017 目的地へ
「そう言えばお嬢さん、少しよろしいでしょうか?」
「空気読めないのね、ビャク」
「褒め言葉として受け取って来ます。 此方が今朝、この家のポストに入っておりました」
「この家の……?」
「はい」
ビャクの言葉に刹那は不審そうに目を向けた。この家の存在はほぼ知られておらず、誰もこの家に入る事は出来ない様になっているのだ。力がある物ならば話は別であるが、家に触れなくともポストを見つけ、入れる事など至難の業であるが…。
「取りあえず見せて、その手紙」
静かに手を伸ばしそう言えばビャクは懐から一枚の封筒を見せて手の平にふわりと置いた。刹那はイジけているネコを尻目に軽く見、視線を戻して手紙に書かれている小さくて細やかな文字を見ようと眼を凝らした。
「お嬢さん…?」
かなり間が空いた中、刹那は無言でずっと睨みつける様に依頼書と思わしき紙を見ている。流石に不審に思ったビャクは不思議そうに声をかけるが刹那はピクリとも眉を動かず、完全なる無視状態だった。
ビャクは困った様にアクラに助けを求める…いいや、どうすればいいのか。と言った様な眼を向けるが慣れたアクラは毛玉の姿で軽く首らしきものを横に振る。体が小さく左右に揺れ、放っておけ。もしくは気にするな。慣れろと言った様な意思が読み取れたビャクは黙り込み、全員が刹那を軽く見た。
《セツナ…》
何処からか現れたのはあの時の妖魔、名をリョクとか言っていたハズだ。オドオドとしながらも器用に椅子の足から刹那の体を軽くよじ登って机の上に登り、刹那を軽く見る。
《多分、お前なら話。聞いてくれてると思うから、話すな…》
オドオドと話を進めようをするリョクの言葉を聞いても刹那はまだ依頼書を見ていた。正確には睨みつけているに近かった。
《その依頼書を持って来たのは、鳥だった》
「とり?」
不思議そうにネコがリョクに聞き返した。“鳥”と言っても野生の雀などの小鳥なんかもあるだろう。しかし、飼い慣らされた鳥言えども結界に守られたこの家のポストに依頼書を入れる事が出来るのだろうか…?
《多分、式だったと思う。 美味そうじゃ無かった》
「…………」
リョクの中で、美味そうと言う基準は色々あるだろう。式ならば必ずと言っていいほど美味しくないハズだ。式には妖魔たちが餌とする生気が存在しない。生きている者にしかない生気を清らかな紙で生み出された式ごときが持っているハズも無いのだ。
「式と言うのは本来、一般人が粗相造り出せる者じゃ無い……って事は依頼者は妖魔師関係、もしくは陰陽師系か……巫女の類か…」
妖魔師を細かく分けて色々な者達も居る。妖魔を斬るのではなく払うと言った考えを持つのは巫女や陰陽師なのだ。陰陽師の場合、滅するなどと言う言葉も使うがやっている事はほぼ一緒だと言ってもいい為、最近ではあまり区別されなくなっている。妖魔師や巫女たちの中ではたまに区別する場合もあると言えばあるのだが。
「いや、そう言う意味で考えている訳では無いぞ、ネコ」
「なっ!? き、聞いてたのかよ! 趣味わりーな!」
「聞いているさ、リョクだって前もって言ってただろ?」
そう言われ、ネコの頭に思い浮かぶのはあの時リョクが前持って言っていた言葉。
『《多分、お前なら話。聞いてくれてると思うから、話すな…》』
そう言えば、リョクはああ言っていた。つまり見ながらも普通に聞いていたのかもしれない。趣味が悪いと言うのは多少ネコの勘違い、思い違いをしていたのかもしれない。
「悪い、忘れてた」
「別に」
さらりと謝ったネコに対して何の感情も寄せ付けない刹那。そのまま普通にリョクに向き直り、静かに口を開いた。
「鳥と言ったな、リョク」
《う、うん》
戸惑いながらも頷くリョク。
鳥の式……。 刹那には少しだけ、思い当たる節があったのだ。
「恐らく、その式は以前、私が作った物だろう」
「なっ!!?」
サラリと言い切った刹那に対してネコは驚きを隠せなかった。式と言うのは本来、人ならざる物を紙などに定着させ、一時期自分の式下に置く術なのである。下手すれば式に殺される場合もあり、そしてそんな式を他人に渡す事なんてほとんどない。あるとすれば何かしらの呪いをかけた紙などであるがその様な仕事は陰陽師か巫女の役割…と言うか得意分野である為、妖魔師はほとんど介入しないのである。
「以前、知り合った奴が居ただろ?」
《! …あの時のあの……!》
心当たりがあったアクラはそのまま頷き、反応する。
「あの人からの依頼だ」
どうやら依頼主は刹那の知り合い。しかも、かなり昔に知り合った者の様だ。
「………どうしようかなぁ……」
珍しく、刹那が困った様に声を投げだした。驚いた様子も無く、アクラはぽふんと軽い音を立てて毛玉から小犬に姿を変える。今回は其方の姿で往く様だ。
《見せて見ろ》
静かにそう言われ、刹那は軽くアクラを見下したのち、相手に分かる様に依頼書らしき紙をアクラに向けて読ませた。ネコにもチラリと見えるが残念な事に小さなアクラの背に隠れてほとんどは見えなかったが、「幸せ」とか「時」と言う文字がちらほらと見えた。これは、一体……?
