020 越えられない壁
◇ ◇ ◇
〈人魚〉とは、下半身が魚で女性の体つきをしている妖魔である。思考はいたって穏やかであり、平和主義と言われている。希に好戦的、いいや。好奇心旺盛な人魚も居るらしいのだが、大概は何事が無い限りは人などには近づいたりせず、深海のそこで暮らしている為見かける事はほぼ無いとされていた。
好奇心が旺盛な人魚は度々その美しい唄声で航海士などをその美しい唄で惑わせる場合もあるのだが大砲を放たれてもクスクスと面白がって笑い海の底へ帰る程度だった。負傷者が出る事は滅多に無く、あったとしても何故か死ぬ事は無かった。
そして、人魚の被害に会った者達は口々に言うのであった。『人魚の悪戯は命を奪わない』と。だから人魚に悪戯されてもいい唄を聞かせて貰った、ありがとう。で終わらせなさいと言われてきていた。その人魚が居るとされる海の周辺では。
何処か、風の噂で人魚の血肉は不老不死、もしくは長寿などの効果があるとされた。実際はどうかは分からないのだが、だが一応貴重な生き物である為その効果もあるのではないかと今度は人間の興味心を誘った。
そして、問題ないとされていた人魚達に大砲を放ったのだ。人魚は逃げたのだが、その次に海水を操って大砲を船に返したのであった。それ以来だろうか?人魚は襲うべからずと人魚に向かって大砲を放った者は言うのであった。しかし、それも一回きり。百年ぐらいでまた馬鹿な者達はその人魚に向けて大砲を放った。人魚はまた海の中へ逃げ、そして大砲を今度は海の底に眠っていた奴と二発お見舞いしてやった。その者達も口々に言うのだ。人魚を襲うべからず、と。しかしまた百年ぐらいでまた誰かがやってきて何かをしてくる。
そう言う無限。 永遠の∞が当たり前だと思っていたこの頃。
長く生き過ぎた人魚は力を蓄え、そして人間に化ける力を得た。しかしそれとは大乗にあの声が出なくなってしまい、人魚の身を護る物は空気中に僅かに漂う水蒸気だけとなったのである。
しかし、馬鹿な人間ならばその程度だけでも大丈夫だろうと人魚は思った。だからそうやって、人間の社会に溶け込もうとしたのだ。
そうやって、馬鹿馬鹿しいぐらいに失敗して、喰われかけたのだ。
◇ ◇ ◇
屋敷を後にした刹那はとある透き通った水がある小さな湖…池が存在した。ボコボコと湧き出している水を見た刹那は理解し、そして何かしらの水路を繋がっているのだと理解した。無論天然の水路でかなり深いのだろう。そして僅かにその水路から妖力を感じた。手を軽く突っ込めばまるでその者を拒む様に刹那の手に電流が走るがこの程度ならば痛くない…我慢できるので問題ない。刹那はそのまま意識をその池の水の中に落とした…。
◇ ◇ ◇
そこに居たのはとある女性。顔はきっちりと整っており、たっぷりとした髪を一纏めに縛り上げて木の影で本を読んでいた。そんな彼女が不意に顔を上げる。不思議そうに首を傾げ、池の方を見て問いかけたのだ。
「ソコに居るのはだぁれ?」
しかし、返答は無かった。彼女は不思議そうに首を傾げた。
「あら? 居ないのかしら…?」
不思議そうに首を傾げた彼女。時間が経つにつれて彼女は息を付いて家の中に入っていった。まるでその表情は怯えている様で。
そして彼女は次の日も、そのまた次の日も。池の傍にある木の元に座り、本を読んでたまに池に向かって独り言を呟くのであった。まるで誰かが居るかもしれないと言うあり得ない現実を願っている様に。
とある日、彼女は等々見たのだ。ようやく姿を見せてくれたモノの姿は美しかった。蜂蜜を塗り込んだような美しい黄金色の髪はサラリと水に溶ける様で。そしてその瞳は青い青いサファイアの様に美しかった。
「あぁ…… やっと、やっと……」
彼女はボロボロと涙をこぼし、ボロボロの顔で嬉しそうに笑んだ。
