023 囚われた人魚
海の中に潜り、逃げる事を選んだ金色とヴァイス。しかし、その海こそ、怪しかった。
(なに? 水が、重たい…)
本来、彼女等の中で“水”とは空気に等しい存在。自分達に抗う物では無く、ただその辺に平然と浮き上がり、何もしない受け入れるべき存在。だが、何故か今日の“水”は重たかったのだ。
(何かがおかしい。……早く逃げなきゃいけないって時に……!)
速く逃げなければ、その思いだけが金色を動かしていた。けれども、水は一層重みを増し、まるで足が囚われたような感じがしてくる。そして、不意に耳に入る音色。
「クスクス… クスクスクス…」
まるで自分達を嘲笑う、いいや、楽しそうに傍観している観覧者の様な音。そして、その音色は聞き覚えが良くあった。
「くそっ!」
急に悔しそうな声を出す金色。傍で泳ぐヴァイスの手を強引に掴み、そして自分の傍に寄せたのち、辺りに渦潮を出現させる。
「こ、金色!?どうしたの!一体!」
慌てた様に声を上げるヴァイス。説明している暇も無いのだが、手短に金色は語った。
「〈水精霊〉よ、この水は〈水精霊〉の支配下にある!」
「!?う、うそよ!だって、〈水精霊〉を召喚する為にはかなりの代償が……!」
「先に払って来てたのね。長期戦覚悟って訳か……」
ヴァイスが戸惑うのも無理はない。何せ、〈四精霊〉の〈強制召喚〉はかなりのリスクを負うモノだからだ。強制に従わせなければならない為に強い精神力を必要とする。精神力がそがれれば彼女等は真っ先に術者である自分達を〈強制召喚〉した〈妖魔の狩猟家〉に向かう。しかし、〈強制召喚〉の維持中はかなりの戦力になるのも事実。
ギリギリと唇を噛みしめ、金色は渦潮を行う手を休めず、そしてこの場を乗り切る為の策を必死に考えた。
「クスクスクス」
響く音色がうっとおしい。すると、ヴァイスは海面を見上げ、静かに眼を細めた。
「ねぇ、金色。あれは…なに?」
「……あれは―……!」
問いかけられ、とっさに上を向く。そしてその先で見たのは船底。穴を開ければ彼等は穴を塞ぐ為に必死になるだろう。と、なれば〈水精霊〉を〈強制召喚〉している者の気も削ぐことが出来るかもしれない。
「〈聖なる水の弾丸〉!」
手を伸ばし、叫んだアルフの周りに浮かび上がるのは無数の丸い球。小さな小石の様に丸い水はそのまま何かに引っ張られる様に素早く、船底に突っ込んだ。例え無数の小さな穴だろうが、大きく何度も何度も開ければ、それは大きな穴となる。
「あ……」
相手の船底には穴が開き、海水が流れ込む。これで船は下手すれば沈没する恐れだってある。血を巻いておけば臭いに敏感な鮫どもが来るが…自分達の血を流す訳にもいかない。
自分達を嘲笑う〈水精霊〉の声も何時の間にか消え失せ、そして残ったのはもうすぐ沈むであろう船の光景。
「や、やり過ぎだよ… 金色」
此方をジッと睨みつける様に見て来るヴァイス。しかし、金色は謝る気は全くない。下手すれば喰われる恐れだってあるのだ。このぐらい、当たり前と言えば当たり前だ。
「いいのよ、小舟でも持ってれば逃げるだろうし、泳ぎが得意な人間が居たら港まで泳いで帰るかもしれないしね」
「もうっ、無理に決まってるよ」
意地悪な金色にちょっと怒るヴァイス。彼女は無知だから人間に関して何も知らない。だからこそ、彼等の事を純粋に心配できるのだ。死なないだろうか、なんて。自分達を先程捕えようとしてきた輩に対して慈悲と言う心を持ち合わせているのは無知で何も知らない証拠と言えよう。
「でも、溺れてたらどうしよう…。し、心配だから見て来ても……」
「ちょっと、駄目に決まってるでしょ。ほら、逃げるのよ」
そう言っても何も聞かないヴァイス。船に向かってゆらりと尾鰭を揺らして進んでしまう。
「ちょっと、逃げないと。食べられるかもしれないのよ?」
そう言っている金色もかなり警戒心が緩んでいる。抵抗しないと思っているからだ。呆れた様にしつつも船の傍に寄るヴァイス。
「ほら、金色!大丈夫だよ!」
ニッコリ。と綺麗に笑って手を振るヴァイス。眼は見えていないハズなのにまた水を眼の代わりにしているのだろう。そう勝手に己を納得させた金色は静かに声を上げる。
「分かったから、速く帰りましょう!」
臆病な訳では無い。だが、人間と言う生き物は非常に執着心が激しいのだと聞いている。だから、出来る限り関わらず、けれども何も力の無い奴等とは少しだけ関わりを持って。危険じゃ無いラインまで踏み込み、危険だと感じればすぐ海に逃げ込む。じゃないと、食べられてしまうから。
その怖さを―――ヴァイスは…… 知らない。
刹那の間。
二人の意識は、綺麗に飛んだ。
「お前等、戻るぞ。雇い主に伝えろ、大物を捕えた。とな…」
ニヤリ、と不気味に笑ったその声。そして、また、嘲笑う様に音色が聞こえた。
「クスクス、クスクスクス」
何かを嘲笑う様に、悠々と響くその音色。何を嘲笑っているのか…それは嫌でもすぐ、理解できた―――……。
◆ ◆ ◆
次に金色が眼を覚ました理由は、鱗の渇きを感じたからだ。不思議なほどに乾いてしまった肌はパキパキとまるで木の皮の様に剥がれ落ちそうなほど、普段からすれば乾燥していた。だらりと顔を上げようとすれば、何時もはすんなりと浮かび上がる髪がだらりと下がったままな事に気付く。ジャラリ、と音を立てたのは何かの音。動こうと思っても、何故か両手が拘束されており、妖力を使おうとしても何かにより封じられている為か、何もできない。出来る事と言えば辺りをその眼で見る事ぐらいだろう。
(ココは……?)
