一期一会 オープン準備室
まあ、たまには膝を交えてお話でもしましょう。今、自分は、寝室から、ケータイの画面を見つめながら書いていますが、そちらは、パソコンの画面でしょうか? それともモバイルですか?
今、部屋の中の中は薄暗く、ディスカバリーチャンネルの画面と自分の間に煙草の煙が、揺らめいている。呼吸する度に、煙は攪拌されて、不思議な揺らめきを画面と自分の間に描いて見せている。
仮想のリアルな空間を造りましょう。ここは、安い場末のバーのカウンターです。小さく薄暗い店内で、二人で、カウンターに並んで、さっきから語り合っている。窓からは、隣のビルの電飾板の光が、赤く青く、店内をうっすらと交互に照らし出している。小雨が降り始めてきました。無口なマスターは、ハンサムな三十代の青年だが、あまりやる気がないようで、椅子に座り、俯いているだけ。少し、アル中の傾向にあるようだ。長髪がバッサリと顔面に垂れた姿は、まるで良くできた精巧な人形のよう。仕方ないので俺がカウンターの中に入り込んで、向かい会う。今、居眠りしているマスターの代わりに、俺の顔が見えている。汚い中年男だが、この男は長身で、妙に目に吸引力がある。さあ、気が向いたなら、ボツラボツラと、話しましょうか?
「何をのみます? 水割り? 烏龍茶? カクテルを作りましょうか?」
俺? 奢ってくれる? そうですか、ありがたい。じゃあ、アーリータイムズをロックでいただきましょう。
リラックスしてください。何でもお話は承ります。店内にはアル中で居眠りしているマスターと、自分との三人しかいない……。
エロ話でもしますか? 真面目なお話をしましょうか?
有線放送の音楽は消しましょう。外を走る車のエンジン音やクラクションの音が小さく、聞こえてきました。車のエンジン音が、かえってこの店の沈黙を際だたせて来ている。照明も落としましょう。俺の眼下が、暗闇よりも、一層、黒く浮き上がって見えている……。
黙り込むカウンタースツールのお客様、今、心の中に何がありますか?
時には、こういう場末の小さなバーで、お互いに黙り込みながら、ボツラボツラと、ゆっくりと話しあうのもいいもんです。
さっきから雨が降り始めてきましたね。雨足が強くなり、窓に水が流れている。電飾板の七色の光が、窓ガラスに映し出されて、今、この瞬間にも、無数の光の筋が、流れ落ちていく……。
「……そうですか。そんなことがあったのですか。自分には分からないことですが、お話、聞くことだけはできますよ」
バーボンの匂いが薄く立ち込めてきて、匂いを透かして見る俺の姿が、また別のニュアンスで、見えて来ているでしょう。アルコールの匂いを透かして眺めると、カウンターに立つ中年男は、いっそう、うらぶれた中年男のように見える。どこか、崩れた印象のオヤジにすら、見えて来る。ダークなスーツを来ているが、アルコールの匂いを透かして、始めて、俺が安物のヨレヨレのスーツを来ていることに輪郭から、気がつく。
お客様、アルコールの匂いから、心の奥底にある何かに、光が灯る。光は不思議な光芒を曳いて、お客様の頭蓋の中に点滅し始める。
「……そうですか。今の呟きの背景は分かりませんが、真実の思いであることだけはわかります」
さあ、飲んでください。水分は人をリラックスさせますし、アルコールは天の美禄です。楽にしてくださいな。
コンクリートの床からは、少し冷気がせり上がってきています。夏だというのに、足元は冷えないですか? 申し訳ない。煙草を吸わせていただきますね。いやあ、煙草、近々、止める予定なんですがね。なかなか、……。換気扇のスイッチをいれます。古い換気扇ですね。換気扇の音が、せり上がるように、店内に響き始める……。外の車のエンジン音も窓ガラスを叩く雨の音も消失しました。
「…………」
「…………」
やっと、また、呟いてくれましたね。ありがとうございます。いや、おれも色々とあったわけです。嫉妬と未練と憤怒と……そういった感情はいつも、心の中で入り乱れて点滅していますよ。色々ありましたが、興味があるのは、お客様の方の心の中の光の点滅です。大きなお世話ですが、壁に向かって話すよりは、いいかもしれませんぜ。
……なるほど。本質的に真面目な方なんですね。それくらいは、分かります。おどけることもあるが、常に脳裏の片隅には鮮明な空間を持っている方だと、拝察いたします。間違っていたら申し訳ないですが……。
まあ、飲みましょうよ。俺も少し、いい具合に回ってきたところです。お冷やはいかが?
……なるほどねえ。勉強になりますよ。誰にでも専門分野がある。お皿を洗う作業ですら、実は高い専門性がないと、厳しいものですよ。簡単なことなんて、世の中には無い訳ですね。
まだまだお話したいのですが、マスターもそろそろ、目覚めるでしょう。このマスターも、実は古くからの友人なんですぜ。酒に溺れたのには、原因がありますが、原因は、興味あるなら、本人なら聞いてくださいな。
さあ、そろそろ、お互いの部屋に帰りましょう。ここは、仮想空間ですからね。
気がつくと、ディスカバリーチャンネルの番組が変わっている……。安い箱型テレビのブラウン管に映し出される煙草の煙も今は静止して、ゆっくりと、揺らいでいます。
そちら様も、モバイルやパソコンの画面に帰ってきたようですね。
短時間でしたが、この語らいはわすれませんよ。袖すりあうも多生の縁。一期一会です。お互いに、また、毎日を凌いでいきましょう。ご健闘をお祈りいたします。
*実は居眠りしているアルちゅーのマスターは、若い頃の自分を想定してかきました。
新しく開店するバーでも、30歳くらいの時の自分に、カウンターの端で、無口にひたすら、飲ませてやるつもり。