「なぁ、ネコ」
「?」
不意に刹那が不敵な笑みを浮かべ、ネコに問いかける。
「一緒に来る?」
「………!?」
無言だったモノの、ネコは驚いた様に眼を見開いた。何故ならば刹那が自分を依頼に誘っているのだ。変な解釈をすればデートである。
「往く、どんな依頼かは知らないけど! 行きたい!」
眼を輝かせて頼み込むネコに対して、刹那はまた笑みを浮かべた。
「じゃあ、決まりね」
なんでそんな事を刹那から切り出したのか何てどうでも良かった。今はただ、彼女の凄い技を経験をまじかで見れると言う事だけが嬉しくてたまらなかった。こうして、二人の一時的な契約が完了した訳である。
◇ ◇ ◇
刹那がネコと契約を交わしてから、刹那は少しだけ困った様に頭を悩ませた。どう解決しようか。いいや、本来この様な問題は悩むべき所では無いのだろうが、変な所で悩んでしまうのが刹那の悪い所なのかもしれない。
「困った…」
刹那は自分に当てられた依頼書を見て、軽く息を吐いた。依頼書の紙には細かくびっしりとした文字が刻まれており、文字がぶれている、震えている事から書いた者。依頼書は年配者なのだと一目で理解できた。
《お前が困る事では無いだろ、刹那》
先程依頼書を見たアクラからすればそうなのだ。当たり前の事を告げる様に言うアクラに対して、刹那は軽く睨みつけた。自分が悩んでいる理由を分かってくれないからなのかもしれない。しかし、刹那が困る理由など普通に考えて何処にも無いのだ。
「いや、困るんだ」
アクラの言葉に首を横に振り、ただひたすら、頑なに「困った困った」と告げる刹那。この状況を見かねたビャクは静かに問うた。
「一体。 何に八楠で居るのですか? お嬢さん」
ビャクに問われ、刹那は無言でビャクに「来い」と言うジェスチャーを軽くし、ビャクは言われた通り刹那に元に近づき、依頼書…元、刹那に送られた手紙を見、静かに眼を見開き困った様に笑んだビャク。この表情はどう答えればいいのか、答えを迷っている様に思えた。
「どう思う? ビャク」
「流石に私にも…一体、何を成せば良いやら…」
刹那に問われ、ビャクは困った様に微苦笑した。それにつられたように刹那は追い詰められたのか、顔を軽くしかめる。笑うのではなく、本当に困っている。悩んでいるのだと一目で理解できる。
「おいおい、一体何に困ってんだよ! 俺も依頼書見たいんだけど!!」
ガタリと立ち上がり、ネコは頬を膨らませて子供の様に刹那を睨みつけた。どうやら一人、放置されるのが嫌いらしくその眼は軽く潤んでおり泣きかけている事が一目で理解できる。
「これだ」
刹那はそう言ってネコに対して依頼書を渡し、ネコは普通にそれを見た。しかし、困った事に彼も不思議そうに首を傾げるだけであった。
「別に、困る事じゃ無くね?」
キョトーンとしてそう首を傾げるネコ。刹那は呆れた様に大きく溜息をついたのち、ゆっくりと大きく首を左右に振った。
「無理矢理、と言うのは嫌だ。 お前だって、嫌だろ?」
「…………」
試しにネコは自分とミズキは他人の都合で引き裂かれる様子を思い浮かべてみた。確かに嫌だ。大事な妖魔であるし、唯一自分の見方をしてくれた猫又なのだから。
「確かに、嫌だ…」
俯いてネコは頷いた。嫌な事でも思い出したのだろうか?彼の顔は真っ青を通り越して真っ白になっている。何かしらのトラウマを思い出したのかもしれない為、刹那は「そうか」と言って静かに依頼書を睨みつける様に見た。
雨の日、妖魔を狩っていた時であった彼女… 一般人が立ち入らない時間だった為問題ないと政府は言っていたがどうやら老婆が一人、その路地に迷い込んでしまったのである。老婆は笑い、刹那に手を差し伸べて来た。今思い起こせば不思議な記憶だ。人間は嫌いなのに、彼女の差し伸べた手は何故か取ってしまった。しかし、そんな彼女が何故―――。