必死に思考を凝らす金色。
そこは、暗い部屋だった。まるで牢獄の様なその部屋は人魚である金色からすれば信じられないほどに乾燥していた。灯の為に燃えたぎる松明の炎でさえ、妖力を封じられた金色の体力を激しく奪っていった。せめて妖力が使えれば、あの炎を消し、空気中に在る水蒸気で己の体を覆い、乾燥から身を護る事が出来ると言うのに、それが出来ない状況にあった。
(ヴァイス……?)
辺りを探しても、誰も居ない。見えるのは薄暗い天井に煉瓦積みされた壁。そして嫌な音を立てて金色を拘束する手錠だけだった。ゴクリ、と息を飲みこみ、耳を澄ます。何もできない中で叫び声を上げるよりもまず、大事なのはココが何処かと言う事だ。そして、逃げる為に必要な力は奪われた。今は大人しく、大人しく、逃げ出す為の何かをしなければならない。
「上出来だ、良くやった。流石は〈妖魔の狩猟家〉として名高い…」
「それ以上は禁句ですよ、雇い主。しかし、運が良かった。まさか人魚を二匹も捕獲できるとは…いい実験材料になりますよ」
「不老不死の薬、だったか?」
「えぇ。人魚の血肉を喰らえば不老不死になれると言う噂があります。そのまま喰らえばいいのか、それとも何かしらの手を加えなければならないのかなどは全く持って知られていませんが、上手く使えば色々と出来ると思いますよ」
「おぉ、そうか、そうか」
聞こえた声はとても金色の神経を逆立てする様な言葉ばかり。自分達を普通の動物としか見ておらず、言葉は通じたとしてもタダの不老不死の薬としか見ていないのだ。そんな薬、存在するかさえ金色には分からなかった。
人とは違い、妖魔と言う生き物は彼等からすれば考えられない時間を生き抜く種族だ。人魚の平均寿命は五百年程度、人間は長くてもその五分の一程度しか生きられないちっぽけな種族だ。そして、そのちっぽけな種族故に頭が良かった。
己の身を護る為に道具を開発し、未知なる場所へ向かう為にそれに必要な大きな道具を次々に開発していく。短い生命の中でそれが出来ると言うのはまさに素晴らしいと言う事だ。そして、その好奇心が更に彼女等との共存を不可能にする。
何処かの御伽噺であったそうだ。人魚の血肉は不老不死の薬なのだと、そして人間は何故か死を恐れ、そしてその死から逃げようとするあまり、死期を早めたりするのだ。
「にしても良かったのか?あの白い人魚に例の鎖を付けなくても…」
「はい。あの人魚の妖力はほとんどありませんでした。つまり、我々が最も恐れる事を実現する力は無いのです。普通に拘束しておくだけで問題ないでしょう。奴等は海を寝床にしている為、乾燥にも弱い。ある程度弱らせて置いてからじっくり話し合うと言うのも滑稽かと思われますよ」
反吐が出る。
その会話は、まるで自分達を見せ物の様に扱っている。姿は違えど妖魔にだって感情と言う物は存在する。意思を伝える為の言葉だって、存在する。なのに彼等はそこらの実験用のネズミと同じように自分達を扱う。
いいや、実験用のネズミにだってちゃんとした意思はあるだろう。しかし、彼等は放つ言葉は無い。意思を伝える為の言語が無いのだ。人間に己の意思を伝える為の言葉が無いのだ。だから、何もできない。そして、自分達は言葉はあるのに同じ立場に立っている。
理由は姿が違うからだろう。下半身が鱗になっているからだろうか?それとも、この体に流れる液体が黒いからだろうか?妖魔以外の生き物の血液はまるで綺麗な壮大な夕日を受け継いだように真っ赤に染まっていると聞いた。血液の色が違うから、拒絶されるのだろうか?
