在りし日の恋人
その晩、B.E.は微睡みの中で懐かしい声を聞いた。
「――人は、」
懐かしい顔がB.E.の目の前に蘇った。それは、鮮明に。もうあれから10年は経つというのに、記憶の中の恋人はあの頃と変わらず、むしろあの頃よりも輝いて見えた。
故郷の丘の上、抜けるような青空の下でローザは花を摘んでいた。愛用の手提げ篭が、色とりどりの花で満たされている。
「人は、愛しい人を喪った時もその人を喪った自分を哀れんで泣くのだ、と聞いたことがあります」
「情のない話だな。確かに一理あるとは思うが」
折角会えた恋人の、あまり面白くはなさそうな話にB.E.は率直な意見を述べた。
ローザがすっと立ち上がると長いブロンドの髪が風に広がる。風にあおられてその長髪でもスカートでもなく、彼女は篭の花をそっと手で押さえていた。一陣の風は彼女の髪とスカートを揺らして去っていった。
「それでもいいじゃないですか。何に涙を流そうとその人の中に喪った人を想う気持ちが溢れていることに変わりはありません」
相変わらずの理屈っぽい口調に苦笑を堪える。確か以前にもこんなやり取りをしたような気がする。気がするだけかもしれないが、何にせよ、ローザの彼女らしい口ぶりに、B.E.の気も和らぐ。
「喪った自分が可哀想ってのも、相手を強く想うからこそ沸き上がる感情、ってことか?」
篭から手にした純白の鈴蘭を一輪その髪に簪し、ローザは小さく頷いた。
「だから、もしも私が先立った時には、一筋で良いから、涙を溢して下さいね?それ以外は何も要りませんから」
「馬鹿か?そんな先の話、知るわけないだろ?」
そう言って抱き寄せようとする。が、腕が伸びない。戸惑ううちに彼女の姿がすぅっと遠ざかってゆく。優しい笑顔のまま。
――あぁ、これは夢だ――
想いに反して伸びない腕に、これが夢であるとB.E.はようやく認めた。今更手を伸ばしたところで、遠く離れてしまった恋人のいる丘には、もう、届かない。
それでもその邂逅にB.E.は感謝した。
夢だろうが何だろうが、構わない。久し振りに見えた恋人の姿をもう一度しっかりと脳裏に焼き付けるために、B.E.はキッと目を閉ざすのだった。
そっと目を開くと今度は夜の湖畔にいた。朽ち果て、半ば水没した遺跡は屋根もなく、壁も大半が崩れ落ちている。
――まだ、夢の中か――
この光景は何があっても忘れることは出来ない。それこそ、今さら夢で繰り返すまでもない。
腕の中にはローザがいた。両の腕には彼女の温かさが伝わり流れる。彼女は胸元で手を組み、瞼を閉じて。目元にはうっすらと涙のあとが残っていた。拭ってやりたかったが、そのためには腕をとかなければならない。といてしまえばそのまま彼女が二度と自分の元へ帰って来ない気がして、出来なかった。
だがやがてB.E.は水の中へと歩を進めた。進むほどに波が立ち、満月を歪める。腰まで浸かった水は容赦なく二人の熱を奪っていった。水面に彼女を横たわらせると、そっと手を離す。ゆっくりと岸辺から遠ざかってゆく彼女の姿はとても現実のものとは思えなかった。幻想的とも言えるその光景はだがしかし、B.E.が現実と認めたくないだけに過ぎなかった。非現実的なのではなく、現実味がないのでもない。ただの現実逃避。
ブロンドの長髪が広がり、胸元から赤い航跡を描きながら。ゆっくりとゆっくりと沈んでゆく姿は、やがて暗い湖に完全に呑まれ、消えてしまった。
失ったのは俺で。
彼女で。
二人。
どれだけ涙を流しても。いや、涙を流せば流すほどに自分が何故泣いているのか、分からなくなってしまう。涙と共に自分の中にあるものがどんどん零れ落ちていってしまうようだった。しかし、それを止めることも出来ず、終には膝から崩れ落ちた。
夜の湖畔に号哭を響かせながら、B.E.は思い出してしまった。
そう言えば、彼女にお別れのキスをしていない――――
たまたまご覧頂いた方も、またまたご覧頂いた方も今晩は。パメラです。
さてさて、登場シーンが少ないクセに結構重要なキーパーソン、ローザさん登板です。
当初はB.E.の行動原理の一因でしかなく、名前だけはチラホラ出てくるけど彼女自身が重要なわけではない、そんなポジショニングでした。しかし、試しに掘り下げてみるとこれが拡がりまくり。いや、私の大好きな「前向き系薄幸少女」が拡がらないわけもなく。さっくりと個性を獲得、回想回だけで一話分の紙面を勝ち取るに至った次第です。しかも、こんな序盤に登場するなんて、本当に想定外(苦笑)
しかし、この娘だけはどう足掻いてもハッピーエンドには到れない(だって既に故人)なので、せめて幸せだった頃の姿だけでも、と思います。