映画館デートは初心者向きって誰が言ったんだ
「今日は映画でも観に行きませんか?」
口元に笑みを湛えた優男が、まるで意中の女性を誘い口説く様な口振りで話し掛けてきた。
私はアイスコーヒーをストローで啜りながら、勝手に向かいの席に腰を下ろしてきた男を胡乱な目で見遣った。
仕事の休憩時間を利用して来ていたお気に入りの喫茶店に突如として現れた闖入者は、こちらの不機嫌などお構いなしににこやかに続ける。
「七時で上がれそうなんだ。瀧野さんもだいたいいつもそれくらいでしょ? ここで待ち合わせしよ」
確かに社内ではなるべく話しかけないでくれ、と私、瀧野瑠佳は目の前の男、牛嶋陽介に伝えてはいた。
先日のチョコレート事件で思わぬ邪推を向けられ、正直面倒だったこともある。あと、八方美人の私は職場とプライベートでは随分とテンションも性格も違うから、疲れたくないというのも理由のひとつだ。
じゃあどうやって声を掛ければいいの、と不満そうに口を尖らせる男に、連絡先とこの場所を教えたのは必然だったのかもしれない。
しかしそれは事前に連絡を入れてくれれば会うという意味であり、こうして一人のんびりまったり食後のコーヒータイムに勝手に入り込んでいいとは一言も言っていない。
私は吐息交じりに尋ねた。
「何の映画ですが」
「えぇと。瀧野さんが好きそうなやつだよ。――ん、これ」
そう言って、操作をしていたスマートフォンの画面を顔面に付きつけてきた。
「『デッドオブデマイズ』?」
それはシネマ情報が掲載されているウェブページのようだ。血塗れで蠢いている人々はどうやらゾンビのようだ。――要するに、ゾンビ映画?
私の顔は無意識の内に輝いていたようで、牛嶋はさもありなん、とドヤ顔を決めている。
「おもしろそうでしょ。ゴハン食べてから行ったらちょうどレイトショーの時間だし、ゆっくり観れそうだね」
「うんうん。私も映画はレイトショー派なんだよね。なんてったって静かだし。それにホラーモノはやっぱ夜に観るのがオツだし、いくら映画館が暗くたって、外に出て太陽が出てたら余韻台無し!」
興奮して一息に言い切った私は、不意に頭を撫でられて一気に身体が固まった。その隙を衝くように、牛嶋はニヤリと口元に笑みを刷いて席を立つ。
「――それじゃあ、七時にここで」
さり気なく伝票を取って行った男の手際のよさに感心しつつ、何だか相手の思うツボだった自分に歯噛みする。
――あやつ、なかなかやりおる。
なんて心の中でふざけたように賞賛してみたものの、気分はちっとも晴れなかった。
□
牛嶋はとにかく紳士だった。
「パンフレットは買う派?」
「飲み物は? そういえばアイスコーヒー好きだよね」
「先にトイレ行っておこうよ。上演中は集中したいしね」
まったりと食事を終えた後(もちろん牛嶋のオゴリだ)、牛嶋と連れ立って映画館に来た私は、チケット代はさすがに出す!と息巻いたものの、モテ男とネクラ女の経験値の圧倒的な差で、気が付いた時には全て会計が済んでいたというマジック。
俺が誘ったんだから当然でしょ、とさわやかな笑顔で制され、私は出した財布を鞄に仕舞うという作業を何度を繰り返さざるを得なかった。
何だか仮を作ってしまったような気がして居心地が悪い。そんな気持ちのままでいざ上演という段階になったタイミングで、不意に手を握られてぎくりと顔を強張らせる。
恐る恐る隣に座っているだろう男を上目に仰ぎ見ると、胡散臭い笑顔を向けられた。
――これだけ気を遣って金も使ってあげたんだから、まさか手さえも握らせてくれないなんて言わないよね?
……被害妄想かもしれないけれど、その表情からはそんな言葉が聞こえてくるような気がした。
私はブリキの人形のようにぎこちない動きで顔を正面に向け、大画面のスクリーンに目を向ける。
平常心、平常心。
救いだったのが、牛嶋の体温は低くそれほど気持ち悪さを感じなかったことだった。
それでも意識から切り離して映画だけにのめり込む、なんて芸当は私のような男慣れ(というか人慣れ?)していない人種には無理だったようで。
スクリーン上で血と内臓やその他諸々が夥しく飛び散るたびに強く手を握られながら、牛嶋の情けない声を肴に、二時間半余りを微妙な気持ちで過ごしたのであった。
□
牛嶋はとにかく子どもだった。
――上演後。映画館の前で押し問答をしている男女二人。
「帰る」
「やだ行かないで。俺を捨てるの? 泣くよ? 俺泣いちゃうよ?」
「映画観てるときは大丈夫だったでしょ! てか手を放して! 上演中はしょうがないかと思ったけど、もう終わったでしょうが」
「やだやだ。そんな冷たいこと言わないでよるぅちゃん」
「るぅちゃん!? 変な呼び方するなはーなーしーてー」
ホラー映画を観終わった後、精神年齢が十歳くらいになってしまった牛嶋が藁にもすがるような切羽詰まった表情で。素知らぬ顔で帰ろうとする私の手を握って離さなかった。
もしや、映画が始まる前の不敵な笑みは、迫りくる恐怖を誤魔化すためだったのだろうか。
「家に一人で帰るのやだよ。家の中電気点けるまで三歩は歩かなきゃならないんだよ? その間に襲われたらどうするの!」
この間部屋で観た時よりもかなりの怖がりのようだ。やっぱり映画館だと怖さもかなり増したのだろう。
「なんでこの映画観ようと思ったの……。こうなることは分かっていたでしょう?」
脱力しつつ訊いてみると、牛嶋は案外長い睫を伏せてぽつりと零した。
「瀧野さんが喜ぶかと思ったんだよ……」
う。
涙目でそんなこと言われたら、ここで見捨てるのも気が咎める。でも、こいつの部屋に行くのもなんだか変なきもするのだけれど。
ぐだぐだと逡巡していると、ふと周囲の視線を集めていることに気付いた。
……衆人環視なんて、最も私の忌避すべきものだ。
背に腹は代えられない。私は折れることにした。
「あーもう、わかったから。行くから、だから手を放してくださいね」
「はい!」
満面の笑みを浮かべた牛嶋に今日何度目かの溜め息をつき、自由になった手をプラプラと空中で遊ばせた。