五章 “国崩しの竜”
一気に村の雰囲気が変わった。
何をするでも無く惚けているだけだった村人たちが、鳴き声が聞こえた瞬間両掌を合わせて何事かを祈り始めたのだ。
それは異質な光景だった。
村人たちは皆が皆頭を足れて、そして涙を流しながら鳴き声が聞こえた方向に向かって一心に祈っているのだ。
それはどこか宗教染みていたが、しかしそれは神の降臨を尊ぶ人間の表情ではない……終わりを向かえる顔だった。
「な……何だ!?」
「ケント!見てください!!」
フィニが促した方を見る。
すると、そこには山と見紛うほど巨大な生物の姿があった。
いや、今まで遠くに見える山だと思っていたのだろう。
それが見る見る内に大きくなり、やがてその姿の全容を現した。
それは竜と形容すれば良いのだろうか、それとも別の何かだろうか……
極めて猟奇的な鋭い牙がずらりと並ぶ巨大な口を広げた“そいつ”は、羽撃けば辺り一面を吹き飛ばしそうなほどの広大な翼を広げ、天を向いて一度大きく鳴き上げた。
「ハハ……なんだよ、アレ……」
自然と口から笑い声が漏れた。
人は恐怖の限界を超えるとむしろ笑えてくると誰かから聞いた事があったが、まさか体験するとは思っても見なかった。
足が諤々と震える……咆哮によって震えた空気の振動は容赦なく俺の体を叩き付け、逃げなければならないという考えすらも押し込めさせてしまう。
一瞬、あの竜に踏み潰されて死ぬ光景が克明に頭に思い浮かんだ。
「ケント!しっかり!!」
今にも気を失いそうな俺の意識を踏み留めさせたのはフィニの声だった。
フィニも泣き出してしまいそうな表情で俺の服の袖を摘んでいる。
「あれは私の世界でも生息しているカレイプスという種のドラゴンです。あの巨大さと、一匹で国に甚大な被害を起こす事ができるほどの強靭さから『国崩しの竜』と呼ばれています。」
しかしフィニは気丈だった。
なんとか俺を落ち着けようとしているのか、震える声で目の前の巨大な竜について教えてくれる。
フィニ自身も、そう口にする事で怯えている自分を必死に鼓舞しているようだ。
そのおかげで、俺は何とか冷静さを取り戻す事が出来た。
「ああ、ありがとうフィニ。」
落ち着く事のできた俺はフィニに礼を言う。
「いえ……それでケント、どうしましょう?」
フィニが問うているのは逃げるかどうかということだろう。
どういうわけか、この村の人間は誰も彼もが全てを諦め、あの竜に踏み潰される事を受け入れているようだ。
それに、あんな生物を相手に立ち向かえるとは思わない……
「……っ!!!」
「ケント!?」
しかし俺は見つけてしまう。
ついに村を踏みつぶせる位置にまで差し掛かったカレイプスの足下に、死にたくないと泣きじゃくりながら母親であろう女性に必死に縋りついている女の子を。
フィニの声すら耳に入らず、俺は全力でその親子に向かって走る。
幸いな事に、何とか親子が踏み潰される前にカレイプスの間に躍り出ることが出来た。
同時に俺ごと親子を踏みつぶさんと足を振り上げるカレイプス。
あれ?女の子が傷付かないために割り込んだは良いけど……どうやって助けんの?
もしかして、俺……ここで死ぬ?
「う……ぉぉおおお!!!!!」
死のイメージを頭から叩きだした俺は声を張り上げて守るように両手を広げる。
たとえ俺が死んだって、女の子だけは傷付けさせないために。
だが、どうやら神は俺の事を見捨ててはいなかったらしい。
まあこの世界の『神』ってアレだけど。
「≪守れ≫!≪弾け≫!」
フィニの澄んだ声が響き渡った。
俺を踏み潰さんとしていたカレイプスの足は見えない壁に阻まれたように止まり、そして押し戻されるように足を弾かれたカレイプスはたたらを踏む。
「ケント!大丈夫ですか?」
「あ、ああ……た、たす、助かった……」
自分が助かったという実感が湧かなくて、俺はしどろもどろになりながらフィニに返事を返す。
フィニはその様子を見て、安心した表情を作る。
「ケントは優しいですね。」
フィニは俺を見てそう柔らかく微笑んでいった。
そんな仕草に俺は思わず心臓が跳ね上がったが、しかしそんな場合ではないと思い直す。
カレイプスは足を弾かれた事で崩した体勢を持ち直し、新たに現れたフィニを邪魔者と認識したようで、再び踏み潰さんと足を振り上げた。
「ごめんなさい。」
フィニの呟きは小さくて、それは隣にいた俺にしか聞こえなかっただろう。
今にも泣き出しそうな表情で、しかししっかりとした意志を持ってカレイプスを見つめるフィニの表情を見る事が出来た俺にしか……
「≪倒れなさい≫」
瞬間、カレイプスは何も無い空間で足を踏み外したようにひっくり返る。
ドシン!という衝撃が襲い地面が揺れたが大した事は無い。
「本当にごめんなさい……」
最後にフィニはさらに小さくそう呟き、そして……
「≪消え去れ≫」
その光景は衝撃だった。
カレイプスがまるで空気に溶けていくように消え去ったのだ。
サラサラと砂が舞うように体が欠けていくカレイプスの姿はやがて完全に消え去り、後には影一つ残らなかった。