刹那の手元に在るのは一枚の依頼書。 そして、そこにはこう書かれていた『旧友を連れ出して欲しい どんな手を使っても』友情を引き裂くのには慣れている刹那であるが、今回の場合は少しだけ話が違っていた為刹那は溜息を吐くしかなかったのだ。
「往くか…」
「何処に?」
回復したらしいネコが不意に頭を上げて首を傾げる。頭の上には大量の疑問符が浮かび上がっている。刹那は呆れた様に溜息をつき、当たり前の顔をして告げた。
「依頼主の家だ。 直接、話を聞いた方が早い」
「知ってるのか!?」
「前に住所を教えて貰った。 家が変わってなけりゃ大丈夫だろ」
涼しい顔で立ち上がり、スマホを軽く弄る刹那。恐らく依頼主にメールで何かを送っているのだろう。暗号化しなくてもいいメールを送っているのだから問題ないハズだ。
「住所は、変わってないみたいだな… チバに行くぞ」
「チバァ!? 隣の県じゃねーか!」
「山奥だからな、お前は一旦内に帰って荷物の準備をして来い。 一時間後に家に来い」
「わ、分かった」
何故駅で待ち合わせでは無いのかと言う突っ込みは置いておき、ネコは大急ぎで家から出て行った。
《セツナ》
「ん?」
下から不意に声が聞こえ、刹那は不思議そうに声の主、リョクを見た。
《良かったのか?》
「あぁ、別に家でやった方が早いからな」
《そっか…》
刹那は静かに立ち上がり、奴が飲んでいった紅茶のカップを流し台に置き、水を流した。静かな水音と食器が重なる音などが軽く響いたのち、刹那は軽く傍に懸けてあった白い清潔そうなタオルで自分の手を拭いた。
「リョク、お前はココに居な」
《うん。 いってらっしゃい、セツナ》
「菓子は戸棚に何時も取りある、好きなだけ食べればいいさ」
《! ありがと! セツナ!!》
リョクは嬉しそうに笑い、刹那に向かって手を振った。ビャクは不思議そうに首を傾げるが、何も言わずに刹那の後に続く。無論、アクラも刹那に追い付いたのち、肩に軽く乗っかって移動する事となった。
◇ ◇ ◇
刹那が次に足を止めたのはとある倉の前だった。刹那の家には代々受け継がれている術の掛けられた貴重な道具が存在する。その中に入る為の結界の鍵は代々犬神と共に受け継がれており、外部からの侵入を簡単に阻止するのである。その為、泥棒などが入ろうとも無駄な事であり危険な物を集めたりなど色々な我楽多に等しい物が入っているのである。
「ねぇ、アクラ。 〈水面鏡〉って何処だっけ?」
《〈水面鏡〉か……? 確か―奥の方に置いた様な…》
「置く… ビャクはそこで待ってて」
「承知いたしました」
小犬の姿をしたアクラを置いておき、刹那は静かに歩き出した。倉と言っても結構な広さであり、術により更に大きく大きく空間が歪んでいる為か奥に行くにつれ、犬神の力を持つ者しか入れない様になるのだ。
「これか…」
刹那がそう言って取り出したのは小さな陶器の瓶の様な物。蓋は細長線の様な物で閉められおり、先っぽは白く丸い飾りにより密着しているか分かる仕組みである。刹那は〈水面鏡〉だと言い張る物を片手に先程来た道を戻り始めた。
《あったか?》
「あぁ、あったぞ」
刹那は静かに頷き、片手に持っていたあの陶器を見せた。アクラは静かに頷き、たんっと軽く地面を蹴って外へ誘導する。刹那は誘導されるがままに外に出、倉から出た所で倉の扉を閉め、倉に昔ながらの南京錠をかけた。そして次に自分の手でその南京錠に触れ、静かに軽く妖力を流した。すると、カチャリと言う音が小さく聞こえ、刹那はその南京錠から手を放した。
「お嬢さん、これは一体…?」
「そう言えば、ビャクは見るのは初めてだったよね」
契約してから日が浅いビャクは見るのは初めてだろう。この南京錠は三代目お手製のちゃんとした術の掛けられた道具…術具なのである。