「見せてくれた… やっぱり、居たのね…」
ボロボロの顔で精一杯ふにゃっと笑った女性。水から出て来たその者は不思議そうに彼女を見た。
「初めまして… ずっと、貴方に会いたかった…」
そう言えば、不思議そうにその女性は此方を見て来る。でも、会いたかった。本当にただ、それだけだったのだ。
「貴方の名前は? 私の名前はね…… 嘘」
「らい…?」
静かに首を傾げて聞いて来る女性。ライと名乗る双黒の女性を見た。
「貴方の名前は……?」
「こ…………… 無い」
何かを言いかけて彼女は俯いて悲しそうに言った。するとライと名乗る女性はうーんと悩みだした。
「それじゃあ―――」
考えた後、彼女はそう言って指を指した。
「―――――――――――― アルフ」
「ある……ふ……?」
子供の様に首を傾げれば、彼女はまた嬉しそうに笑った。
「私の名前はね、嘘の名前なの。 独りぼっちだから、でもね貴方のおかげで独りぼっちじゃなくなった。 貴方の名前はアルフ。 意味は無いけれど… 私が貴方の事を差す名前だって思う。 でも、これも本当の貴方の名前では無いわよね」
偽りの名前と与えられた偽りの名前。本当の名前はお互い隠しましょう。そんな、誰にも理解できないちっぽけな願いが込められた。
「アルフ、アルフ…」
呼んだ名を何度か繰り返した女性。嬉しそうに、ただただ、笑っただけだ―――。
◇ ◇ ◇
「これは…」
《どうした? 刹那》
池の過去映像を見て、刹那は眼を見開いた。まさかライとアルフにこんな接点があっただなんて…。
(この水、多少血が混じっている… 長年のおかげで薄まっているが… かなり多く血を流したな…)
空中に救い上げれば水は刹那の手を伝って池へと帰って往く。アクラは不思議そうに刹那の方を見るが、刹那は静かに立ち上がり手をハンカチで拭きながら告げる。
「なんでも無い。 だが、アクラとビャクはこの池の水に触れない方がいいだろう」
《分かった》
刹那の言葉に不信感を覚えつつもアクラは何も言わなかった。刹那がそうしろと言うならば、そうした方がいいのだろうとアクラは何処かでそう思っていたからだ。
(アルフは人魚、だが何故こんな場所に来て… そもそも、最後に見られたのは蜂蜜を練りこんだような長く美しい髪を持った人魚。水面下の影響でその瞳は薄められ、水色に見えたそうだ。 ぽつんととある日居なくなったその人魚……)
その人魚は今の地名で言えばデンマーク・コペンパーケンのあの観光名所の場所に居たとされ、しかし二百年ほど前にぽつんと姿を消したのもまた事実。
(海で最強とされる人魚が何かしらの理由で捕まった? いや、それは……)
あり得ないだろう。刹那の中でその仮説が成り立った。人魚と言うのは平和を好む種族である事に変わりは無い物の、それでも好戦的な者であれば護身術としてかなり高い位にまれ妖力を上げているに違いない。
(何はともあれ、この池に残る血痕は… 恐らくアルフの物。 つまりは人魚の血だ。 山の水で清められているがこれだけでも飲んだだけで傷程度ならば塞ぐ事が出来るだろう…)
人魚の血肉に不老不死の力があると言うのは強ち間違いでは無いかもしれないと思った刹那。血液で傷を治す事が出来るのであれば、その血肉となれば人間を不老不死にできなくとも、せめて妖魔の様に人間からすれば末永い時を生きられるのだろう。
(アルフを追い詰めたのは妖魔師の中で最も一般的な四精霊の〈水精霊〉だろうな…)
四精霊の中で水を操るのに長けている〈水精霊〉ウンディーネ。妖魔を扱えなかった者が頼る最後の砦として、そして妖魔を扱えてもその従える為の手頃からか妖魔を従える妖魔師も四精霊を操る事ができる物がほとんどであった。
