三十八章 “トールの実力”
落ち着いた……落ち着いたけど落ち着かない。
それもそうだろう、未だ周囲には幼生のエインゲンバー達が突撃姿勢で固まっているのだから。
トールの『後唱法』というらしい詠唱のルールを外して考えると、先程のトールが発動した魔術の詠唱は【悪魔よ】【停止を求める時空の理】【襲撃者の動きを止めよ】となるわけだ。
考えるに、発動された魔術は対象の時間を止める魔術……言霊ほどじゃないが、これはこれでチートじゃないか?まあ言霊だったら≪止まれ≫の一言だけどさ。
「まあ良いわ。とりあえず悪魔術を解除する。そこを退け。」
どうやら『悪魔術』というらしい。
「解除したら……」
再び動き出す幼生のエインゲンバーを想像し、俺は慌ててフィニの腕を掴んでその場から離れる。フィニは驚いた様な声を出しながらも、俺と同じ想像に至ったのか、文句を言う事もなく俺に付いて来た。
「ふん。」
トールはつまらなさそうに鼻を鳴らし、指をその場で振った。その瞬間、まるで弾丸のように幼生エインゲンバーが一点に集中して突進を開始する。もし動かずにいたら、体に風穴が開いたんじゃないかと思えるほどの威力で。
「逃げるのは至難の業じゃな。仕方ないのぅ。食うか。」
子供を食っちゃいけないんじゃないの?
「緊急避難と、後で言い訳できるようにせんとの。」
トールはニヤリと笑って見せた。
それで気付く。トールはこの状況が欲しかったのだと。
トールが食いたかったのは通常のエインゲンバーではなく、その子供、幼生のエインゲンバーを食したかったのだ。
だが、ルヴィス帝国の法律で成獣以外を狩る事は禁止されている。だから、殺さざるを得ない状況が必要だったのか……
「お主ら、証人になるじゃろ?異国の旅人なれど、国家の客人となればのぅ。」
「知っていたんですか?」
なんと性格の悪い事だろう。
流石は思考を縛る話術の使い手だ。
「まさか、魔術に関して素人だとは思わなかったがの。」
そこは苦虫を噛み潰す様な苦渋の表情で言う。よほど悔しかったのだろう。
「さて、ゆっくり会話しておる時間は無いぞ。」
そのトールの言葉通り、のんびりしている時間など無い。突進を外した事を理解した幼生のエインゲンバー達が、クリクリした可愛らしい目でこちらを睨みながら、再び突進を開始しようとしているのだから。
フィニの気持ちとか、悪魔術とか、トールの策略とか、エインゲンバーの肉の味とか、フィニはやっぱり可愛いな~とか、考えたい事は一杯あるのに……
考える事が多過ぎて、駄目人間の脳味噌はパンク寸前です。いくつか考える必要のない物もありそうだけど、気にしない気にしない。
「クク……幼生のエインゲンバー、どんな味がするんじゃろうなぁ。楽しみじゃ。」
トールが薄汚いボロ布のような服の袖で口元を拭う。涎に土の色が混じって余計に汚くなった感がある。良い子には見せられない汚い大人の姿だろう。物理的な意味で。
ただ、生き物を殺すなんて、それもこんな(見た目だけは)可愛らしい子供を殺すなんて、フィニにとって辛い事なのではないだろうか……
そう思って俺はフィニを見る。フィニはいたって普通の表情をしていた……あれ?
「フィニ、平気なのか?」
人に害をなすカレイプスを消し去った時でさえあれほどの涙を流したフィニが、どうして幼い生き物を殺そうとしているトールを見て平気でいられるのか……
考えたいけど、考えていられない。
十数匹の幼生エインゲンバーが一斉にトールに向かって飛び掛かった。
「ワハハハァ!!!」
トールは機嫌良さ気に笑うと、自身も幼生エインゲンバーの突進の中に自ら突っ込んで行き、そのまま背後まで駆け抜けた。
それは刹那の閃き。特技動体視力の駄目人間こと俺の目にさえ、閃光が糸状に走ったようにしか映らなかった。
チン、とトールは武器など持っていないのに、刀を鞘に戻す時のような音。次いだズザーという地面を抉る音は幼生のエインゲンバーが地面に着地した音だ。
「え?」
フィニは何が起きたのか分かっていないのだろう。不思議そうな声を出す。
バサッという音が遅れて聞こえ、幼生エインゲンバー達は一匹残さず首筋から真っ赤な鮮血を噴き出してその場に崩れ落ちた。
「さて、鮮度が命じゃ。早速食うとするかの。貴様らにも食わせてやるぞ。依頼達成の報酬じゃ。」
と、トールは良い笑顔でそう言うのだった。
色々と考えたい事があった俺だったが、この時だけは思わず生唾をゴクリと飲み込んでトールの言葉に頷いたのだった。