「これは私のご先祖、三代目が作った南京錠でアクラの妖力を使える者にしか開ける事が出来ないって言う防犯対策の鍵な訳」
「ほぉ……」
「開けられたとしても、この倉自体が三代目お手製だから〈犬神使い〉以外が入ると瘴気にやられてね、入り口辺りでも普通の妖魔でも一分は持たないよ」
だから刹那は自分に待つように告げたのだと分かり、ビャクは納得した様に頷いた。確かに完璧とも言っていいほどの防犯対策と言えた。
「そして… お嬢さん、其方は?」
「あ、これね。 これが〈水面鏡〉って言う此方もまた三代目が造り出した術具簡単に言えば移動用の術」
「移動用……?」
刹那は静かに「そ」と言い、説明を続けた。
「この〈水面鏡〉は水を鏡にして水のある所に移動できる訳、ただし一回使うと十二時間は使えないって言うリスクはあるけど、問題ないでしょ?」
「確かに。 その程度のデメリットでしたら、さほど問題ないかと思われます」
コックリと頷いたビャクに対して笑みを浮かべた刹那はそのまま言葉を続けた。
「デメリットと言えば、もう一つだけあるんだがな」
「?」
刹那の言葉にビャクは不思議そうに彼女を見る。刹那は言葉を続けたまま、あの〈水面鏡〉だと告げている陶器の蓋をきゅぽんっと開けてしまった。すると、どういう事だろうか?〈水面鏡〉と言われる物から、薄い煙の様な物が上がって来た。その煙はふわりと刹那を包み込む様に移動する。まるでその煙は生きている様でもあった。
《久しぶりじゃのぉ…… 刹那》
「えぇ、久しぶり。 〈水精霊〉」
「〈水精霊〉……?」
ビャクは不思議そうに首を傾げた。〈水精霊〉と言うのは誰もが知る、〈四精霊〉の一角を担う精霊であり、しかしあの様な姿は妖魔であるビャクも知らなかった。妖魔師と接していなかったからかもしれないが、だが大概の〈水精霊〉と言えば美しい女の姿をしていると言う。体は水であるのだが。
《その名は止せ、童からしてみればその名はタダの種族名手じゃ。 何時も取り、水鎖と呼ぶと良い》
「そう? じゃ、そうする」
素直にそう告げる刹那に対して水鎖と名乗る〈水精霊〉は「良い子良い子」と言う様にその煙の様な体で刹那の頭を軽く撫でる。
「それで水鎖、今回なんだけど――」
《また移動じゃろ? 何処が良い?》
「チバの山奥の人目の無いなら何処でもいいわ。 そこからは歩くから」
《分かった。 しばし待て、ちょいと探してくるからのぉ》
妖艶に笑った水鎖はそのまま水蒸気に溶けた様に消えた。
「消えましたけど……」
「探しに行ったの。 ビャクは一旦、戻ってて」
「承知いたしました」
懐から堤時計を取り出し、刹那は見せた。ビャクは素直に消え、恐らくその堤時計の中に戻ったのだと思われた。
《刹那、お前服はどうする?》
「このままで行こうと思ったけど?」
《………着替えて来い。 普通の私服にな、ズボンでいいから》
「分かった」
アクラに堤時計を預け、刹那はそのまま家の中に入る。頭の上に堤時計を置かれたアクラは落胆の溜息。依頼主と会うのに、学校の制服で往くか?普通。なんて思ってるハズだ。
◇ ◇ ◇
「おっ待たせ――!」
「遅い、十秒遅れだ」
「遅い!!? 十秒遅れが遅い!!?」
刹那の異常な言葉にネコも唖然。しかし、アクラは慣れているので何も言わない。
「そう言えば、そんな堤時計って持ってたっけ?」
刹那が持っているのはビャクが宿っている堤時計。確かにあまり見せた事は無かったハズだ。
「持っていた。 一々突っかかるな」
刹那は嫌そうにそう言ったのち、静かに立ち上がり〈水面鏡〉を取り出した。「なにそれ?」とネコが問うが刹那はガン無視を貫き通した。
「水鎖、どうだ?」
刹那は独り言とは思えない独り言を吐いた。一瞬であるがネコは刹那が頭がおかしくなったと思ってしまったがそれは無いだろうと思い込んで抑え込んだ。しかし、反応は一切ない。これは一体…?