妖魔師と名乗る物ならば使える者がほとんどと言ってもいいぐらい定番すぎる精霊だ。他にも〈火精霊〉サラマンダーや〈風精霊〉シルフィード、〈土精霊〉ノームが居る。
〈水精霊〉はその四精霊の中でも特に穏やかと言うか綺麗な顔を持つ美形には従え安いと言われている。女性の姿をしており、綺麗な顔を持つ男が大好きな精霊だと言われている。例えアルフが人魚言えども不慣れな水であれば操るのも困難気周り無い。つまりは、この血痕と妖力の残骸は当時のアルフが負傷により隠せなかった物が池の水に溶け込んだためにあるのだろう。
《そう言えばお嬢さん、私は一体どうすればいいのでしょうか?》
「あぁ、そう言えばそうだな…」
ビャクに話しかけられ、刹那はビャクの隠形を一時解いた。そして少しだけ考えた後、彼にピッタリの仕事を与える事とした。
「ビャク」
《はい》
平然と声を返したビャクに刹那は申し訳なさそうに、それでも真っ直ぐと告げた。
「危険を承知で頼むわ。光明の経営する裏競売へ趣き、情報を得て私の元へ帰って来なさい」
その言葉にビャクは驚いた様に眼を軽く開いた。主人の命令ならば聞きたいのは山々なのであるが、今回の場合はかなりの危険が高い。そして彼女の元へ生きて帰って来るとなればとても壁が高い様な気がしたビャクである。流石のビャクも笑顔が固まってしまっていた。
「悪いとは思っているわ… けど、私とアクラは離れる事は出来ないの。 だから、どんなに離れても大丈夫なビャクに命令するわ。 嫌だったら拒絶して、妖魔だって生きている。 主人の都合で白黒を殺すのは嫌だから」
刹那の申し訳なさそうな言葉を聞いて、ビャクは本気で笑いそうになった。いいや、堪えているのだがものすっごく笑いたい。けれど、笑ってはいけないと頭の中では分かっている。彼女は本気でこんな妖魔を心配してくれている。それはとても笑えることであり、そして光栄な事でもあったのだ。しかし、かなり困った事に変わりは無かった。
妖魔師が仲間だからと言う理由で妖魔を殺さないと告げているのだ。彼女は無害な妖魔であれば放っておく主義の妖魔師である事は一緒に居てよくわかっている事だ。無論、自分を無害だと信頼して言ってくれている。だが、それでいいのだろうか?自分は妖魔であり、そしていつ寝返るか分からない妖魔なのだ。もしも寝返った時、彼女は自分にどういう始末をつけるのか、とても興味心が湧いてきた。
ボコボコとまるで止まる事を知らない湧き水の様に湧いて来るその感情。その感情に軽く飲み込まれ、ビャクは一時我を忘れる。だが、その行為はほんの一瞬で、すぐに正気に戻された。
「ビャク、返答は?」
平然と問いかけて来る彼女に対して、ビャクは静かに彼女の眼を見た。その眼には何も映っていない。いいや、正確には自分以外の者は映っていない。彼女の瞳に映る物は大事な物だけだと思っているビャクは小さく笑みを浮かべた。
返答は?と頭の中で彼女の声が軽く木霊して響き渡る。返答次第で、ビャクはとてつもなく危険な場所へ赴く事となるだろう。だが、この返答に―――ビャク…白黒は生涯、後悔する事は無いだろうと笑みを浮かべて思った。
《御意》
静かにそう言って隠形する様に消えたビャク。最後に刹那の手の甲に口づけを残し、そのまま去って往った。刹那は消えたビャクの気配を感じ取り、口づけされた手の甲に軽く触れた。
(何がしたかったのか…)
刹那には分からなかった。しかし、何となくその意味だけは理解できた。口づけには意味があるとされ、それぞれの場所によりその意味が違うとされている。色々な意味があるのだが、刹那の知る手の甲への口づけの意味は……敬愛と尊敬である。
《往ったか…》
