
こうして目の前に、一組のおしどり夫婦が生まれた。
(良かったね、花琳)
わざわざ花酔楼からメイク道具を持ってきてもらってよかったと、心の底から思った。
同時に、この世界でも自分のメイクが通用する。それが分かったのが純粋に嬉しかった。
「連れてきた下男と部屋に籠って出てこないと聞いて、胆が冷えたぞ」
旦那様はそう言うと、顔を上げて周囲を見回した。
「それで、例のガキはどうした? どこかに隠しているのか?」
(例の、ガキ? それってもしかして私のこと!?)
部屋に籠って化粧に熱中していた私達のことを、どうやら誰かが旦那様に注進したらしい。
花琳と私は同性だとはいえ、ここにいる人は皆私を男だと思っているわけで。
名乗り出ても大丈夫だろうかと悩んでいると、幸せの絶頂のような顔をした花琳が、あどけない声で言った。
「ガキ? いやだわ旦那様ったら。お客様なら、さっきから目の前にいらっしゃるじゃありませんか」
「目の前……? まさか……」
険しい顔をした旦那様と目が合う。
(ひー! 花琳正直すぎる!)
泣きたくなりながら、私はその場に膝を折った。
正式な謝罪方法と言うのは分からないが、花酔楼にいたころはこの姿勢で客に接するようにと叩き込まれていた。
俯いて、許しが出るのを待つ。
「顔を上げろ」
逆らう訳にもいかず、その言葉に従った。
旦那様は、眉間に皺を寄せ私のことを注視している。
ふと、その顔に見覚えがあった。
眉間に刻み込まれた皺と、鋭い目つき。そして仏頂面。
「あー!」
花琳の旦那様は、私をここに連れてきた男に違いなかった。
(そんな! だって絶対十歳以上年の差あるよ! てゆーかこの顔で毎日部屋に花を届けてるって……)
脳内でかなり失礼なことを考えていたら、男の眼差しが更にきつくなった。
「立て」
命じられて、言われた通りにする。
蛇に睨まれたカエルの気持ちというのは、こんな感じなのかもしれない。
しかし、この男がこの邸の主だとすると、納得のできないことがあった。
(じゃあ、この人が私を身請けしたの? 全然見覚えがないんだけど)
完全に今日が初対面のはずだ。
記憶を遡ってみるが、ひっかかりもしない。
訝しく思っていると、心配そうな顔をしていた花琳が助け舟を出してくれた。
「旦那様、この方はわたくしに素敵な化粧をしてくれたのです」
「ほう、その化粧を?」
すると男は、何かを考え込むように己の顎に指を当てた。
「これならば、うまくゆくかもしれない……」
そして、ぼそりと小声で何事かを呟く。
意味も分からないまま、私は立ち尽くすより他になかった。