こんなにも―――…人間みたいな姿をしていると言うのに。
「そろそろ参りましょう。時間的に言っても、渇きに気付いた人魚が起きる頃です」
「おぉ、そうかそうか」
どうやらあの二人は此方に来る様だ。朦朧とする意識の中で、金色は呟いた。
「帰りたい…」
何処へ帰りたいのか、言われるまでも無い。平和だった、あの海へ。手を伸ばせば届くはずだった壮大な海はもう何処にもない。辺りは壁で覆われた部屋で逃げ場何で存在しない。
足音が響いた。もうすぐ、コッチに来る。分かっているからか……彼女は静かに、その口を閉じた。
◆ ◆ ◆
開いた扉の先、その扉の先に居たのは三人の人影。一人はふてぶてしく脂肪がたっぷりとついており、まるで肥え太った豚の様な男でそれでも来ている服は上等な物で着飾っていた。
もう一人はスラリとした体形の男。無駄のない筋肉が付いており、そして獲物を見るめる様に光の無いその瞳を見た瞬間、金色は悟った。
(あれが、〈妖魔の狩猟家〉。初めて見た…)
彼が〈妖魔の狩猟家〉と言う保証は何処にも無い。だが、そうなのだろうと何処かで納得している自分が居た。
「邪魔だろう、外してやる」
「お、おい!」
何かを言うかと思えばその言葉だった。油断しない様に相手を睨みつければ、相手は小さくあざ笑うかのように笑みを浮かべ、金色の鎖を取り除いた。腕が下に下がり、金色は息を付く。
「何故鎖を外した!逃げられるかもしれんぞ!」
確かにその危険性もある。だが、その男は平然と言い切った。
「雇い主。それは無理な話ですよ」
「なんだと?!」
借りにも主人に対する無礼な言葉遣い、けれども彼はそんな事よりも自分の意見を否定された事に対して怒っていた。
「奴等は人魚です。下半身が魚である為、立てない。つまり、歩く事は出来ないんです。鎖を外した理由は逃げられないからと言うのが大きいでしょう。下手に拘束して傷物になっては困りますからね」
「………そ、それもそうだな!」
余裕をこいている相手を睨みつければ、男はその視線に気づき、金色の顎を軽々と持ち上げ、自分の眼を向けて来る。
「逃げようなどと考えるな、妖魔。貴様が生きていられる理由は薬の為、傷物になっては困るのは売るかもしれないからだ、逃げようなどと考えるな。いいや、逃げるな」
その言葉を聞いた瞬間、体にまるで蛇の様な何かが纏わりついた様な感覚がした。その反応を見たかったのか、男は小さく笑って金色から離れた。
「……っ」
逃げられなかった。あの言霊を聞いてしまった瞬間、逃げようとすれば体に蛇が這う様に体が嫌でも拘束される。ギリギリと唇を噛みしめ、金色は相手の背を力強く睨みつけた。そして自分に抵抗の意がある事を相手に知らしめる。
「抵抗するな、抵抗すれば貴様の仲間が死ぬ事になるぞ?」
此方に眼を向けていないと言うのにその男は言い切った。はっ、と金色が息を飲み、相手を睨みつける中で動いたのは妖魔の狩猟家と呼ばれる奴等だった。
「名前は知らんが…随分抵抗されたモンだ」
そう言いながらも見せつけられる親友の姿。至る所に傷がつき、妖魔特有の黒血が流れている。皮膚は金色以上に乾燥し、鱗は触れれば剥がれ落ちそうなほど、脆そうだった。
「貴様……!」
ギリギリと唇を噛みしめて声を上げる。手を伸ばさないのはナニカすればヴァイスの身に何かあるかもしれないからだ。恐らく二匹捕えた事により、美しい方は売り物に、そしてそれ以下の物は薬にしようとしていたのだろう。
「そう焦るな。まだ、死んではいない」
まだ、死んではいない。妖魔だっていつかは死ぬ。だから金色が危惧しているのはその行為。まだ死んでいないと言う事はいづれ殺される恐れがある。彼等の言う事を聞いていても金色だって殺される可能性がある。
「外道が……!」
その言葉を聞いて、彼はニッタリとした笑みを浮かべる。
「褒め言葉だよ、妖魔」
「ようま……?」
そう言って彼はヴァイスを此方に投げる。意味が分からない単語を聞いて金色は眉をひそめる。
「貴様等の呼び名さ」
彼はそう言って扉を閉めた。深く閉ざされた部屋の中で、金色は震えた手でヴァイスを抱きしめた。今、彼女はココに居る。それだけで――…少しだけ、安心出来た。
dirotto Acqua palla 〈激しき水の弾丸〉