呆れた様に溜息交じりに言葉を吐いたアクラ。そんなにもビャクが嫌いか、と思いつつも刹那はアクラを抱き上げた。刹那は正直ビャクはつかめなくて面白い奴と思っている。簡単に言えば、ビャクは刹那への好奇心が途切れた時、裏切る様な気阿する妖魔だった。それでも刹那はいいと思っている。別に裏切られても…絶対、裏切らないと分かっている奴がずっとそばに居たから…。
アクラの力は強大だ。だからこそ、それを押しこめ、縛り付けるような鎖が必要となる。いいや、それは少しだけ違った。鎖を欲しているのは人間だ。怖いから、怖い物には蓋をしろ。臭い物には蓋をすると言われる事があれば、アクラをそれに例えるならば「臭い」では無く「怖い」物には蓋。と言う様な言葉が似合うと思ってしまう刹那。でも、刹那も…アクラの事を知り尽くしている訳では無かった…。
なんとなくの理由でアクラを抱き上げた刹那。今の姿はあの毛玉では無く小犬であた。しかし、不満そうなアクラは此方を見上げてキャンキャンと咆えた。
《降ろせ、刹那》
「なんで?」
不思議そうに問えばアクラはイラついた様に舌打ちを打った。しかし、刹那はそれに対して何も思う所は無い様で意味が分からない、と言う様な顔をし始め首を傾げる。その行為に思わずアクラも堪忍袋の緒が簡単に切れてしまい激怒。キャンキャンとまた咆え始めた。
《大体大体、何時もお前は俺の事を小犬扱いしやがって! 今、言わせて貰うが俺は犬では無く狼だ! 狼な。 そして更に詳しく言うならば犬神だっ!》
「狼って言ってる割りには『犬神』って分かってるじゃないか。 犬神って言ってる時点でお前は小犬。 私が何か間違っているとでも?」
《ぐぅ……っ》
《大体大体、何時もお前はオレの事を小犬扱いしやがって! 今、言わせて貰うが俺は狼だ! 犬では無く狼! そして犬神だっ‼》
「狼って言ってる割には『犬神』ってわかってるじゃないか。 犬神って言ってる時点でお前は小犬。 私が何か、間違っているとでも?」
《ぐ……》
刹那に対して仕返しの様に言ったつもりが墓穴を掘ってしまったアクラ。刹那曰く、小犬は犬でも同じ。犬神だって一応犬から造られる妖魔である為、例えそれが狼でも同じ話。一応狼だってイヌ科の動物である為もはやアクラに逃げ場は存在しない。悔しそうに刹那を睨みつけたアクラ。であるのだが、刹那は勝ったと言う様な自慢げな眼をするだけ。相変わらず光は無い物の、案外楽しんでいる様にも見えてアクラは諦めた様に耳をたらして溜息をついた。そんなアクラを見てか、刹那は静かにアクラに問いかけた。
「お前は、死を望むか?」
《さぁ……な》
刹那の言葉に反応したアクラは少しだけ驚いた様にピクリと体を揺らしたが…そののちにため息交じりの小さな声で言葉を返した。
◇ ◇ ◇
薄暗い部屋の中で。アルフは怒った様に叫び散らした。
「ライ、貴方一体何を考えているの!? 私を…… 私とずっと一緒って、言ってくれたのに……!」
アルフの怒り声が響く中、ライは高齢者である為かほけほけと意地悪く笑って見せた。
「大丈夫よアルフ。 あの人達は悪い人じゃないわ、私のお友達よ?」
「そう言って、貴方は何度も騙された。 何度騙されれば気が済むの? 今度は私を捨てるの? その気なら私は今すぐあの子達を……!」
アルフの妖気がぞわりとふくらみ目視できる妖気が鋭く鋭利に槍の様に尖る。ライはそれを見て、眼を細めて笑みを浮かべた。彼女が怒る時は何時も自分の為だけだ。怒鳴りつけられるのだって、本当に何年振りだろう。アルフは基本的には温厚であるが気に入らない事や自分に関係する事があるとすぐにこうなる。そんなアルフと過ごして楽しい事ばかりでは無かったけれども、ライはいい人生だと思っている為笑う事しか出来ないのだ。
現に彼女等を殺す事は無いだろうと思っている。どんなに憎んでいる相手でも、アルフは優しいから殺す事は無いと心のどこかで思っているからであろうか?