《うぬ、あったぞ 人目につかぬ、水溜りがのぉ》
煙の様な物が刹那を包み込み、声を奏でた。刹那は静かに「そうか」と述べたのち、静かに下を指さした。
「水鎖、頼むぞ」
《はぁ~い あ、今宵はその者も連れてぇ?》
「あぁ」
《うん~ 分かったぁ~》
水鎖はコロコロと表情、言葉遣いを変えながらもそう告げる。彼女の言葉遣いがコロコロ変わる理由はずっと時代に合った言葉遣いをして来た為だろうと刹那は推測している。この〈水面鏡〉はずっと、大昔…三百年くらい前までも存在していたかもしれないぐらいに古い強力な術具なのだから。
水鎖は静かに自分の体を円状に造り変える。煙が地面で円を描き、その描いた円の中で不思議な事に水が溢れ出した。これこそが水鎖が〈水面鏡〉だと名付けられた理由であり、今も尚その力を持つ所以であった。
「堕ちろ、ネコ」
「え? 落ちろ?」
「あぁ、堕ちろ」
「え―っと… 何か嫌なんだけど―――…」
困った様に遠目をするネコに対して、刹那は問答無用で彼の背中を蹴った。無論泥が付かない様にしてはあるが、多少ついてしまった事は不可抗力として頂きたい。クッキリとついていないだけマシな物だろう。
「ぎゃぁあああああああああああああ!」
断末魔の様に叫ぶネコが落ちた〈水面鏡〉は少しだけ面白そうにクスクスと笑いながらも刹那に訴えかけた。
《面白い子ねぇ~ 今時珍しいんじゃない? 妖魔の名を持つ子なんて》
「そうだな、確かに珍しい」
刹那はあっさりと返したのち、アクラを抱き抱えてその〈水面鏡〉に足を落した。この〈水面鏡〉は水溜りの様な水が目視できる所にあれば何処にでも移動できる反面、移動最中はまるで高度何千メートルから落とされたような浮遊感に会うのである。刹那はもう慣れてしまったのだがネコからすればこれは絶叫系アトラクション以上の怖さであろう。
◇ ◇ ◇
「おわっ!」
先に〈水面鏡〉に入ったネコがたどり着いたのはとある水溜りの外。不思議そうに辺りをキョロキョロと見渡してココが山奥である事に気付く。
「ってか何処だよココ!!!」
行先すら聞いておらず、ネコは唖然と叫び散らした。何処かの山奥と言う事だけは理解できる。だが、それ以外は理解不能!訳が分からないのである。
「ってか何で俺、水溜りから出て来てる訳?」
そう言って己が出て来た水溜りを覗き込むネコ。しかし、次の瞬間ネコの顎に跳び蹴りが喰らわされる!
「うげぇ!」
いきなりの顎への跳び蹴りに対してネコは思わず変な悲鳴を上げて地面に転がる。「がぁあああ」と苦しそうな声を上げる中、その足は悠々と水溜りの中から出て来る。
「全く、顔を突っ込むなと言っただろ、あれほど」
《確かに言っていたがあの中じゃ聞こえなかったと思うぞ? 刹那》
現れた刹那は「やれやれ」と言う様にネコの見下している。対するネコは何時もの突込みは無く、あごの痛みに必死に耐えている。容赦のない一撃を繰り出す刹那に対してアクラは同じように「やれやれ」と首を振る。ずっと一緒に居るから慣れてはいるのだが、やはり気の毒だと思ってしまう。
「…白黒」
小さな声で真の名を呼べばビャクは瞬く間に真後ろに現れた。フッと気配が現れアクラは軽く警戒した様に其方を見、低く唸った。
「ビャク、隠形を頼む」
「隠形、ですか……?」
「出来ないのか?」
不思議そうに問いかける刹那。ビャクは困った様に微苦笑をする。
《お前が隠形を頼むなど珍しいな、刹那》
「今回は警戒されるから念の為、出来るか出来ないのか、どっちだ? ビャク」
答えを尋ねられればビャクは「愚問ですね」と言う様にまた笑みを浮かべた。
「私にお任せ下さい。 お嬢さん。 隠形は案外得意分野ですので」
「そうか。 頼んだぞ」
「御意」
ビャクは指を軽く鳴らして姿を歪めて消えた。
