因縁
刀身にまとわりつく赤黒い血を振り払い、B.E.はナイフを懐に仕舞った。背後を振り返り見回すと、途中で落とした剣は、入り口の門にほど近い植え込みに突き刺さっていた。リサーチャーは、そんなものが無くともB.E.が勝つなどと言っていたが、冗談でもろくな武器も携えずに挑める相手ではない。取りに戻ったところでさして時間のロスになるわけでもない。B.E.は植え込みに向かって歩を進めた。
壁の向こう側に気配を感じて、剣の柄に伸ばしたB.E.の手が止まる。
「無事でしたか!」
「小型とは言え、ドラゴンを単身で討ち取るなんて!」
門を潜り抜けてやって来たのは、町の住民の一団だった。妙に熱っぽくB.E.のことを持て囃すのは、どうやら先程の空中戦を下から見ていたらしい。B.E.は答えもせずに剣を手に取った。
住民たちの喝采が飛び交うが、喜んでいられる状況ではない。緊張感を失った彼らの様子にB.E.は、少なからず苛立ちを覚えた。
「すでに魔物が侵入しているようだ。誰か、館に詳しい奴はいないか?立て篭もれるような場所だとか、脱出用の隠し通路だとかがあるようだったら教えてくれ」
今まで寡黙だったB.E.が突如としてまくし立てるものだから、住民たちは一様に面食らった。B.E.の態度と、更に「魔物が侵入している」という言葉と併せて、事態が自分たちにとって好ましくないものであるということはすぐに理解できたようだった。
動揺が走る群衆の中から、若い娘が進み出て答えた。
「裏手の礼拝堂に地下道があるって聞いたことがあります。もしかしたら……」
「屋敷の人間はもう、避難しているかもしれないな」
町の異変に早くに気が付いていれば、その可能性も十分考えられる。
可能性で言えば、いくらでも考えられるが、B.E.の判断は早かった。
「よし、それならお前たちは礼拝堂へ。俺は館の中を一通り確認してからそっちへ向かう」
「皆で手分けして探した方がいいんじゃ……?」
「中はまず間違いなく危険だ。そんな中へ探索に手を割くよりも退路を確保しておきたい」
その言葉に納得する者、不安を滲ませる者と、人それぞれの反応があったが、B.E.の毅然とした物言いに異論を口にできる者はいなかった。住民たちが押し黙っているのを見渡してB.E.は一つ頷くと、玄関の方へと駆け出した。一足飛びに敷台に飛び乗り、扉に手を添えると後ろを振り返る。
「もし領主がそっちにいたら、俺には構わずにすぐに脱出しろ。いいな?」
投げ捨てる様に言い放つB.E.に向けて、先程の娘が声を振り絞る。
「クリオラ様を!よろしくお願いします!」
しかしその悲痛な叫びも、真っ暗な館の中へと踊り込んだB.E.には届かないのだった。
館の中は灯りもなく、また、人気もなかった。
以前訪れた際に、執事に案内された廊下を走る。衰弱した女領主は昼も夜もあのベッドの上に横たわっているという話だったから、最初に目指すのはあの寝室だ。
玄関先でも言っていたように、屋敷の人間が町の異変に気付き、逸早く避難してくれていたなら、それが一番面倒が少なくていい。要は宿敵との邂逅に、邪魔者を交えたくないのだ。
伯爵と引き合わせてくれた領主には感謝するが、それ以上は知ったことではない。奴と対峙できた時点で彼女の存在に価値はなくなる。
住民たちが館に入らないように立ち回ったのも、彼らの安全のためというよりも自分の都合のためだ。その為の方便が、自分でも驚くほどすらすらと出てきた。今思い返すと笑いが零れそうだ。
俺は俺の為に奴と戦い、奴を倒すのだ。
先日リサーチャーに対しても、これはただの自己満足だと啖呵を切ってみせたが、正しくその通りだ。だからこそ、この因縁の対決に余計な立会人は望ましくないのだ。異質な静けさで満たされた廊下には、自分の望みを満たしてくれる予感があった。
辿り着いたクリオラの寝室も扉はピタリと閉じられており、自分と同じく部外者への拒絶を示しているように見える。その奥に何を隠しているのか知らないが、眼帯の下で右眼の古傷が疼いている。
間違いなく、いる。
確信を胸に扉を押し開く。
部屋の中は散々たる有様だった。壁は外側から崩されていて、大きな窓があった時とは比べ物にならない程、庭園が良く見渡せた。幸いなことに室内にはクリオラの姿はなく、そこには奴がただ一人、月下に佇んていた。襟の立った黒マントを羽織り、静かに満月を見上げるその後ろ姿は、ただそこに立っているだけで、伯爵の呼び名に恥じぬ風格を醸し、見る者を威圧する。
かつてのB.E.はそのプレッシャーに押し潰されてしまい、吼えるだけで精一杯だった。だが、今は違う。
部屋へと踏み込む気配に、ブレストが振り向く。そして意外なことに、ブレストの方から声をかけてきた。
「今宵の儂はとても気分が良い。ただの無謀な冒険者であれば、命の大切さを説き、見逃してやろうかと思ったが……」
「余計なお世話だ!」
威丈高な物言いに、即座に怒鳴り返す。
しかし、そんなB.E.の怒声も意に介さず、ブレストは続けた。
「風の噂に聞いたことがある。我が血族を数多く手にかけた、隻眼の男がいる、と。それは”夜の牙を折る者”などと呼ばれているそうだが、その方、身に覚えがあるか?」
「ああ、それは俺のことだ!」
ブレストが自分の存在を認識していたという事実にB.E.は些か驚いたが、動揺している場合でもない。胸を張り、語気を強めて即答する。
よくよく考えれば、あれだけ吸血鬼を討伐してきたのだ。狩られる側も恐るべきハンターの一人として警戒していたのかもしれない。人々の間で妙な通り名を付けられるほどに広まっていたこの名は、知らぬ間に吸血鬼たちの間でもまた、随分と馳せていたということなのだろう。
考えもしなかった自分への評価に、B.E.の中で新たな自信が芽生え始めていた。
しかしその新芽を吹き飛ばすかのように、伯爵は哄笑した。
「くわっはっはっはっはっは!よもやこのような小童とはな」
片手で目元を覆い隠して伯爵は天を仰ぎ、笑い声を響かせる。華奢な指の隙間から虚ろな瞳をのぞかせたのも束の間、笑い声が止むとそこには赤く鋭い光を宿していた。
マントを翻してB.E.へと向き直ると、ブレストは声も高々に宣告した。
「我が同胞の流した血は、貴様の身を全て絞り尽しても贖えぬ。髪の一本、骨の一片まで余さず塵にしてこの世から消し去ってくれようぞ!」
それを受けてB.E.もすかさず返す。
「チリになるのはお前の方だ!」
ブレストへと向けられた切っ先が、傾き始めた月の光を受けて、静かに煌めいた。