「貴方は何時もそう。 笑って、何でも赦して… ちょっとは怒って、そして自分について考えなさいよね!」
怒りなさい。こんな事を言われるのも何年振りだろう?また、ライは嬉しそうに笑みを浮かべた。自分の命は自分が一番よく知っている。いいや、それでも短い方が好都合なのかもしれない。
「なにも…… なんにも、分かんないわよっ!」
涙をぐっと答える様に言い放ったアルフ。そんな彼女を見て、ライはちくり、と心が痛くなった。彼女が何を思っているかなど、ライには到底理解できない。理解したくとも、理解できないのだ。しかし、彼女だって自分が何を思っているかなど理解できないだろう。
重力に従う様に真っ直ぐ垂れ下がっている黄金色の髪は蜂蜜を塗り込んだような輝きを持っている。そんな美しき髪に触れれば水色の瞳が小さくぶれて霞んでいる様にも見えた。涙を堪えてくれている様で、自分等の為に涙目になってくれる彼女が嬉しくてたまらなかった。
「だって…アルフは私の代わりに怒ってくれるでしょう…? だから、私は怒らなくても平気なの」
ライはアルフに対して心配させない様に言ったのではない。ただ、本当にそうだからこそ真剣真っ直ぐ彼女を見て告げたのだった。
「ライは、何も、なにも……っ」
彼女が苦痛な表情をするのを見るのはとても嫌いだ。けれど、今回の決断。変える訳にはいかない。
(私はもう、長くない……)
自分は人間だ。アルフの様に、何百年と生きられるそんな体を持っていない脆い、長くて百年程度で死ぬ生き物だ。妖魔からすれば人間なんて刹那きをする様な一瞬で掛け替えのない生命の様に思えるのだろう。いいや、掛け替えのない生命なんて思ってくれる妖魔はかなり珍しくて希だろう。
彼女は妖魔、自分は人間。越えられない壁は超えるのではない、越えられないのならばどんなに頑張っても越えられないのならば……諦めて、その人生、悔いの無い様に笑って過ごすのだ。そして、全てを天命と言うふざけた真理に任せて全てを投げ出せばいい。
それでももし、本当に越えられ|ない壁があるのならば―――……その時は……
「壊せばいいのよ、壊せる人に頼んで」
私はそれに賭けた。
例えそれが、貴女に嫌われてしまおうが。
「もしも望んでいいのならば……」
貴方に、本物の仲間を与えてあげたい。
とてつもなく、不思議なお願いだと、思わないか……?
◇ ◇ ◇
分かっていた。
人とは脆くて、醜い生き物だと。
人に恋をする事など馬鹿馬鹿しい。
人に感情移入するなど更に馬鹿馬鹿しい。
人と妖魔は似ている様で違うのだ。
物語でも良くあるじゃないか。
異形の女に心を奪われた男、その男女は必ず――――不幸になると。
「なのにっ…… なのに……っ!」
分かっていたではないか。 分かっていただろう?
こうなってしまう事は、遠い昔…五十年前のあの日に。 全てを覚悟して、それでも尚…彼女の元へ居たいと望んだのは自分ではないか。
歳を重ねるごとに老いて行く彼女。
しわくちゃな皮膚が、美しかった黒髪が真っ白な白髪になった時。
少し、何処かで諦めていたではないか。 嗚呼、また自分は独りになるのだと。
「分かっていたわよ、こんな事になるって…」
声が震え、涙が後から後から零れ出してくる。頬を伝う涙が何故か気持ち悪くて、でもその気持ち悪い涙が自分の瞳から出てくるのは仕方が無くて…。
泣いてはならない、そう思っていても…涙が後から後から溢れて来て、あの人の死と言う越えられない壁を嘆いている。嘆いても何も始まらないのに、何も変わらないのに。
「哀しいのよ……!」
人間なんて愚かな生き物だ。だから、一時期は全員死んでしまえなんて呪った時もあった。世界を呪った時だってあった。全てを怨んで殺戮を繰り返して彼女が美しいと褒めてくれたこの髪でさえ、紅く染めた事さえあった。
血反吐を吐き出す様に叫べば声が多少キレる様に途絶えた。喉を酷使しすぎた、声を上げ過ぎてまともに声を発せられないと確信できた。でも、運がいい…。今は、誰も居ない。誰も見ていない、誰も聞いてはいないのだから。
「もうイヤ、いっその事… あの人と一緒に永遠の死りに就けばいいのに……」
苦痛でたまらない。だからだろうか?こんなにも恐ろしくて哀しい… 悲しい、〈言霊〉を口にしたのは――…。