隠形と言うのは呪術を用いて自分の姿を見えなくする方法である。ビャクの場合は自分の周りの空間を歪めて見えない様に軽い幻術をかけているのだろう。刹那にもぼやけてしか見えない為、とても強い隠形だろう。普通の妖魔師ならば見えないだろう。力の強い妖魔ならば見えてしまうだろう。力を封じられているとはいえ、下手すればアクラにも見えているかもしれない。
「起きろ、ネコ。 行くぞ」
「~~~っ! 分かったって!」
ネコは痛みをこらえながらも起き上り、刹那の後を追った。
イナイ者とされるくらいなら、誰でもいいから必要とされる人間に成りたかった。人間に成る為に、全てを偽るんだ―――…。
◆ ◆ ◆
刹那の後を追ってたどり着いた場所は大きな屋敷だった。正確にはまだ屋敷の中には入っていないのだが、柵のおかげで屋敷の規模がかなり目に見えて巨大に見えた。唖然と顎が外れた様に口を開けるネコに対して「閉めろ」と命令した刹那であったがネコからすればそれは無理な話。口を開けたまま首を横に振って否定の意を見せた。
「往くぞ、ネコ」
そう言われても尚、ネコは足を進める事は出来なかった。こんな屋敷に一度でも入った事が無いのだろう。慣れているか否かの差だと理解した刹那は軽く〈言霊〉を放った。
「ついて来いネコ」
〈言霊〉を放ったため、ネコは素直に足を上げて歩き出す。正確には刹那の後を付いて行っているだけであるが。刹那はそのまま大層なお金持ちが住んで居そうな屋敷の門を平然と潜った。潜った時、ネコが軽く涙目で叫んでいたのはガン無視を貫き通して終わった。
《かなり大きなお屋敷ですね、アクラ卿》
《隠形中だろうが、喋んな!》
刹那の後を追っているアクラを軽く見下して話してくるビャク。アクラは怒った様に言い返すが、ビャクからすればどこ吹く風。全く気にする様子も怒られたと認識すらしていなかった。
《喋るなを言うなら貴方もでしょう、アクラ卿》
《俺はいいんだよ、聞えねぇから》
《私の声も普通の人間には聞こえないと思いますが?》
《依頼人はお前が見えないがお前の声は聞える》
《何故、その様な事が?》
隠形や何かしらの術を使っている妖魔の姿は普通の人間には見えない。上級妖魔であれば声すら聞こえないのである。ビャクの場合は普通の妖魔よりは強いけれど上級、アクラよりかはずっと弱い妖魔である。だから常に強い妖魔と居る人間には声が聞こえてしまうのである。因みにこの会話、ネコには聞こえていない。聞える様にしてすらいないのだ。
長年ずっと、かなりの間一緒に居なければ隠形などをしている妖魔の声を普通の人間は捕える事は出来ないのだ。依頼人は大概愚かな人間だと承知しているビャクからすればアクラからの返答は意外な物と言えよう。
《アイツはな、気を抜いていたとはいえ… 俺の言葉を聞いたんだ》
尻尾を軽く振ってそっぽを向いたアクラ。気を抜いていたとはいえ、上級妖魔であるアクラの言葉を聞いた依頼人。ビャクは驚いた様に眼を見開いたが、すぐに妖艶な笑みを浮かべた。
《では、其方を信じて―――私は黙る事といたしましょう》
にこやかに笑ったビャクはそれから喋る事は無かった。刹那はまる聞こえだろうが何も言わずに涼しい顔で目的地に向かっていた。慣れと言う奴は非常に恐ろしく、ビャクは小さくまた笑みを浮かべていた。
◇ ◇ ◇
目的地の目の前、刹那は足を止めてネコにかけていた〈言霊〉を回収した。〈言霊〉を打ち消す方法はかけられた〈言霊〉と真逆となる相殺し合う〈言霊〉を放てばいいいのである。刹那は「ついて来るな」と〈言霊〉を放ってそう言った為、言霊は打ち消し合いネコの体は〈言霊〉の束縛から解放されたのである。
解放されたネコはその反動で地面に尻餅を打ったが目の前に立っている屋敷にまた腰を抜かしてしまう。それを見て刹那は若干後悔したのだが、慣れさせるいい機会だと思い何も言う事は無かった。
軽くインターホンを押し、刹那は静かに依頼主を待った―――。




